第4話:渾天

 犀角さいかく杯を見つけた足で、桑縁と明超は瑛月楼を訪れた。しかし景王は既に本邸へと発ったあとで、高雲は安旦を後宮に送ったあと、瑛月楼には戻らずに景王の元へと向かったらしい。仕方がないので言付けだけを残し、二人は別邸へと戻ることにした。


 瑛月楼に立ち寄ったこともあり、既に四更を過ぎている。別邸に戻った桑縁たちは、屋敷の衛卒と使用人たちにたいそう心配されながら出迎えられた。安旦に会ったあと一度屋敷に戻ってきたが、次に出たときは初更を過ぎたあとだったため、こっそり屋敷を抜け出してきたのだ。

 とみに衛卒たちにとっては第二皇子が直々に桑縁を守れ、屋敷に入ろうとする怪しいものは排除しろと厳しく言われているため、生きた心地がしなかっただろう。さすがに無断で出てしまったことについては丁寧に謝罪した。


「床下に犬が隠れているのでしょうか……先ほどから近くで声が聞こえるのですが、一向に姿が見えません……」


 焼け跡にいたはず犬は、廊廡ろうぶの片隅で丸くなっている。あれほど曹州漆陶器什物鋪そうしゅうしっとうきじゅうもつほから離れなかったというのにだ。幽鬼にも色々いるらしいが、この犬は他の人間が見ることはできないらしい。姿が見えぬのにどこからか犬の鳴き声が聞こえるので、徐老人も不安そうな顔をしていた。


「この犬、連れてきちゃいましたけど、飼うんですか?」


 周りのことを全く気にする様子もない犬の幽鬼を指差し、明超を見る。不服そうな顔で明超は口を尖らせた。――そんな子供っぽい表情が可愛らしいのだが、彼は気づいていないようだ。


「俺が連れてきたんじゃないぞ、この犬が勝手についてきたんだ」


 ならばよほど明超のことを気に入ったのだろうかと思いきや、明超の考えは違うらしい。


「多分、俺たちと一緒なら、『おれのおんな』の仇が取れるとでも思ってるんじゃないか」

「そんなこと、あるんですか?」

「幽鬼になるってのは、何かしら心残りがあったりするものさ。だからこの犬も自分の心残りをどうにかしたいんだ。なあ、黄豆こうず

「どうして黄豆こうずなんです?」

黄耳こうじじゃ名前負けするだろ?」


 黄耳こうじというのは忠犬と名高い犬の名である。彼が言っているのは、『おれのおんな』の仇を討たんとする、この犬の志はたいしたものだが、さすがに忠犬の名をつけるのは恐れ多いということ。それより桑縁は目の前にいる幽鬼の男の心残りのことが気になっていた。幽鬼の犬に心残りがあるのなら、彼の心残りはいったい何だったのか。

 そんな桑縁の気持ちを知る由もなく、幽鬼の黄豆こうずは夜空に向かって一声吠えた。


    * * *


 黄豆こうずには紙の餌を燃やしてやり、桑縁と明超は瑛月楼で貰った点心と、使用人が作ってくれた簡単な夜食を食べてから二階の露台へと上がる。目的はもちろん、星を観るためにほかならない。

 露台には渾天儀こんてんぎが据え置かれ、静かに来訪者を待っている。表面を触ると細かい傷があるので、随分と使い込まれているようだ。しかし手入れはきちんとされており、壊れている様子はない。天文台で使用しているものより、少し旧い型のようだから……どこか倉庫から持ち出してきたものか。


「ありがたいけど、うちから運んだものでないとすると……これ、いったいどこから持ち出してきたんだろう」

「二殿下は笑って誤魔化してたな。まあいいじゃないか、二殿下のことだから手続きはしっかり踏んでいるだろうし」

「まあ、抜け目のない人ですから……」


 噂に聞いた程度だが、禁中の倉庫には普段使用するものとは別に、渾天儀こんてんぎが収蔵されているらしい。


(もしかして、それを持ち出したんじゃ……)


