第5話 現在地
目が覚めた時、僕は自分がどこにいるのかすぐには分からなかった。
いつもの藁の寝床より随分と柔らかいベッド、なのに牢屋よりぼろぼろの部屋。しばらくして、昨日起きたことを思い出す。
——そうだ、研究所から逃げてきたんだった。
だが、隣に寝ていたはずのジャルガルがいない。心臓が嫌な感じにドキドキする。半開きになっていた扉から居間の方を除くが、そっちにも見当たらない。
置いて行かれてしまったのだろうか。まさか。でも。震える手で玄関を開けると、家の前に立ったジャルガルが、手に持った杖で太陽を指しているところだった。
「ジャルガル!」
「なん……うわっ!」
駆け寄ろうとすると、長い上着の裾が足に引っかかった。転んだ勢いのままジャルガルに突っ込み、二人でもつれ合うように倒れる。
着っぱなしの袍の襟元から昨晩より強い匂いがして、胸の嫌な動悸が落ち着いていく。
「なんだよもう! 危ねえだろ!」
「よ、よかった、ジャルガル、いなくなっちゃったかと、思った」
「はあ? 置いてくわけねえだろ」
だって、と胸元に顔を擦り付けると、くしゃりとジャルガルの指先が僕の寝癖をかき回した。
「今どこにいるのか調べてただけだろが」
「あっ……ここがどこか分かった?」
「大体だけどな」
砂の上に座り込んだジャルガルが、杖の先で楕円形を描いた。僕から見て右上の方に印をつける。
「ここが俺たちのいた首都、ウストヤーだとすると」
つつつ、と杖先が楕円の左側に移動する。真ん中より少し下あたりで止まった。
「今いるのはこのあたりだな。元西国、砂漠のど真ん中だ」
「ずいぶん遠くまで来ちゃったね」
「全くだよ」
体についた砂を払いながら、ジャルガルが起き上がる。ふう、と見上げた空は、いつもと同じ乾いた青色をしていた。
「一晩のうちに追手がくるかと思ったけど、その様子もないし……どうすっか」
横目で僕を見たジャルガルは、疲れたような笑みを浮かべた。
「まあ、普通に考えたら、誰も追って来てなくても研究所に戻んなきゃいけねえわけなんだけど」
「えっ、い、嫌だよ!」
「だよなあ……俺も嫌だわ」
ジャルガルの覇気のない声が、砂まじりの風に乗って飛んでいく。
「……ジャルガルは、好きで『実験』してたんじゃないの?」
「馬鹿かお前。人のことなんだと思ってんだよ、俺は動物を痛めつけて興奮するような変態じゃねえぞ」
「だって、東国人だし。ローもそう言ってたし」
「お前東国人をなんだと思ってんだよ、西国人と人種は同じだし、国が分裂して100年程度で人間の性癖が変わるわけねえだろ」
「じゃあなんでやってたのさ」
「なんでって……仕方ないだろ、殺戮兵器の飼育係するか自分が実験動物になるか選べって言われたら、飼育係の方がマシだろ」
「なにそれ、なんでそうなるの」
「ああーもう、なんでなんでうっせえな」
面倒くさそうに杖を帯に差したジャルガルが、のそのそと砂だらけの道を歩き始める。
「敵前逃亡罪だよ。逃げたら捕まって怒られたの、分かる?」
「それぐらい分かるよっ!」
裾をからげてから、先を行くジャルガルを追いかける。僕が隣に並ぶと、ジャルガルは歩く速度を上げた。
「ちょっと魔法使えるからって徴兵されて、そんで前線放り出されて『敵国最強の軍人共が率いる殺戮用の化物を倒せ』だぜ、逃げる以外ねえのにな」
「ふうん……?」
なぜ逃げる以外ないのだろうか。普通敵がいたら倒すもんだし、逃げたところで厳罰が待っているだけなのに意味が分からない。でも、なんとなく僕はそう言えずに曖昧に頷いた。
砂の上を睨みつけるジャルガルは、はじめて見る険しい表情だったから。
でもそれも僅かな間のことで、すぐにジャルガルはいつもの人を小馬鹿にしたような顔に戻る。
「……そのあとすぐに戦争が終わるとも、その化物がこんなガキだとも、あん時ゃ思いもしなかったし」
「ガキじゃないもん」
「はいはい」
まともに取り合ってくれないジャルガルの口調に、僕は口をとがらせた。やっぱりジャルガルは意地悪だと思うけれども、それにどこかほっとする。
すぐに村は終わり、砂漠の中に出る。ゆるやかな砂山がどこまでも続く、代わり映えのない景色。遠くに薄く山が見えている。
