第2話 逃亡
「やだ、ロー! 待ってよ!」
叫んだ僕が瞼を開けると、夏の強い朝日が目の中に飛び込んできた。
「う……ん……?」
鋭い痛みさえ感じる光に目を細めているうちに、見ていたはずの夢の中身がすうっと溶けていくのを感じる。数回瞬きして石造りの牢屋の中が見えるようになってきた頃には、ただ心にぽっかりと穴が開いたような気持ちだけが残っていた。
――ローに、会えた気がするのに。
ほっぺたを触ると、いつの間にか涙でびしょびしょになっていた。邪魔な鎖を引きずりながら、部屋の端にある水瓶に向かう。覗き込むと、ドラゴンの角が生え、火焔豹の毛皮が鱗の間から飛び出した動物が水面に映った。黒大熊のかぎ爪がついた手で水を掬って顔を洗うと、世界鷲の翼に水滴が飛ぶ。大きく伸びをすると、狭い独房の天井に頭がぶつかった。
キマイラ――ドラゴンの気高さ、黒大熊の頑丈さと力強さ、世界鷲の視力や飛行能力などを兼ね備えた上に従順という、様々な動物の優れた部分を寄せ集めて作り出された生き物。夜の賢者、ウーリ・ベキの作り出した傑作――それが、僕だ。
僕のようなキマイラには、その大きな力を制御するための「馭手」というパートナーがいる。キマイラの真名を呼んで本当の力を引き出せるのも、命令でキマイラを止められるのも馭手だけだから、普段は食事の時も寝るときも作戦行動の時も、もちろん休日だって、常に一緒に行動する。
でも、僕は馭手のローともう長いこと会えていない。
東のメドルグハン国との戦いに負けたから。
最初、ローにそう言われたとき僕は信じられなかった。
だって、ローは……ローと僕は、最強の馭手と、キマイラだったから。
二人で多くの敵を倒してきた。ローより強い人なんていなかったし、負けたことなんてなかったのに。
なんで、と騒ぐ僕に、ローはただ「力だけじゃ勝てないこともあるんだ」と僕の頭を撫でてくれた。どういうことか教えて欲しかったけれども、その後すぐにやってきた兵士たちに捕まって、僕たちは離れ離れになってしまった。
それからずっと、僕はどこにあるのかわからないこの牢屋の中にいる。手錠に魔法を抑える力があるせいで人の姿にもなれないし、ローの心を感じることもできない。
——ローに、会いたい。
ローのことを考えると、また涙が出てきそうになる。ぐすりと鼻を鳴らすと、石造りの廊下の上を車輪が走るけたたましい音が聞こえた。慌てて涙を拭うと、襟付きの長い薄茶の袍の上に、やはり長い黒の上着を羽織った男が、手押し車を押しながら現れる。ここでの僕のお世話係である、研究助手のジャルガルだ。
ジャルガルは草色の目で、僕のことを馬鹿にしたように見てきた。
「お、ノカイ、お前まためそめそしてんのか」
「してないっ!」
ローより年下のジャルガルは、見た目だけなら――もちろんローほどじゃないけど――格好いい方だ、と思う。この前年を聞いたら25と言っていた。髪は魔法使いにしては短くて結べないくらいだが綺麗な草色をしているし、目だって大きくて透き通った宝石のようだ。背丈もまあ高いほうではあるし、小さめの鼻も口も、見る人が見ればかわいいと言われそうな雰囲気がある。屋外にあまり出ないのか、悔しいけど肌だけはローよりも綺麗だし。
だけど、中身はちょっと意地悪だ。さすが東国人。
「はいはい、そうですか」
小馬鹿にしたように言いながら、ジャルガルは帯に挟んでいた短杖を引き抜いた。その先端が鍵に触れると鉄格子の扉が開いて、トレーの上に揚げパンとお茶を載せたジャルガルが部屋の中に入ってくる。
「ほら、朝食だ」
「えー、これじゃ足りないって言ったじゃん」
揚げパンにお茶だけではとてもじゃないけどお昼までもたない。僕が文句を言うと、「言うと思ったよ」とジャルガルが上着の中からもう1個揚げパンを出した。
「ほかの奴に見つからないうちにさっさと食えよ」
「もっと欲しかった」
「うるせえな」
お茶に浸しながらパンを食べる僕の背後にジャルガルが回り、包帯を巻いた僕の尻尾に触れる。昨日の実験で鱗を剥がされ、雷の魔法で焼かれた部分だ。包帯を解き、中のガーゼを取っているようだ。
「……もう、痛くないか?」
「うん、平気」
パンをかじりながら答える。キマイラは生命力が強いから、大体のものは一晩寝れば治ってしまう。
「それで、今日は何するの?」
僕がジャルガルに聞くと、尻尾を撫でていた手がピタリと止まる。
「……また、痛いことするの?」
「まあ……な」
「そっか」
