第3話:再会

 しばらくのあいだ平穏な時間が訪れた。厳重な警備のお陰で、外界からほぼ隔絶されているといっても過言ではない。母のことは心配だったが、せめて不自由なく歩けるようになってから会えと明超と景王に助言された。

 あのあと厨師や、使用人が増え、自分には勿体ないほど生活はしやすくなったが、それでも明超が傍にいて桑縁のために世話を焼いてくれることは、変わらなかった。

 それから白老人が水連棚の面々を引き連れてやってきた。青海とは白老人の捜索をしたとき以来であったから、白老人が助けられたあと彼に会うのは初めてだ。


『座頭が助かったのは秦公子のお陰だと聞いております。ですが、代わりに公子が大怪我をされたと……。このご恩は、一生忘れません』


 他の面々も桑縁に向かって礼を尽くし、感謝してくれた。けれど白老人を水連棚まで運んだのは明超であるし、桑縁は一人早まって失敗しただけのような気もする。だからこのように感謝されることは申しわけないような、照れくさい気持ちだった。

 白老人は水連棚を代表し、膝を折って桑縁の前で誓った。


『我々水連棚こと白角会ばっかくかいの一同は、三代目義鷹侠士と秦公子がお困りの際は、全面的にお力添えさせていただきます』


 明超が正体を明かしたあとで、彼が改まってそう言ったのだから、つまり『三代目義鷹侠士である』と対外的には扱うつもりなのだろう。


『どうせ協力するついでに、脚本のネタでも探すんだろ』


 と明超は言っていたが、それについては桑縁も明超と同意見だ。


(変なこと書かれなきゃいいけど……)


 心配しているのは、そこだけである。


    *


 あまりにも穏やか過ぎる時間――。

 背中の傷は順調に回復の傾向にあり、完治とまでは行かないが、ようやく中衣に血が滲まなくなって仰向けに寝ることができるようになった。走ることはできないが、明超に介添えをしてもらいながら、少しのあいだ歩くこともできる。

 だが、桑縁の心の中にはまだ不安があった。


『旦那様はもうおりません。全て炎の中に消えたのです。ですから、もうちん毒で誰かが死ぬようなこともありませんから……』


 去り際、槐黄かいおう茗爛めいらんに言った言葉。桑縁はずっと……ずっとその言葉が引っ掛かりっていた。確かに蔡府も蔡天文官も死んだ。しかし、全て彼が一人で画策したことだったのだろうか?

 蔡府は燃え落ちたが、西域の一座の所在は不明のまま。その行方は茗爛めいらん槐黄かいおうも知らなかった。曹州漆陶器什物鋪そうしゅうしっとうきじゅうもつほの店主を殺し、紹玲の死体をに運んだのは蔡天文官の命を受けた槐黄かいおうだったが、どうしてそうする必要があったのか、紹玲を殺したのは誰か、については一切秘されていたそうだ。


(蔡天文官が誰かと協力関係にあったことは間違いない。そしてその相手は……おそらくまだ生きているはずだ)


 茗爛めいらんの叔父なのではないか、という話もあったのだが、叔父であるならば槐黄かいおう茗爛めいらんへ頑なに教えぬ理由にはならない。


「う~ん……」


 暇にあかせて唸っていると、明超が煎薬を持ってやってきた。寝台の脇に椀を置き、桑縁の上体を起こす明超の手つきはすっかり慣れたもの。


「どうした? 浮かない顔をして」

「ずっと引っ掛かっていることがあるんです。……本当に犀角さいかく杯の件は解決したのでしょうか?」

「というと?」

「仮に娘々を狙おうとした場合、蔡天文官では、どうやっても娘々に毒を盛るなんて不可能でしょう? それに、仮に御子息の仇を討つつもりだったのなら……本当に目的は皇后娘々だったのでしょうか? そうだ。初めに僕を殺そうとした刺客は蔡府の衛卒たちだったんですよね? 曹州漆陶器什物鋪そうしゅうしっとうきじゅうもつほで僕を襲ったのは槐黄かいおうさんで、槐黄かいおうさんは蔡天文官の命令で動いていた……」