日が高くなるにつれ、裸足の足の裏に当たる砂が熱くなってきた。まっすぐ歩いていくジャルガルには、どこかはっきりとした目的地があるようだ。
「ねえジャルガル、これからどうするの? 僕、ローに会いたいんだけど」
尋ねると、ジャルガルは何かを考えこむように口を引き結んだ。ざくざくと砂の上を歩く足音だけが響く。聞いていなかったのだろうか。「ねえ」と僕がもう一度口を開くと、「ダメだ」と低い声が返ってきた。
「ローには……会えない」
「なんでよ!」
「なんでもだよ」
「意地悪! ケチ!」
なんでそんなこと言うんだ。草色の目を見上げると、「ダメだ、ノカイ」ともう一回、今度は1音ずつ噛んで含めるように言われる。
「むうう……じゃあどうするのさ」
そんなに何回も言わなくってもいいだろ。腹いせに蹴った砂が、大きく広がって散らばる。「やめろ」と髪に飛んだ砂を払ったジャルガルは、来た道を確かめるように一度振り返ってから、砂の広がる進行方向を指差した。
「朝の観測が間違ってなければ、一番近い街がこっちの方にある……と思う。とりあえずそこに行って、職なりなんなり探さないと。腹も減ったし」
「お仕事するの?」
「そうだよ」
「えー、何がいいかな。お料理屋さんとかやってみたいな。美味しいもの食べたい。お菓子屋さんもいいな、あ、荷物運ぶのも得意だよ、僕。郵便屋さんとか?」
お仕事。今まで戦う以外したことないけど、それ以外のものに挑戦してみるのも楽しそうだ。他にどんなお仕事があったっけ。想像を膨らませていると、ジャルガルがふんと鼻を鳴らした。
「馬鹿お前、お料理屋さんは作る方だぞ」
「し、知ってるもん!」
どうだかな、と肩をすくめるジャルガルにまた砂を蹴飛ばす。今度はさっきより低めにしたけど、「やめろつってんだろ」と叱られた。
「で、街にはいつつくの?」
「丸一日くらい歩けばつく……と思う」
「ええっ!」
そんなにかかるなんて。僕は思わず立ち止まった。昨日から何も食べてないのに。さらに丸一日歩かなきゃいけないなんて信じられない。しかもこの熱砂の上を。
「ジャルガル、僕変身するからさ、飛んでいこうよ。そうすればすぐ着くから」
「ダメだノカイ、誰が見てるか分かんないだろ。生き残ってるキマイラがいるなんてバレたら……」
「こんな砂漠の真ん中、誰もいないよ。幻術かけてくれればいいし」
「わ、分かんねえだろそんなの」
焦ったように、ジャルガルはそっぽを向いた。
「あっ、分かった、ジャルガル、飛ぶのが怖いんだろ」
「んなっ……」
どうやら図星らしい。そう言えば昨日引っかけて飛んでいた時には失神していたし、高い所が苦手なのかもしれない。
「飛ぶのが怖いなんて、ジャルガルの臆病者、腰抜け!」
ジャルガルの弱みを握ったようで嬉しくなった僕は、ここぞとばかりに言い返してやった。普段偉そうにしてるのに、飛ぶのが怖いなんてとんだ意気地なしだ。
「……ん?」
すぐに「うるさい」とまた叱られるかと思ったけれども、ジャルガルは黙ったままだった。不思議に思って見上げると、蒼白になったジャルガルの顔がそこにあった。
感情がなくなってしまったかのような、ただ透明な表情。草色の目は僕の方を向いてはいたが、何も見てはいないようだった。
「ジャル……」
暑いはずの気温が、僕の周りだけ一気に下がった気がした。ジャルガルの中にあったガラス細工のような部分――壊れやすくて繊細な部分を、何も考えずにぶち壊してしまったようだった。
生気のない、人形めいたジャルガルは、少しでもつつくと砂になって崩れてしまいそうに見える。
「あ……その……」
声すらかけられずにいると、やがてジャルガルはゆらりと歩きはじめた。
陽炎のようにふらふらと歩く薄茶の袍の後を、ただ無言でついていく。
——これから、どうしたらいいんだろう。
目の前には、ただ広い砂が広がっているばかりで何の目印もない。本当にこの道が正解の方角なのか、僕には全く分からない。
不安になって振り向くが、もう今朝出てきたはずの廃墟は見えなくなっていた。
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