第3話:再来
目が覚めたら、夜だった。
どうやら
「あーあ……」
しかし、家に戻ったとて桑縁には星の観測以外にすることがない。母はおいしい手料理を毎日振る舞ってくれるが、明超がいた頃のように会話に花が咲くことはそう多くはない。こういうときは、会話の下手な自分が恨めしい。
あれから暫くのときが過ぎ去った。
明超はまだ戻ってはこない。
めっきり足が遠くなったことを心配して、白老人が時折様子を見に来てくれるのだが、元気がない原因を彼も理解しているため、慰めの言葉も出てこないようだ。
「必ず戻ってくるっていったけど……」
信じていないわけではない。
ただ、戻るのが今日なのか、明日なのか。
来年なのか、今年なのか。
あるいは十年先なのか……。
そんなことばかり毎日考えてしまって、どうにも元気が出てこない。
彼と共に見あげた星空。抱きしめられたときの顔の火照り。その全てが懐かしく、今すぐ感じたいのに手が届かない。
大切な人が側にいないことが、こんなにも不安だとは思わなかった。
否、蔡府で捕らえられていたときにも嫌というほど感じたはずだ。
明超がいないだけでこんなにも心の中が空っぽで、以前の自分では考えられないほど、星のこと以上に彼の存在が大きく大きく膨らんでいた。
(駄目だ、嫌なことばかり考えていたら、駄目になってしまう)
白湯を飲み欲し焼餅を口に咥え、桑縁は梯子に手をかけた。
* * *
季節は夏に差し掛かり、広がる星空は少し見ぬあいだにずいぶんと変わったように思える。とりわけ――心星はひときわ赤く輝いていた。
「日は永く、星は火のごとく、以て仲夏を正す……[*堯典]」
立夏の頃には、もっとよく見えるようになる――そう言ったのに、立夏が訪れても明超はまだ戻ってはこない。
彼にも事情があるのだ、何度も自分に言い聞かせるが、それでも寂しさは埋められなかった。
当たり前のように明超がいた頃。
彼と出会う前の自分。
あの頃、赤い星を観て何度も桑縁は手を伸ばし何度も『あれは
それが、よもや本物の皇上に向かって同じように叫ぶことになろうとは、夢にも思わなかっただろう。
『
そういえば、あのとき桑縁が皇上に向かって叫んだ言葉は、いい感じに盛られて水連棚の劇に取り入れられているらしい。恥ずかしくてまだ観ていないのだが――いつか、明超が戻ってきたら二人で観に行きたい。
(だから、早く帰ってきて……)
弱気な自分はらしくない。それでも、会いたいと切実に思う。
桑縁は天に向かって手を伸ばし――明超と初めて出会ったときの言葉を口にする。
「臣、太子殿下に申し上げたきことがございます! 赤き星は東方青龍七宿が第五宿の心星、大火なのです!
そよぐ風、遠くで聞こえる小川の流れ。月明かりが寂しく桑縁の手を照らし出し、その光の冷たさに泣きたい気持ちが湧きおこる。
「よう、名役者」
その光を遮るもの。月をすっぽりと覆い隠す大きな体が、桑縁の上に乗っている。懐かしい声、懐かしい顔、懐かしい……。
『おれのおんな!』
「女じゃねえよ! お前のでもねえよ!」
「はい!?」
突然頭に響く『おれのおんな』という言葉。それが何であるか考えるより早く、桑縁の顔にふかふかの何かが飛び乗った。
「うわっ!」
「
「
驚いて起き上がり、ふかふかの何かを両手で掴む。なんと
「
「こいつは俺の従者として、連れてきた。俺がいないときでもお前のことを守れるように、実体も与えてな」
「お前っ! お前には紹玲がいるんだろ!? どさくさに紛れて桑縁に手を出すんじゃねえよ!」
「えっ……」
先ほどの『おれのおんな』の言葉がよみがえる。
「あー、大丈夫大丈夫。冥府で従者としての地位も得たことだから、少しずつ知識は増えていくはずだ。しっかり教育させておく」
明超は桑縁の手から
「しばらくその辺走ってこい!」
元気な遠吠えが風に乗って流れゆく。見事な着地を決めた
「……ったく。いいところだったのに邪魔しやがって……」
ふて腐れた明超の顔も懐かしく、桑縁はたまらなくなって抱き着いた。
「お帰りなさい! 待っていました!」
「ただいま。……遅くなって悪かったな。寂しかったか?」
「…………かなり」
やせ我慢はせず、正直に桑縁は答える。明超は心底嬉しそうに微笑んだあと、桑縁にゆっくりと口付けた。
「悪かった。冥官に戻るための手続きやら、今後の準備とかで手間取ってさ」
「冥官に戻るための手続き……?」
暗くて気づかなかったが、よく見れば明超は黒の官服を身につけている。ただし、彼が侍衛であるからなのか、装いは官吏のそれとは多少異なっていた。光慶殿の事件のときの彼を彷彿とさせる、凛々しい姿。結い上げた髪と錦の布、あのときの上衣は紫だったが、黒の装いは彼の美しさをいっそう際立たせている。
「あー、違う違う。冥官には戻るが、担当は
「す、すみません。冥官に戻ったのなら、また離れてしまうんじゃないかって、不安になって……」
明超に抱かれ、桑縁は涙を零す。本当は理解している。彼が死人である以上、桑縁と彼とはどんなに想い合ったところで、大きな隔たりがあるということを。いままで見ないふりをしてきたが……不安で不安で仕方がなかった。
「全く。お前は、泣き虫だな」
「すみません……」
「可愛いよ」
「なっ……」
驚き、恥ずかしくてどんな顔をしていいか分からない。戸惑っているあいだに明超は桑縁を押し倒す。櫓の上で、月明かりに照らされて、なんだかとても恥ずかしい。
「大還丹」
「はい?」
突然言われ、桑縁は戸惑う。確かに怪我を負ったとき、彼に大還丹を与えられ傷を治すことができた。しかしそれがいま何の関係があるというのだろうか。
「実はあれ、俺が五百年間、冥官として無償奉仕することと引き換えに譲ってもらったものなんだよ」
「譲ってって……いったい誰からです?」
「
「……」
よもやあの貴重な霊薬を、冥府の頂点たる
(しかもあれ、粗悪品だったんじゃ……?)