 蔡天文官が絡んでいたことは、動かしがたい事実。しかし、そうであればなおのこと、桑縁が狙われた理由が見当たらない。


「僕が天文台で卓子の上に会った観測帳を見たこと、観測帳が書き換えられていたこと。もしあのことが、僕の狙われた理由なら……少なくとも蔡天文官のほかに、翰林天文院でない、司天監も関わっているのではないかと思います。なぜなら――」

「司天監と翰林天文院は毎朝必ず互いの結果を付き合わせて、齟齬がないか確認する、そうだったな」

「はい。翰林天文院と司天監はその性質上、互いに独立し干渉しあうことは滅多にありません。僕は天文台で文書を取り落として整理したその日の夜に、蔡天文官の放った刺客に命を狙われました。本来はあんなにも早く蔡天文官が知っているはずがないんです」


 明超は顎に手を当てながら、考えているようだ。桑縁には分からないが、刺客の戦い方や動きは明超が一番理解している。


「確かに……繋がらないことが多い気がするな。紹玲を唆したやつもまだ分からない。少なくとも、お前の足を刺した奴がそうだとは思えなかったな」

「そうなんですよ。……それに、犀角さいかく杯の行方も、結局のところ分からず仕舞い。やはり太子殿下の確認を待つ以外、何もできないのでしょうか……」


 打つ手なし、の言葉が脳裏に浮かぶ。引っ掛かりっているのに、何の取っ掛かりも見つけることができない。杞憂に終わればよいのだが、果たして杞憂なのかそれとも。仮に犀角さいかく杯が偽物だと分かったとして――ならば本物はいったいどこにいったのか、という話になる。


「そうだ。お前、後宮で侍女として潜り込んだ時に世話を焼いてくれてたやつがいただろう。あいつに聞いてみるってのは、どうだ?」


 モヤモヤとしていた桑縁の耳に、明超の声が届く。


「世話を……って、もしかして安旦さんのことですか!?」


 安旦というのは、侍女として後宮にやってきた際に、勝手の分からぬ桑縁のために何かと世話を焼いてくれた女性だ。気も強く姉後肌、ひ弱な桑縁のことをずいぶんと気にかけてくれていた。


「確かに、安旦さんなら娘々にお仕えしている年数も長いので、何か知っているかもしれません。でも、話を聞く手段が……」

「いるだろ? 後宮の宮女でも侍女でも、連絡を取れるやつが」


 明超の言わんとすることは桑縁にも理解できたが……連れてくるのか、桑縁が行くのか。いずれにしても一筋縄ではいかないだろう。


    * * *


 その日、桑縁は久方ぶりに別邸の外に出ることができた。とはいえ、背中にはまだ生々しい傷跡があり、背を縫った糸もまだ取れてはいない。そこで別邸から一番近い客棧きゃくせんの一番いい部屋を景王が借り、その部屋で安旦に会うことになった。

 桑縁は白い寝衣を着こんだだけだが、明超は商人を装っている。普段より質素で落ち着いた雰囲気はなんだか新鮮で、ついちらちらと彼のほうばかり見てしまう。


「いいか。お前は急な病に倒れ、後宮を出て療養をしていたところ、商人の夫に見初められて結婚したという設定だ。療養生活で少しやつれているから丁度いいだろう」

「夫……」


 反射的に明超を見ると、にこりと微笑み返される。傷が治るまでは大胆なことはできないが……隙あらば明超は桑縁に口付けてくるのだ。急にそのことを思い出して、桑縁はどぎまぎとしてしまった。


 客棧きゃくせんの一室に寝かされて、上体だけ起こした状態で安旦を待つ。ほどなくして給仕の格好をした高雲と、普段通りの姿をした珊林に案内されて、安旦が部屋にやってきた。


「桑桑!」


 しばらくぶりに会った珊林は変わりないようだ。桑縁と目が合うと笑顔で軽く頭を下げる。


「久しぶりだね、本当に驚いたよ! 急に昭都都知から呼び出されたと思ったら、アンタが会いたいって言ってるから会いに行ってくれ、なんて言われるとは思わなくてさ」


 桑縁は駆け寄ってきた安旦に「ご無沙汰してすみません」と挨拶をした。久しぶりに聞いた名だが、昭都都知というのは景王の宦官としての官職だ。


「急にお呼び立てしたことを、お許しください。急に恵鳳殿を離れなければならなくなって……安旦さんには侍女としての様々な仕事を教えていただいたにもかかわらず、ご挨拶もせずいなくなって、申しわけありませんでした」

