第4話 砂漠の夜
「ねえジャルガル、喉乾いた」
村の中を半分ほど歩いたところで、僕はジャルガルにそう言った。夏の長い陽がやっと傾いてきた頃合いで、2人の影が長く砂の上に伸びている。
「お腹もすいたんだけど」
「俺もだ」
分かりやすい、でも期待していたのとは違う答えに、僕は口を尖らせた。
「そうじゃなくて、なんか食べ物ないの?」
「あるわけないだろ! っていうかなかっただろ!」
窓や扉の壊れた家を見つけるたびに、食べ物などが残されていないか僕らはその室内を漁っていた。だが、急いで村を出ていったわけではないせいか、ほとんどの家は空っぽか、作り付けの家具、不要になって放置されたと思しき道具類しか残っていなかった。
「えー……転移魔法でさ、ちょっと他の町まで行って買ってこれないの?」
「あのなあ、この状況で転移魔法使えたらとっくに使ってるに決まってるだろ。西国最強魔法騎士と下っ端研究員の俺を一緒にしてくれるなよ」
「ふうん」
食べ物が手に入らない、というのは残念だったけど、ローのことをそう言われるのはちょっとくすぐったい。思わずにやけると、ふん、とジャルガルが鼻を鳴らした。
「ま、ノカイが馬鹿みてえに飛ばしたせいで途中で財布も落っことしちまったみたいだし、転移できたって買い物できねえけどな」
「なんだよ、勝手にジャルガルがくっついて来たんだろ」
「そっちが引っかけたんだろ。危うく死ぬところだったぞ」
「知らないもん、勝手に引っかかってたんだもん」
言い争っていると、さらに喉が渇いてくる。ジャルガルも一緒だったのか、赤く染まった空を見上げたジャルガルは、「とりあえず、さっきの家具が残ってた家に戻るか」と振り向いた。
「このまま探索を続けても収穫はなさそうだし。これからのことは、もう……明日考えればいいだろ」
なんだか投げやりなようにも聞こえたが、特に異議はなかった。立ち並ぶ廃屋のうちの1つに戻り、中の椅子に勝手に座る。窓と扉が壊れているせいか室内も砂っぽいが、そんなに長い間放置されていたようには見えない。
――ここにいた人、どこに行っちゃったんだろ。
木組みの梁と割れた漆喰、その奥に見える土レンガはクルチハン、メドルグハン東西に共通する伝統的な建築様式だ。日が落ちてきたせいか、急速に部屋の中が寒く、薄暗くなってきている。
食器棚の中を覗いたジャルガルが、コップの砂埃を袖で拭って僕の前に置いた。くるくるとその上で短杖を回すと、コップの中に水が満ちる。
「ほら、水だ」
ジャルガルが言い終わる前に、僕は喉を鳴らして水を飲み干していた。乾いた体に冷たい水が染み込んでいくようだ。空になったコップを置くと、ジャルガルがまたその中に水を集める。2杯目を飲もうとすると、ジャルガルの手がひょいとコップを持ち上げた。
「あっ」
水を飲むジャルガルを呆然と眺める。美味しそうに水を飲み干したジャルガルは、口元を手の甲で拭いながら不思議そうな表情をした。
「ああ……ほら」
すぐに納得したように頷いたジャルガルが、僕の前にコップを置く。またそこに満たされていく水を見ながら、僕は我儘を叱られたような気分になっていた。
——ローなら、ちゃんとお代わりいるかどうか聞いてくれるのに。
まだ喉は乾いていたが、2杯目に手を伸ばすのはなんだか嫌だった。あえてコップから目をそらしてテーブルの木目を見ていると、「寝室はこっちだな」とジャルガルが奥の扉を開ける。
「毛布はねえ、と……まあ、しょうがないよな」
「えっ、もう寝るの?」
「他にすることねえだろ。もう疲れたし、腹も減ってるし」
「今日の薬、飲んでないよ」
「薬なんて持ってるわけねえだろ」
「じゃあ、お風呂は?」