同時にそんな無茶を承諾して桑縁のために使ってくれた、彼に対して申し訳なさもある。大人しくしていれば自然に治る桑縁の傷を早く治すため、望むように行動させたいがために明超は霊薬を欲したのだ。
「御免なさい……」
「なんで謝るんだ?」
「だって、僕のために無償奉仕することになってしまったなんて……」
「いいんだよ」
明超の優しさが、嬉しいが申し訳なくてつらい。はらはらと涙を零し、流れる雫を明超の指が拭う。
「無償奉仕だってなんだって、俺はお前の側にいられたらそれでいい。もう決めたからな」
「決めた……?」
何を――と問う前に視界がまわる。圧し掛かった明超が眼前で微笑み、視界の隅には先ほどの白い月が浮かぶ。
「冥婚しよう。百年くらい後でいい。お前が寿命を全うしたあと、冥婚しよう」
「はい!?」
愛の言葉が『冥婚しよう』だなんて、そうそう聞けるものではないだろう。少し拗ねたような顔で、明超は言葉を続ける。
「だって、俺は死んでるんだから仕方ないだろう? 代わりに生きているあいだはお前にとことん付き合ってやる。そのために
「明超……」
桑縁は涙を拭うと、仰向けのまま明超の頭を抱き寄せた。
「ありがとう、ございます……僕……」
「返事は?」
問われ、いま必要な言葉が何であるかをすぐに思い出す。
「えっと、よ、喜んで」
「宜しい。これからも宜しくな。それから――」
「ひぁ……」
首筋に口付けられ、咄嗟に声を殺すこともできず、桑縁は身をよじった。そんな桑縁を見て明超は満足そうにぺろりと舌で唇を舐める。――その艶めかしい一挙一動が、桑縁の身体を燃え上がらせた。
「あ、あの。下に、降りませんか?」
ニヤリと笑った明超は、桑縁の耳元に唇を寄せる。
「どうした? 恥ずかしいのか?」
「そりゃ、恥ずかしいですよ……だって、ここ吹きっ晒しじゃないですか……」
誰も来ないような辺鄙な場所であるとはいえ、壁もない場所だ。困惑している桑縁を見てさらに面白そうに明超は桑縁を見る。
「いいじゃないか。今すぐ、お前の全てが欲しい。代わりにお前が喜ぶようなこと、たくさんやってやる。……薄明のやつに義鷹侠士の衣装を借りてきたから、お前が望むように、最高にカッコいい俺の姿でお前のことを抱いてやる」
「――っ……!」
殺し文句が過ぎる!
見たい気持ちと見たくない気持ちとが、心の中で激しい戦いを繰り広げている。現時点の明超は、正直に言えば最高に凛々しく美しい。普段のだらけているときだって当然好きだが、祭祀のときに見た義鷹侠士の姿ときたら、桁違いの凛々しさと美しさだった。天上天下全てにおいて何者にも勝る至宝の勇士。もはや何を言いたいのか分からないが、つまり恐れ多いほど最高にカッコいいということだ。そんな姿の彼に……など、あまりにも背徳的すぎて自分で自分が許せない。
「そ、そ、その……」
未だ激しく燻り続ける己の中の欲望と戦いながら、桑縁は一つの決断を下す。期待を込めた明超の眼差しから、少しだけ視線を外し、恥じらいながら口にした。
「どうぞ、貴方のご随意に……」
他人任せであるが。
もうこれしかないと思った。
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