 仮にそうであれば、ありがたいことだが恐れ多く、なんとも勿体ないことだ。


 未だ身体の自由がきかないため、普段通りに観測をすることは難しい。それでも桑縁のために気を利かせて明超が二殿下に頼んでくれたのだし、二殿下も快くそれを受け入れてくれた、あまつさえ、こんなに立派な渾天儀こんてんぎが届けられたのだから、なんだか恐縮しきりだ。

 思うように動けぬもどかしい気持ちを抑えながら、明超に介添えされつつ星を観る。ここしばらくのあいだは、本当に星を見あげることしかできず、記録はおざなりになっていた。こうして望筒から星を覗くだけで、こんなにも胸がときめき、涙がこみ上げるとは思いもよらなかった。


「感想は?」

「感無量ですね」


 手短に答えた桑縁に明超が笑う。感無量過ぎて言葉が足りてないことに気づき、慌てて桑縁は「とても素晴らしくて、気持ちがこみ上げます」と言い繕った。


「気にするなよ。俺は知ってるからさ」


 思えば彼を初めて家に招いた日にも、桑縁はお構いなしで自宅の櫓で星を観察していたのだ。あの頃はまだ明超のことを『恩人ではあるが義鷹侠士をかたる、ちょっと面倒な奴』としか思っていなかった。けれどいまは違う――彼は桑縁にとって、唯一無二の特別な存在。


「すみません。感動したのは本当です。久しぶりに渾天儀こんてんぎを動かすことができて、嬉しかった。それに、明超が僕のことを考えて二殿下にお願いをしてくださったことも。本当に嬉しかったんです。でも夢中になり過ぎて言葉が散漫になってしまって……」


 改めて言葉を選びながら、感謝の気持ちをたどたどしく伝える。悠然と微笑んだままの明超は「分かってるよ」と桑縁の頭を軽く撫で頬を寄せた。


「周りが見えなくなるほど、星辰に想いを傾けるお前が好きだ。どんな外圧にも屈しない、真っ直ぐさが好きだ」

「……」

「どうした?」

「いえ……なんか、極端すぎません?」


 急に甘い言葉を絶え間なく浴びせられ続け、実は夢ではないかと不安になってしまう。こんな歯の浮くような台詞ばかり言う男だっただろうか?


「お前、また失礼なこと考えてるだろう」

「まあ、少し」


 こら、と明超に鼻先を小突かれて苦笑いを浮かべる。


「そうだ。気になっていることがあるんです」

「なんだ?」


 渾天儀こんてんぎを動かし、丹念に自前の観測帳に書き記しながら、桑縁は頭にある一つの考えを口にする。


「……二殿下は僕に秘密で蔡府の一件を調査していますよね」


 明超の動きが止まった。どうやら桑縁の考えは当たっているらしい。そして、明超がそのことを知っていて、意図的に隠していたことも。


「やっぱり。蔡府は燃え落ちたのに、やたら僕のことを厳重に警備させているから、ちょっとおかしいと思ったんです。共犯がいるだろうとは思いましたが、たかだか霊台郎一人に対してここまでするのは……幼馴染みであるということを差し引いたとしても少し警戒しすぎるほどです」

「いつ気づいたんだ?」

「明超が渾天儀こんてんぎを持ってきてくれるように頼んだくだりで、です。傷が完治するまで、この警備を解かないことを貴方は分かっていた。――つまり、僕に危害が及ばないように、二殿下が相当な注意を僕に対して払っていた、そうなる理由があると分かっていたからですよね?」


 桑縁が言い終えると、挙動不審な明超は、何度も妙な呻き声をあげながら視線を泳がせている。言葉に窮しているのか、次に言うべき言葉が出てこずに迷っているらしい。


「呆れた……」


 そして、出てきたのがこの言葉である。


「二殿下が注視しているのは、おそらく……いえ。明日、二殿下に会ったときに話しましょう。いまは空を見る時間を、問答で消費するのは惜しいです」

「自分から切り出しておいてそんなこと言うか?」

「だって……」


 そこまで言ったあと、迷いながら次の言葉を探す。


「気になったらすぐ言いたくなるのは性分なんです。思い立ったらつい言葉に出してしまうので。悪い癖だと思っています。でも、話している途中で……この時間を無駄にしたくないと思ったんです」