「いいんだよ! それより病だって聞いたけど、大丈夫なのかい?」


 寝台脇の椅子に座るよう彼女に促し、明超が卓子の上に彼女のための茶と菓子を準備した。安旦は申し訳ないと断ったものの、貴女のために出したので是非にと言うと「じゃあ、ありがたくいただくよ」と快く菓子を口にする。


「少しやつれたんじゃないか? 状況はどうなんだい?」

「幸い、人に移る類いの病ではなく、養生すれば良くなるだろうと医者の見立てがありました。お陰でこうして安心して過ごすことができています」

「ならよかったよ。それに、優しそうないい旦那じゃないか。商人なら見入りも悪くないだろうし、急にいなくなって心配していたけど、安心したよ」


 急に話の矛先が明超に向いて、飲みかけた茶を吹き出しそうになった。妙に誇らしげな顔の明超と目が合って、なんだか恥ずかしくて桑縁は俯いた。


「は、はい。とてもよくしていただいて、います」


 ならよかった、と心からの笑みを向けてくれた安旦を騙していることに申し訳なくも思う。しかし、本当のことを話さないのは彼女のためでもある。


「安旦さんに内密に相談したいことがあって、それで昭都都知にお願いをしました。――実は先日、行方不明になっている紹玲さんの身内の方が遠方から尋ねてこられたんです。彼らは、娘々のところで働いていた私が後宮から出たことを知って、会いに来たのだと言っていました」


 会ったこともない紹玲の身内がやってきた話にしたのは、いまも後宮で宦官として働く珊林に危害が及ばぬようにするためだ。効果はないかもしれないが、桑縁は安旦の人柄を信じた。


「娘さんが行方不明じゃ、ご両親もさぞや心配だろうね。それで、何を聞かれたんだい?」

「それが『娘は誰かと恋仲だったみたいだが、顔に酷い痣を作っていた。おそらく恋人から暴力を振るわれたのではないかと思うが、心当たりはないか?』と。私は、紹玲さんがいなくなってから入ったので何も分からなくて、何も教えてあげられなかったので申し訳なく思いました」

「そうだったんだね……。正直途方もないことばかり言うし、あまりいい娘さんとは言えなかったけど、ご両親からしたら行方も分からないなんて、さぞつらいことだろう」


 安旦は沈痛な表情を浮かべる。


「途方もないことって?」


 彼女のただならぬ様子を感じ取り、桑縁は安旦に尋ねた。安旦は多少悩んだようだが「紹玲の身内には言ったら駄目だよ」と小声で前置くと、言葉を続けた。


「あろうことかあの娘、『そのうち娘々って呼ばせてあげるわ』なんて言うのよ? 皇后娘々のいる恵鳳殿でよ? 聞いたのがあたしだったから、黙っていたけど……他の宮女たちだったら、杖刑どころじゃすまないわよ」

「そんなこと言ったんですか!?」


 さすがに驚きを隠せなかった。自分のことを娘々と――それはつまり、『自分が皇后になる』と暗に言っているようなものだ。仮に皇后娘々の耳に届いていたならば、死罪だってあるだろう。


「ちょっと自信過剰だと思ってたけど、さすがにね……。そんな夢見がちなこと言ってたから、きっと侍女の暮らしが嫌になったのかもねぇ」


 頬杖をつき安旦は深い溜め息をついた。桑縁の内心はそれどころではない。殴られて殺されると言っていた紹玲は、なぜ『自分が皇后になる』などということを言ったのか。


(まさか彼女の恋人って、皇帝陛下!?)


