第9話 かがり火の夜
やっと家を出られたのに、僕の足取りは重かった。
「キマイラなんて、いなければよかった」
もうすっかり暗くなった夜道の中、おばさんの言葉が、心の中で何度も繰り返される。
誰もが幸せに暮らせる国にするため、そう言われて頑張ってきたのに。そりゃ確かに負けちゃったけど、でも、でも、それだって僕らが弱かったからじゃなくて、第二王子が東に寝返って国王と第一王子を捕まえちゃったからで――
「早く! 始まっちゃうよ!」
「待ってよー」
考えに気を取られて立ち止まっていた僕の隣を、子供たちが走りながら追い越していった。その後ろを、「そんなに走ると転ぶわよ!」と笑いながら親だろう人が歩いていく。
——あれ? 何か……おかしくないか?
顔をあげて、辺りを見回す。
僕と同じくいつもよりいい服を着て、ふざけ合って歩く人たち。互いにしなだれ合って歩く、見るのがなんだか恥ずかしくなってしまうような二人組。
みんな、楽しそうに見えた。
――なんで?
水がないからみんなご飯がなくて、だから東のメドルグハンに勝って地下水脈を返してもらわなくちゃいけないって……そうしなきゃずっと貧しくて、不幸な人が沢山いるままだってローは言ってた。
でも、ジャルガルは地下水脈の話は嘘だって言ってて……そして、戦争には負けたのに、みんな前より楽しそうだ。負けたらみんな奴隷にされるか殺されるかだ、ってローは教えてくれたけど、全然そんなことにはなってない。
昔の僕のように、路地裏でお腹を空かせているような人も、少なくともこの村では見かけていないし。
――じゃあ、なんで僕は戦ってたんだ?
わけがわからない。ローは間違ったことなんて言わないはずなのに。でも。じゃあどうして、こんなことになっているんだろう。
体中が、嫌な感じにざわざわする。僕が正しいと思って、それしかないと思って進んできた一本道は、もしかして、全然そんなことなかったんじゃないだろうか。
何が本当なのかわからない。晩秋の冷たい風が心の中までぐちゃぐちゃにしていくようで、僕は袍の襟元を合わせた。みんなと同じ方向に、足早に歩き始める。
この先にいるであろうジャルガルに、早く会いたかった。勝手に家を出てきたのがバレたらきっと怒られるけど、もうそれでもいい。どうしてローじゃなくてジャルガルなのかは自分でも分からなかったけど、ジャルガルならきっと、「なに馬鹿なこと言ってるんだ」って、僕のこの気持ちを吹き飛ばしてくれる気がした。
人の数は、市場の方に近づくにつれ増えていった。ずっと聞こえてきていた音楽も、いよいよ大きくなっている。
ジャルガルの匂いを追って進んでいくうちに、市場の真ん中に大きなかがり火が作られているのが見えてきた。パチパチという火の爆ぜる音と、それに混ざって爆竹の音も聞こえてくる。
——そう言えば、人形を燃やしたりする、っておばさんが言ってたな。
確か、終戦の時に処刑されたのは、宣戦布告した国王と、第一王子のはずだ。背伸びして人ごみの中から首を出すと、かがり火の上に突き出した棒から、果たして首をつられた人形がぶら下がっているのが見えた。集まった人たちが、「統一万歳!」「メドルグハン万歳!」と爆竹を投げつけている。
「うわぁ……」
死んだ様子を何度も再現して喜ばれるなんて、きっと余程嫌われているのだろう。戦争中はみんな「国王万歳!」って言ってたのに。みんな嘘つきばっかりだ。気味悪く思いながら眩しさに目を細めた僕は、不思議なことに気が付いた。
——人形が、3つある。
1つは髭もじゃだから国王だろう。似てないけど。もう1つは赤い服だし、多分第一王子だ。やっぱり似てないけど。もう1つの、西の軍服を着た人は誰だろう。炎に巻かれて細部は分からないけど、長く黒っぽい髪が燃えている。
いや、本当は、僕だって、見た瞬間に分かっていた。
ただ、認めたくなかった。
——ローの人形が、燃やされているなんて。
「終戦万歳!」
群衆の一人が投げつけた爆竹がローの人形に当たり、火の中で爆ぜた。その瞬間、僕の中でぷつんと何かが切れた。