僕がそう言うと、「お、お風呂ぉ?」とジャルガルが素っ頓狂な声を上げた。
「この? 砂漠の真ん中で? お風呂ですって?」
「だって人間って汗かいて気持ち悪いし。砂だらけだし。今ジャルガル水出してたじゃん。あ、シャワーでもいいけど」
「あ、あのなあ……」
「え、無理なの? ローはやってたけど」
「無理に! 決まってんだろ!」
叫んだジャルガルが、くたりと壁に寄りかかる。
「だからな? さっきも言ったと思うけど、お前さんの馭手を魔法使いの標準だと思わないでくれ。あの人は規格外なんだよ。つうか、そんな魔法使いがゴロゴロいたら誰も渇水に悩んでねえだろ」
「そ、そっか……」
「ご期待に沿えず申し訳ございませんね」
「う……ううん」
首を振った僕は、机の上に取り残されていたコップを手に取った。両手で包み込むようにして持ち、今度はゆっくりと水を口に含む。気のせいか、さっきよりも水が美味しい気がする。
暗くなってきたな、と呟いたジャルガルがまた短杖を振ると、今度はその先に明かりが灯った。橙色の柔らかい明かりに照らされ、ジャルガルの影が壁に長く伸びる。
「ねえ、じゃあジャルガルはどんな魔法が使えるの?」
「基本的な……今みたいな、ちょっと水出したり火や明かりをつけたりとか……あとはもう、魔弾掃射とか防壁とか、そんなんだよ。まあ、文武両道、エリート中のエリートである魔獣馭手と比べたら何もできねえに等しいな」
肩をすくめ、ジャルガルは乾いた笑いを発した。形だけの笑顔に、なぜか僕の胸までちくりとなる。
「そ、そんなことないよ」
「そりゃどうも」
「その……お水、おいしかったし……ありがと」
欠けたコップの縁越しにジャルガルを見上げると、彼は「ああ」と「おお」の中間くらいの声を出して、毒気を抜かれたような顔をした。
「べ……別に、まあ、それぐらいは」
つい、と目をそらされる。少しだけ頬が赤くなっているように見えるのは、明かりのせいだろうか。
「ほら、早く来い。寝るぞ」
「うん」
飲み終わったコップを置いて、奥の部屋に向かう。砂だらけのベッドが2つ取り残されていた。窓側より壁側の方が若干砂が少ないな、と思った瞬間、ばたりとジャルガルがその上に倒れ込んでいた。
「それじゃ、おやすみ」
「うん、おやすみなさい」
明かりが消え、部屋が暗くなる。借りていた上着を脱いで裸になった僕も、それを毛布代わりにかぶって壁側のベッドに寝転んだ。
ぎゅう、と体全体でジャルガルに抱きつくと、「おわっ!」と叫んでジャルガルが跳ね起きる。
「な、なな……ああ? ええ? はあ?」
「へ?」
「何考えてんだ!」
「何って……え? だって、寝るときってこうするんじゃないの?」
砂漠の夜は、夏でも肌寒い。だから、裸で抱き合って寝るんだ、とローは教えてくれたけど。
訳が分からずベッドの上に座り込んだままでいると、「うわぁ……」とジャルガルは頭を抱えた。
「ええとな、ノカイ。そういう……そういうのはだな、お前がどう言われて来たかは知らねえけどな、もっと、こう……大人になってからだな、お互いに好き合っている同士とかでやるもんなんだよ、少なくとも、東では」
「僕、もう大人だもん」
「ああもう」
「それに僕、ジャルガルのこと好きだよ」
「はああ?」
眉間に深くシワを寄せ、ジャルガルが目を剥く。
「正気かノカイ、お前俺に生体実験されてただろが」
「そ、それはそうなんだけど」
「実験」のとき、ジャルガルは大抵、僕に何かをする役目だった。毒を飲まされたこともあるし、お腹を切り開かれたこともある。昨日僕の尻尾を焼いたのもジャルガルだった。
「でも……ジャルガルは、怖くないから」