 一瞬そんな考えも浮かんだが、飛躍しすぎている。宮女が皇上の目に止まり妃賓になるのは、無いわけではない話だ。しかしそうであれば、品位はともかくすぐにでも紹玲は妃賓になっていることだろう。

 そんな桑縁の内心には気づかずに、安旦は話を続ける。


「あたしが思うに……確かに紹玲には男がいたみたいだね。はっきりと誰かは分からないけど、立場はあたしたちよりずっと上のはずだよ」

「宦官ということは考えられますか?」

「まず無いだろうね」


 きっぱりと言い切った安旦の言わんとすることを察して、桑縁は言葉を失った。


「もしかして、彼女は子供を……」

「ああ、違う違う。でも、その気満々って感じだったからさ。だから偉そうな態度含めて、宦官以外のそれなりの地位にいる男じゃないかって思ったんだ」


 確かに紹玲の遺体は身元こそ不明で扱われたが、検屍で調べたうえに明超も彼女の検屍結果を見ている。もし妊娠していたならばおそらく気づいていたはずだ。


(そうか。宦官ではないのか……)


 まず真っ先に脳裏に浮かんだのは蔡天文官の姿だった。――しかし、彼は息子を失い尚且つその復讐に燃えていたのだ。復讐のためには手段を選ばず、娘を養子に出した彼ではあるが、見たところ茗爛めいらんは父親から暴力を受けてはいない。となれば、殺されるとまで言わしめた紹玲の恋人と考えるには少々辻褄が合わない気がした。

 となると、やはり蔡天文官と協力関係にあった人物は別にいるはずだ。


 尋ねたい内容は怪しまれない程度にほどほど話し、そのあとは逆に桑縁が安旦から質問攻めにされてしまった。二人の出会いはどのようなものだったか、病の身体で婚儀はどうしたのか、いまの生活はどうか――。桑縁だけではうまく隠しきれなかっただろうが、あることないこと明超が違和感なく織り込んで語ってくれたお陰で、安旦は納得してくれたらしい。「旦那さんのためにもはやく元気になるんだよ」と何度も彼女に言われてしまった。


「以前、恵鳳殿に犬が入り込んで困っているって言ってましたよね。あの犬って、それからどうなったんですか?」


 ふと思い出し、桑縁は迷い込んで来た野良犬のことを安旦に尋ねた。なんとなくだが、犬が現れた時期と紹玲が恵鳳殿にやってきた時期が近いような気がして、何か関係があるのではないかとずっと思っていた。

 ただ、尋ねる前に桑縁は後宮から出てしまったから……ずっと機会を逃してしまっていたのだ。


「犬? そういえば……不思議ね。あれだけ頻繁に見かけたのに、いつの間にかぱったり姿を見せなくなったわ。邪険に追い払うのも気が引けるから、こっちとしてはよかったといえばよかったけど」


 もしやと思っていたのだが、桑縁の予想通りだった。やはり彼女の死とともに犬は消えていたのだ。


(ということは……)


 曹州漆陶器什物鋪そうしゅうしっとうきじゅうもつほの中に紹玲の死体は置かれた。犬の幽鬼は曹州漆陶器什物鋪そうしゅうしっとうきじゅうもつほの焼け跡から動かなかった。もしやあの犬は、紹玲を追いかけてあそこまでやってきたのではないか。

 しかし、そうなると……犬も、紹玲も、死んだことになる。


「一つお伺いしたいのですが、紹玲さんが盗みをしたという噂があったと聞きました。やっぱり、彼女がいなくなってからそういったことは無くなったんですか?」

「ええ。……あんまり悪いことは言いたくないけど、確かに彼女が姿を消してから、物が消えることは無くなったわよ」

「……」

「ねえ、桑桑」


 深刻な顔をした安旦が、桑縁を見つめている。うっかり突っ込んだことを話し過ぎて、怪しまれたのではないか。不安に思いつつも「何でしょう?」と桑縁は尋ねる。


「もしかして……紹玲は悪い男に騙されて貢がされてたって、アンタも思ってるのね?」

「はい……?」

「いいのよ。アンタは恵鳳殿の他の侍女と比べても、生真面目すぎるほど生真面目な性格だし、たとえ彼女と会ったことがなくても、彼女の身内が尋ねてきたらそりゃあ心配になるわよね。でも、アンタは自分の体のことを一番に考えるのよ。いいわね、こんなに素敵な旦那さんまでいるんだから、悲しませるようなことをしちゃだめよ」