「やっ……やめてよっ!」
叫んだ僕の手から爪が伸び、視線が低くなる。頭から角が生え、羽と耳が飛び出す。窮屈になった服が、悲鳴のような音を上げて裂けていく。
「ローが……ローのッ......! なんで! なんでみんな、ローのこと、そんなっ……!」
キマイラの姿になった僕は尻尾を振って大きく跳びあがり、今しがた爆竹を投げつけた男を押し倒した。
なんで。ローは僕の馭手で、何でも知っていて、正しいことをしてきたはずなのに。誰よりも強い英雄って、みんな言ってたじゃないか。なのにおかしいだろ。なんで現実は教えてもらったことと違うんだ。なんでこんなところで見世物にされてるんだ。
怒りに身を任せて爪を振り上げる。声すら出せない、目を見開いた表情は見慣れたものだ。
「やめろ!」
だが、押し倒した男を切り裂くはずだった僕の爪は、割り込んできた男の魔法とぶつかり、彼の腕を切りつけただけに終わった。
障壁の割れる甲高い音に叫び声が上がり、人々の足音が入り乱れる。
「ジャルガル!」
「馬鹿お前、なんで出てきた!」
割り込んできた男――ジャルガルは大声を上げ、杖を持った手で僕の前足を引っ張った。
「だって、ジャルガル……」
「クソが! いいから逃げるぞ!」
パニックになる人々を押しのけ、突き飛ばしながら走る。憲兵の怒鳴り声や逃げ惑う人の叫び声を聞きながら、ジャルガルの後を追って僕はいくつもの角を曲がった。どんどん人の喧騒が遠くなっていく。
「ねえジャルガル、なんでローが燃やされてるの、あれって処刑された人なんだよね、ねえ、じゃあ、ローはもう――」
「いいから!」
叫んだジャルガルは、ちらりと後ろを振り返った。それから、僕をキマイラのままでは入るのがやっとの路地裏――というか、家と家の間の隙間――に押し込む。
「よくないよっ! なんで黙ってたんだよ! 知ってたんだろジャルガルは! 僕達が――」
「あああああうるせえ! 黙れ!」
焦った顔のジャルガルが僕の角を引っ張った。
それでも更に言葉を続けようとした僕の口が、ジャルガルの唇で塞がれる。
「……っ!」
驚いた僕が動けずにいると、僕の頭を抱えこむようにしてジャルガルはさらに強く唇を押し付けてきた。
——え、何。何が。何を。
頭の中が真っ白になる。憲兵たちが路地の向こうを走っていく音が、ひどく現実味のないもののように聞こえた。
その足音が遠くに消えてから、ジャルガルはゆっくりと僕から顔を離した。
「いいかノカイ、まずは――まずは落ち着け。静かにしてくれ、今見つかったら終わりだ。は、話は後でしてやるから」
僕の角を握りしめるジャルガルの手から、震えが伝わってくる。いや、もしかしたら僕自身の心臓のせいかもしれない。とにかく、先ほどまでの怒りはどこかに吹き飛んでいたし、代わりに全身が破裂しそうなほどにバクバクしている。
「わ、わかった……」
頷くと、「よし」とジャルガルは目を閉じ、大きく息を吸った。ゆっくりと息を吐き出し、気合を入れるように顔を叩く。それから黒い上着を脱いで、僕の背中にかけた。
「それじゃあノカイ、ひとまず人間の姿に戻ってくれ」
「うん」
「多分……多分だけど、暗かったし、お前の名前は呼んでない……と思うから。元に戻って、それで家で知らん顔してれば、大丈夫だから」
「うん……?」
そんな簡単に行くだろうか。自信なさげなジャルガルの言葉に少しの疑問を感じながら、僕は座り込んで自分の姿を見下ろした。キマイラになる時に破けてしまった服の端が、鱗の端に引っかかっている。
——おばさんの、きっと、すごく、大切な服。
「逃げ切れたか? 田舎でよかった……」
路地の端から様子を伺うジャルガルからは、血の匂いがする。
「その……ごめんなさい。僕……」
「いいから。そういうのも全部後で、な」
低い囁き声のような返答は素っ気なかったが、いつものジャルガルより柔らかい気がしてほっとする。目を閉じた僕は、ジャルガルの上着に鼻を押し付けて深呼吸をした。乾いたような匂いをいっぱいに吸って、自分の体に意識を集中させ――
——あ、あれ?