ジャルガルは、研究所の他の人と違って、僕のことを「実験」以外で蹴ったり、怒鳴ったりはしてこなかった。言われたことがわからなかったり、うまくできなかったりした時、ジャルガルは僕のことを馬鹿にはしてきたけど――でも、それしかしてこなかった。
後でこっそり痛み止めを持ってきてくれたのも、お菓子をくれたのも、ローに会いたくて泣いているときにそばにいてくれたのも、ジャルガルだけだ。
「お前なあ」
そこで一度言葉を切り、「ああー」と声を発したジャルガルは、天井を向いて髪の毛をかきあげた。そのまま数秒間止まっていたかと思うと、またため息をついて俯く。
何かジャルガルが困るようなことを言ってしまったようだ。
「ご、ごめん……」
僕が小さな声で謝ると、「いや」とジャルガルは下を向いたまま首を振った。
ようやく僕の方を向いた顔は、どこか泣きそうに見えた。
「ノカイ、お前は悪くない。ただ……な、好きっていうのにも色々あるんだよ」
「どういうこと?」
薄闇の中、藍色に見えるジャルガルの目を見返す。ううん、とまた唸ったジャルガルの目が、答えを求めるように左右に揺れた。
「友達として一緒にいたいとか、師匠として尊敬してるとか、かわいいから愛でたいとか……違うだろ、全部」
「そう、なの?」
好きは好きだ。そんな区別、あるだろうか。僕が瞬きすると、ジャルガルの目が左下のあたりを向いて止まる。
「裸で、しかもベッドの上で抱きついていいのは……ううん、そうだな、こう……一緒にいるだけで幸せになれて、心も体も欲しくなる相手というか……全てを信頼して任せられるほど愛してるというか、そういう……」
「なにそれ、わかんない」
「と、とにかく! 本当に大切だと思う相手だけにしろ! 俺はそんなんじゃねえだろが! ほら、早く服着ないと風邪ひくぞ馬鹿!」
ふん、と鼻を鳴らしたジャルガルが、僕に背を向けてまた横になる。足元に落ちていたジャルガルの上着を拾い、僕はまたそこに袖を通した。
「……ねえ、ジャルガル」
「何だよっ」
ジャルガルの答えは、いつにもましてぶっきらぼうだ。
「ん、っと……裸がダメなのはわかった。じゃあ、一緒のベッドで寝るのは? いいの? それもダメなの?」
「ああん?」
剣呑な声を発したジャルガルから、またため息が聞こえる。
「あー……まあ、それぐらいなら……?」
体をずらして開けてくれた隙間に、上着だけを着た体でまた寝転ぶ。今度は抱きつかずに、鼻先をジャルガルの背中につけるだけにした。服を借りた時に感じたよりも強く、果物とチーズのような香ばしい匂いがする。
ジャルガルの上着はどういう仕組みなのか、今度はじんわりと心地よい熱を発していた。けれども、服を着た状態で寝るのに慣れていない僕には、なかなか眠気がやってこない。
瞼の裏を見ながら、僕はさっきのジャルガルの話をもう一度考え直してみた。
——ローは……えっと、一緒にいると嬉しい気持ちになれるし、間違ったことなんてするはずないし、僕の大切な馭手だから……裸で抱き合って寝ても、いいんだよね。
キマイラにとって、馭手以上に大切な人はいない。今はローの命令があるから特別なだけで、基本的にキマイラは自分の馭手以外の言うことを聞いちゃいけないし、単独で行動することも許されていない。一人では何もできないから。
ローに比べたら……確かに、ジャルガルは……そこまで大切じゃないかもしれない。ローの命令がなかったら僕は何もできないけど、ジャルガルはそうではないから。
——でも、「心も体も欲しくなる」って何だろう……?
「ねえジャルガル」
問いかけたが、返ってきたのは小さな寝息だけだった。
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