「……」


 呆然としていると、にやにやしている明超と目が合った。語らずして彼の目は『分かったか? 俺を悲しませるようなことはするんじゃないぞ!』と言っている。悔しいが、言い返す言葉が見つからない。

 結局見なかったことにして、安旦の言葉には「分かりました」と棒読みで答えるしかなかったのだった。


    *


 窓の外から馬車を出す音が聞こえてくる。桑縁は安旦を部屋から見送り、明超は彼女と、彼女を馬車で送る珊林と高雲を宿の外まで見送りに行ったのだ。そのあいだ、桑縁は安旦とのやり取りを反芻しながら悶々とあることを考えていた。


「あの、明超……?」


 明超が部屋に戻るなり、桑縁は彼に声をかけた。入ったときはにこやかだった明超の目つきが、急速に不機嫌なものに変わる。


「なんで睨むんですか……」

「お前が次になんて言うか当ててやろうか。『曹州漆陶器什物鋪そうしゅうしっとうきじゅうもつほの焼け跡まで行きたい』」

「ど、どうして分かったんですか!?」


 明超がまさかそこまで当てるとは思わず、桑縁はかなり驚いた。言ったら絶対に却下されるであろうと思い、詳細はもう少しあとで言うつもりだったのだ。明超は桑縁の脇に腰を下ろすと桑縁の鼻尖びせんに人差し指を当てた。


「だってお前、ずいぶん犬の話を気にしてたじゃないか。犬ったら曹州漆陶器什物鋪そうしゅうしっとうきじゅうもつほの焼け跡にいた幽鬼の犬だ。そして、あの場所には紹玲の死体があった。……お前は安旦の話を聞いて、その犬が恵鳳殿と関係ある犬だと気づいたんだろ?」

「うっ……まあ、そうです。でも気づいたのは、恵鳳殿に犬が来なくなったって聞いたときです」


 それまでは本当に、恵鳳殿の犬と焼け跡にいる犬が同じだとは考えもしなかった。彼女の一言で『もしかして』という考えが生まれたのだ。


 ――思い立ったら、すぐにでも確かめたい。


 この体が自由に動くのなら、今すぐ走って曹州漆陶器什物鋪そうしゅうしっとうきじゅうもつほの焼け跡まで確かめに行きたい。悲しいのは傷はある程度塞がってはいるが、完治にはほど遠いこと。明超の助けがなければ、桑縁は長時間歩き回ることはできないということ。力を入れることができないため、できることはかなり限られている。

 じつに不便極まりない状態なのだ。


「全く……まだろくに歩くこともできないってのに、お前ときたら本当に無理を言うよな」


 溜め息をつきつつも、明超は桑縁の頭を掻き抱く。わしわしと頭をかき混ぜられながら、彼が桑縁のことを心配しつつも願いを叶えてやろうと考えていることが伝わってくる。


「今回だけだからな? 用事が済んだら真っ直ぐに別邸に戻る。いいな?」

「はい!」


 嬉しくて明超に抱き着くと、明超も満更でもなさそうな顔で桑縁の腰に手を回した。


    * * *


 夜――――。

 昼でも夜でも人の絶えない庚央府の繁華な街路は、初更を過ぎてもなお賑わいを見せる。二更でようやく通りを歩く人が減り始め、聞こえてくるのは店の内外で酒を片手に語らう男たちの声ばかり。それでも特別賑わう場所にいたっては、提燈の灯が消えることは無い。

 桑縁と明超は繁華な場所を避け、できるだけ静かな道沿いに進み、目的の場所にやってきた。蔡天文官が亡きいまとなっては、何を警戒するのかというところだが、未だ傷の治らぬ桑縁を隠すようにして明超が行動しているのは、やはり彼も蔡天文官が死んだだけでは終わらぬだろうと考えているからだろう。


「えっと、降ろしてください……」


 明超の背中越しに、桑縁は懇願した。


「まだ目的の場所までもう少しある。大人しく負ぶわれているんだな」


 取り合う気はない、という強い意志を感じる口調である。

 曹州漆陶器什物鋪そうしゅうしっとうきじゅうもつほの焼け跡に行きたいと頼み込んだが、桑縁一人で行くことなど不可能の極み。どんなに上等な馬車に乗ろうとも、やはり馬車は馬車。揺れを消すことなどできないし、歩いて焼け跡まで行くことも不可能だった。


 ならば明超はいったいどうしたのか?