「この時間?」


 問われ、恥じらいながら桑縁は小さな声で言った。


「貴方と、こうして星を観る時間、です」


    * * *


 入念に渾天儀こんてんぎの望筒を調整し、明超のために場所を譲る。なぜそうするのかといえば、広大な夜空を指し示すより位置を合わせて筒を覗かせたほうが明確に見せたいものが見えるからだ。


「見る前に動かすと分からなくなりますから……注意してくださいよ」

「分かった」


 いつものように星の観測を始めようとしたところ、明超が星について教えて欲しいと言った。ならば彼も知っている星を見せてやりたいと、桑縁は考えた。


「見えてますか?」

「うん。赤い星が見える」


 狙い通りの星を明超が見てくれたことに安堵しつつ、桑縁は言葉を続ける。


「立夏の頃には、もっとよく見えるようになりますよ。その星が東方青龍の心宿――つまり、八十年前に滅びかけた庚国の太子が熒惑けいこくと見間違えた星です。」

「おお、確かに赤いな。これなら殿下が見間違えたのがよく分かる」

「『東宮蒼龍は房と心である。心は明堂を為し、大星は天王であり、前後の星子は屬す。直を欲せず、直に則れば天王は計を失う。房は府を為し、曰く天駟てんしである』[*天官書]古い書物の一節です」


 敢えてこの星を選んだのは、以前彼がこの星に興味を持っていたからだ。数ある星の中から、よりにもよって死ぬきっかけとなった星の話を持ち出すのはどうかとも思ったが、そのときの反応を見て、多かれ少なかれ、彼はその星の意味を知りたいのだと考えた。


「青龍の心臓でもあるこの星は、大火と呼ばれていて……」

「そういや『あれは大火でございます』って熱心に叫んでいたな」

「……忘れてください」


 恥ずかしさのあまり、小声で懇願するも、やはり笑顔で「忘れない」と返されてしまう。


「つまり――不吉な星ではないんだな?」


 そんな恥じらいを察してか、話題を切り替えるように差し込まれた明超の言葉。桑縁は暫し考え、答えを探す。


「完全にないかといえば、そうでもなく……。吉凶は表裏一体で良いことばかりではなく悪いことも当然含まれます。ただ、そうですね。『熒惑けいこく守心』といって、熒惑けいこくが心宿に留まり続けた場合は、一般的にとんでもなく悪いことが起きると言い伝えられています。とはいえ、さすがに熒惑けいこく守心は義鷹侠士の物語中には出てきませんけどね」


 仮にそんな記載が物語の中にあれば、登場人物も読み手も、絶望するしかない。


「あのときは俺も、星を確認する余裕なんてなかったし、どれかも分からなかった。ああ、そうなのかあ……なんて思ってたくらいだったな」

「命を懸けたのに割と感想は軽いんですね……」

「皆疲れていたんだ。それに周りの空気が殿下の言葉で意気消沈したのが分かったから……一つここらで気持ちを切り替えさせなきゃいけないって思ったんだ」


 その言葉に桑縁の胸は痛む。やはり、もしも太子がそのとき言った言葉が異なっていれば、皆が絶望することはなかったのではないか。


「そんな顔をするな。とうの昔に終わった話だ。皆やお前が、俺たちのことをずっと忘れずにいてくれる、それだけでも俺は嬉しいと思っている」


 頬を撫でる明超の手が柔らかく優しい。温かさがないことだけが、彼が生者ではないことを物語っている。それでも――温かさの有無など、いまとなっては些細なことでしかなかった。

 引き寄せられた体は自然と重なりあい、一つであるようにぴったりとくっついている。既に星を観るどころではなく、いまはただ、明超のことで頭が一杯だった。



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