聞くまでもないことだった。ここに連れてこられてから、毎日肉を削られたり焼かれたり、血を抜かれたり……痛かったり、苦しかったりすることばかりだ。竜の生命力のおかげでどんなケガでもすぐに治るけれども、痛くないわけじゃない。
キマイラになった時みたいだ、と思う。
毎日体のどこかが別の生き物と取り替えられていくのは、酷く苦しくて、僕が僕じゃなくなって、心も体もばらばらになってしまうようだった。でも、あの時は、ローが一緒にいてくれたから、ローのために強くなりたいと思ったから頑張れたのだ。
元のままの僕じゃ、ローと一緒に戦えなかったから。
「ねえジャルガル、僕はいつまで我慢すればいいの?」
「それ、は……」
「ねえ、ローに会いたい。ローは『逆らわずに我慢していれば、また会える』って言ってたよ?」
「そりゃ、あんたの馭手はそう言ったかもしれないけどな、ノカイ、お前自分の立場ってもんを……」
「だってもう嫌だよ! 痛いのも、ローに会えないのも、全部やだ!」
振り回した尻尾が鎖に当たり、大きな音がした。飲みかけのお茶が倒れてこぼれる。びくりとジャルガルが体を震わせる。
「やだ……やだよぅ……」
「ノカイ……」
僕の言葉に、ジャルガルの困った顔がじわりと滲んでいく。
困らせるようなことをしちゃいけない、って言われたのに。体を丸め、鱗と毛がまだらに生えた尻尾で顔を覆う。
「うう……ぐすっ」
「……」
無言のまま、僕の頭を撫でるジャルガルに鼻をつける。酸っぱい薬と、なぜかすこし焦げたような匂いがした。
しばらくして僕が落ち着いてきたころ、ジャルガルが僕の首輪に繋がる鎖を引っ張った。
「……行くぞ、ノカイ」
「うん……」
ジャルガルの横を歩き、実験室へ向かう。僕の牢屋より少し白い石で作られた実験室の中央には拘束具が備え付けられた平らな台があり、昨日の血の匂いと焦げ臭い匂いがまだ残っていた。
「やあおはよう、ノカイ。今日はちょっと遅かったけど、体調でも悪いの?」
鉄色の髪をした、ジャルガルより少し背の低い男が顔を上げる。この部屋の主であり、ジャルガルの上司であり、そして僕への様々な「実験」を日々考案するトゥルムだ。もちろんそんな奴に挨拶を返してやる義理などないので、ジャルガルともどもトゥルムのことを完全に無視して僕は台の上に乗った。ペタンと体を伏せると、ジャルガルが僕の手足に金属の輪をはめ、口輪をつける。
「もーつれないね、そんなに冷たくしなくてもいいじゃないか」
ねっとりとした喋り方が耳に張り付くようで気持ち悪い。耳を伏せると、「それじゃあ今日は」とトゥルムが立ちあがった。
僕の視界にトゥルムの靴先が見えた瞬間、どおんと大きな爆発音がした。割と近い。大型火球でも撃ち込まれたかのような衝撃に、堅牢なはずの石造りの床が揺れる。
「うわっ」
(ここにいてはいけない)
突然の揺れに驚くトゥルムの声と同時に、僕の中に強い意志が流れ込んできた。頭を上げると、格子の嵌まった窓の向こうが土煙に覆われているのが見える。
——何だ何だ。何が起きたんだ?
カンカンカンと警鐘の音と、即時退避の叫びが響いてくる。どこか他で実験動物が暴れ出したらしい。
「退避って言ってますけど」
「え、でもノカイがいるから平気でしょ」
「……いやいや」
(逃げるんだ)
もう一度、僕の中に声が響いた。
声に従って右手を振ると、台に埋め込まれていた留め具が弾け飛んだ。大人しくしていろ、とローに言われたからそうしていただけで、その気になればこんなものは僕にとって何の意味もない。左手、両足、と順番に拘束具を引きちぎり、顔を振って口輪を吹き飛ばす。
「あっちょ……ノカイ! 待——」
もう一度爆発音とともに床が揺れ、ジャルガルが頭を押さえて床にうずくまった。それを後目に、窓のある方の壁に思いっきり体当たりする。一度目でヒビが入り、二度目に穴が開いた。
僕の名前を呼ぶジャルガルの声が聞こえたが、そう言われて待つわけがない。開いた穴の周りを突き崩して自分の体が通れるだけの大きさにすると、僕はそこから首を突き出した。すぐ下に見える地面に飛び降り、長い間畳んだままだった世界鷲の翼を広げる。
——大丈夫、行ける。
ずっと牢屋の中にいたから少し体は重かったけれど、問題になるほどじゃない。
久しぶりの土の感触を感じながら後ろ足で大地を蹴り、助走をつける。高くそびえる壁をぎりぎりまで引き付けて、大きな翼で空気を捉える。
ばさり、と大きく羽ばたいた僕は、長く閉じ込められていた塀を超え、日光の中に飛び出していた。
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