 景王の別邸は住宅街から隔てられた閑静な森の奥深くにある。由来は古く、彼が生まれるより以前に建てられたそうで、そこに屋敷があるとも知らない人がほとんどだ。

 明超は桑縁を負ぶったまま、曹州漆陶器什物鋪そうしゅうしっとうきじゅうもつほのある街路へと向かった。彼にしかできない芸当であるが、無茶だし少し恥ずかしい。それでも、自分が無理を言ってここまで連れてきてもらったのだから、彼に文句を言うことはできなかった。


「――ほら、着いたぞ」


 ゆっくりと明超が屈み、彼の背から恐る恐る降りる。桑縁は明超に支えられながら、焼け跡の様子を確認した。


「ずいぶん片付けられちゃいましたね」


 以前は黒炭になった木材が散乱していたが、かなりの量が片付けられている。そう遠くないうちにこの場所は更地になって、ゆくゆくは新しい店か屋敷が建つのかもしれない。

 懐の紙細工を取り出すと、幽鬼の犬を探す。


「あの犬、まだいると思うか?」

「犬は情が深く賢い生き物ですから、きっとまだいると思います」


 なにせ幽鬼になっても紹玲のことを追いかけてきたのだ。桑縁の予想が正しければ、あの犬がこの場所にいることと、紹玲の死体があったことは何かしら関係があるに違いない。


「お、いたぞ」


 明超の声で桑縁は顔をあげた。小さくて汚れた犬の幽鬼が、物陰から姿を現したのだ。桑縁は明超の助けを借りながら犬と同じ目線に腰を落とし、紙細工を犬の目の前で振ってみた。


「ほら、見てみて。これは簪と、それから器と……」


 犬の視線とは別にもう一つの視線を感じて桑縁が振り向くと、明超が凄い形相で紙細工を見つめている。


「それ……簪と器なのか?」

「……伝わればいいんです、伝われば」


 暗に不器用であることを指摘されたような気がして、ついむきになって言い返してしまった。比較的何でもできるほうだと自負しているが、こういったことは苦手なのだ。伝われば無問題。伝われば――。

 犬がじわじわ近寄り、桑縁の手にある紙細工をフンフンと嗅いでいる。どうやら興味を持ってくれたようだ。桑縁はそれを手首で少し動かしてやり、さらに犬の興味を引こうと試みる。


「あっ!」


 一瞬のうちに桑縁の手から明超の手へと紙細工が移っていた――否、明超が奪ったのだ。彼の手から青白い炎が立ち昇り、紙細工は灰となって風に散る。


「何するんです!」


 突然の暴挙に驚き、桑縁は思わず明超に食ってかかろうとした。しかし明超は冷静な顔のまま「あれを見ろ」と言う。なんと、先ほど燃え尽きたばかりの紙細工を、犬が咥えている。


「冥銭は燃やさないと死者に届けることができないだろう? 紙細工もおんなじさ」


 少し得意げな表情の明超は、肩を竦めて「な?」という。言われるまですっかり失念していたが、確かに彼の言う通りだ。以前、紙の食べ物に興味を示さなかったのも、もしかしたらそのせいだったのかもしれない。


「さぁ。この犬がどんな行動に出るか、見てみようぜ」


 二人でじっと犬の一挙一動を見守る。実のところなぜこの犬に紙細工を渡そうと思ったのかというと、あまり根拠はない。ただ、恵鳳殿の物が盗まれた原因がこの犬にもしもあったとしたら――そう思ったら、とりあえずこの犬が興味を持ちそうな紙細工を渡して、どう行動するか試してみたいと思った。しばらく紙細工を咥えたり放したりしていた犬は、やがてそれを咥えたままゆったりと歩き始める。


「歩き始めました!」


 小さく声をあげると、身体が宙に浮く。何が起こったのかと理解する前に、桑縁は明超の背中に収まっていた。つまり、明超が再び桑縁を背に負ぶったのだ。


(他に方法がないから仕方ないけど……)