顔を触る。とんがっていた鼻先は引っ込んでいる。上着を羽織りながら背中を見る。大きな羽もなくなっている。頭を触る。突き出した角と耳に、爪の先が触れる。顔と体は戻ったけれど、それ以外の部分がキマイラのままだ。
もう一度目を閉じて、全身に力を込める。一瞬だけ指先が人間の姿に戻った感覚があったものの、目を開けた時には中途半端に伸びた爪と毛むくじゃらの手が、月明かりを反射していた。
何度試しても、うまくいかない。自分の体なのに、まるで別の意志があるようだった。
「あの……ジャルガル?」
左袖が裂けた上着を肩から掛けた僕は、襟を立てながらジャルガルの名前を呼んだ。その肩越しに見える街の様子は、落ち着きを取り戻してきているようだった。
「なんだよ、早く人型になってくれよ」
「あの、そうじゃなくて」
「何」
「も……戻れないの、途中までしか」
えっ、と呟くジャルガルの声は、掠れてほとんど聞こえなかった。振り向いた顔が、僕を見て青白く引きつる。
「何だよそれ、おい……ええ……どういう……?」
「ご、ごめんなさい、わかんない……」
「いや、ああ……うん。分かった。だ、大丈夫だ、ノカイ」
何も大丈夫そうじゃない顔のまま近づいてきたジャルガルが、僕の肩にかかっていた上着を引っ張る。頭の上からすっぽりと被るように掛けなおされると、今度は裾から赤い毛皮に包まれた足と、鱗の生えた尻尾が飛び出てしまった。
「とりあえず――」
そう言ってジャルガルが懐に手を入れた瞬間、路地の入り口から眩い光が差した。
「……ジャルガル? ノカイ? どうしたの、こんなところで」
アリマおばさんの、か細い、でも少し安心したような声が聞こえる。きっと、僕たちのことを心配して探しに来てくれたのだろう。
「さっき憲兵がうちに来たわよ。ねえ一体何が……ちょっとジャルガル、あなた怪我してるじゃない!」
「いや、これは」
「ノカイは――」
サッと動いた光が、僕の全身を照らす。光の向こうにいるおばさんが、ひっと息をのむ音が聞こえた。
「あ、あなた……」
「……ごめん、なさい」
俯いた僕は、そう言うのがやっとだった。
喉に何かが詰まってしまったようで、おばさんの方向を見られない。手遅れだと分かっていても、化け物である自分の姿を、彼女から借りた服をただの布切れにしてしまった様子を、知られたくなかった。
罪悪感で押しつぶされそうになりながら立ち尽くしていると、遠くからまた足音が戻ってくるのが聞こえた。硬質の足音は、靴底に鋲が打たれた東軍兵独特のものだ。
僕を照らしていた光が揺れ、反対側を向く。
光が逸れた一瞬の隙にジャルガルが早口で呪文を唱え、僕の手を握った。
「行くぞ、ノカイ」
ぐらりと視界が揺れ、僕の視界が白く染まる。
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