 やっぱりちょっと格好がつかない。


 明超の歩みはさすがのもので、桑縁を背負ったままでも犬の歩みに遅れることはないし、物音を立てて犬を怖がらせることもない。そうやってずいぶんと長いあいだ歩いたあと、犬が止まった場所を見て桑縁は驚いた。


「ここって……后苑の裏手じゃないですか!」


 巡り巡って皇城の裏側にやってくるとは、予想だにしなかった。既に皇城を繋ぐ禁門の橋は跳ね上げられており、中に入ることはできないだろう。犬は橋のたもとにやってくると、前足で地面を掘る仕草をはじめた。すぐさまそれを見た明超が、桑縁をゆっくり降ろすと犬の足元を掘り始める。


「大丈夫ですか?」

「何度も掘り返してるみたいだからな、土も柔らかいもんさ」


 素手で掘り始めた明超を、見守ることしかできないのがもどかしい。しかし、土が柔らかいというのは本当で、手を差し入れるだけで土は形を崩してゆく。騒ぐ幽鬼の犬に急かされながら、明超は桑縁を降ろし代わりに犬を胸元に押し込んだ。動きを封じられた犬はジタバタと藻掻いていたが、次第に落ち着いて尻尾を振り始めた。


「明超は犬の幽鬼にも好かれるんですね」

「まあな」


 妙に得意げな明超に苦笑いしながら、桑縁は明超の掘った穴を見る。中には簪や貝殻、真珠の粒にさじ、箸……とにかく様々な物が埋まっている。


「うわぁ……犬に価値は分からないとはいえ、ずいぶんと貯め込んだもんだなあ……あっ!」


 呆れながら一つ一つ確認していた桑縁は驚いて声をあげた。


「どうした」

「み、み、み、見てください! これ!」


 震える腕に力を入れて、ソレについた泥を拭いとる。袖は泥で真っ黒になってしまったが、代わりに桑縁の手の中にある物は輝きを取り戻した。


「鳳凰が描かれた褐色の杯……」


 手の中の杯を呆然と見つめ、明超が呟く。


 一度も本物を見たことがない桑縁ですら、目にした瞬間に確信した。――これが本物の、犀角さいかく杯なのだと。


「ところで桑縁」


 驚きで言葉を失っていた桑縁に明超の声が届く。彼の腕の中には、未だ犬が収まっており愛らしい瞳を桑縁に向けながら尻尾を振っている。


「こいつが教えてくれた。『おれのおんなを殴ったおとこが、蹴り飛ばした。そいつの腕に噛みついてやったら、もう一人がおれをころした』ってさ」

「……犬が?」

「犬が」


 明超はうなずく。大真面目な顔で。


「犬の言葉が分かるなら、なんで前のときには言わなかったんです?」

「死んだ犬の言葉は分かる。……大雑把に言うと、言葉というよりは魂魄から言いたいことを読み取るんだ。だから、犬の言葉でも猫の言葉でも関係はない。いままではこの犬が語りたがらなかったから、俺も聞きようがなかった」

「なるほど。つまり明超が犬と仲良くなったからこそ、犬も伝わるように語り掛けてくれたということですね」

「そういうこと」


 全ての生き物は等しく死ぬ。そうして体から魂魄が離れ、三魂は天に還り七魄は地に還るという。体を失ってしまえば、あとに残るのは魂魄のみである。そうなれば、同じ死者にとってはそう大差ない、といったところだろうか。


(それにしても『おれのおんな』って……)


 紹玲がこの犬のことをどう思っていたのかは分からない……が、さすがに『私の恋人』とは思っていなかっただろう。この大いなるすれ違いに対して、犬に同情すべきか、紹玲に同情すべきなのか、桑縁には分からない。


「あ、待って。『おれのおんなを殴ったおとこ』って、誰だったんですか?」

「話してくれるかは分からないが、どうだ?」


 明超は腕の中にいる犬に顔を向ける。犬は喉を鳴らし明超を見あげ、何度か吠えた。


「『おとこだった』ってさ」

「……」


 犬との会話は難しい。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る