第2話:天球
遠くで炬火が爆ぜる音、空で鳥が鳴く声。首だけわずかに動かすと、格子戸の隙間から玉兎がその姿を覗かせている。内外を守る衛卒を除けば人手もそう多くはいないため、炬火のほかには屋敷を照らす宮灯もまばらで辺りは仄暗い。
(目が覚めちゃったな……)
決して浅くはない傷のため、自力で起き上がることも難しく、仕方なく目線だけを巡らせると部屋の輪郭が浮かび上がる。
幻想的な絵柄の囲屏も、紅木で作られた家具も、どれもそれなりに値の張るものばかりだ。決して華美ではないものの違和感なく部屋に調和しているのは、ひとえに景王の趣味の良さなのだろう。細微な装飾が縫われた毛氈には、月明かりが格子戸の形を美しく描き出し、室内に控えめな彩りを添えていた。
「起きたのか」
すぐ傍で聞こえた声に息を飲み、次いで部屋の灯燭がともる。炎に照らされた明超の顔を見て、ようやく桑縁は安心して身体の力を抜いた。
「寝すぎたみたいで、目が覚めてしまったみたいです」
「眠れそうか?」
「それが……。同じ格好で寝ていたら体が痛くなってしまって。体勢を変えようにも、背中に傷がある以上できる姿勢は限られています。……少しのあいだだけ、体を起こしてくれませんか?」
起こすだけのはずなのに、なぜかしばらく沈黙が続く。もう一度同じことを言おうとした時に、明超が立ち上がった。
「少しのあいだだけだぞ」
寝台に歩み寄った明超は、なぜか布団を引き剥がす。
「何を……?」
予想外の行動に戸惑っているあいだに、明超の手が伸びる。あっと声をあげる間もなく、次の瞬間には明超に担ぎ上げられてしまった。――まるで荷物を担ぐように。
「ちょ、ちょっと!?」
「それだけ喋れるなら、大丈夫だな。安心した」
月明かりだけでもはっきりと分かった。不敵に微笑む明超の表情は、悪戯をするときの少年のそれとよく似ていてると。
「安心って……わっ!?」
部屋の扉が音もなく開く。格子窓から漏れるよりも強く、明るく、月の光が降り注ぐ。その美しさと眩しさに目を奪われていると、身体が宙にふわりと浮いた。
否、明超が飛び上がったのだ。
「静かにしろよ。衛卒に見つかったらすぐ部屋に戻ることになるんだからな」
音もなく屋敷の屋根瓦に降り立つと、明超は
「あ、あの……」
「星。見えるだろ?」
「へ?」
空を見あげる余裕などなかった。しかし、明超に言われ空を見あげると、満天の星が広がっている。思えばこうして夜空を見ることができたのは、いつぶりだったろうか。ほんの少し前だった気もするし、ずっと前だったような気もする。いつぞや皇城の屋根の上で明超と星について語らったこともあったが、こうして穏やかな時間を共にすることができるのは、ずいぶん久しいように思えた。
「お前の怪我が治るまでは、それなりの時間を要するだろう。だから今日、二殿下に
「もしかして、昼間の高雲さんとの話は……」
「そう、その話。毎日欠かさず星の記録をつけていたお前が、ここ最近はほとんど思うようにできなかったからな。……いくらあいだを二殿下が埋めてくれたとしても、本当は自分で記録をつけたいだろ?」
だから大人しく休養して、ちゃんと怪我を治すんだぞ、と明超は柔和に微笑む。普段はがさつで適当な彼が、ここまで桑縁のことを考えて根回しをしてくれているとは思わず、ひどく驚いた。
「迷惑、だったか?」
明超の顔が急速に不安を帯びる。桑縁は慌てて「違います!」と続けた。
「びっくりしたんです。その、僕のことをたくさん考えてくれていたので……。迷惑なんかじゃないです、嬉しくて……」
顔が熱くて、どきどきする。くらくらしてしまうのは、背中の傷のせいかもしれない。
「こうしていると、後宮で一緒に星を観たときのことを思い出します」
侍女として後宮に入っていたときに二人で見あげた空。そう時間も経ってはいないため、大きな変化は見当たらない。違うのは――同じように屋根の上で空を見あげたのに、抱く思いはずいぶんと変わったこと。
「あのときは俺が宦官でお前が侍女姿だったな」
「八尺の侍女じゃなくて、残念でした」
そう言って二人で噴き出し、笑い合う。うっかり笑いすぎて背中が痛くなり、慌てた明超に心配される。これまでにも危ないことをしたり、心配をかけたりして彼に怒られた。けれど本当に桑縁が死にかけたとき、彼は決して怒ったりせずに、むしろ泣きそうな顔で桑縁のことを労ってくれたのだ。
「いたた……覚えていますか? あのとき『今度は二人で食事でもしながら、ゆっくり星を見あげたい』って言ったこと」
「覚えてるよ」
微かに笑みを含んだ穏やかな彼の口調が、それだけで桑縁の心をざわつかせる。その心を誤魔化すように桑縁は言葉を続けた。
「暫くは無理ですが、傷が治ったら腕によりをかけて料理を作ります。難しい話は脇に置いて、食事をしながら星を観ましょう」
「分かった、楽しみにしてる」
うなずく明超の言葉は短いけれど、それが嘘偽りない言葉であることを知っている。
「でも――いま、一番嬉しいのは、こうして再び天
「それ以上、言うな。……俺の行動が浅慮だったんだ。許してくれ」
「そんな、天
その先を言いかけて、鬼市でも同じことを彼と話したと桑縁は気づく。屋根の上に二人だけ、いまならあの時の夢の話をしてもいいだろうか――。
「僕、鬼市に迷い込む夢を見たんです。死んだと思ったけど、夢の中で天
「夢じゃないさ」
「え?」
聞き返すのとほぼ同時に桑縁の顎に手が伸び、明超の唇がそっと触れた。啄むような優しい口付けに、鬼市での出来事がまざまざと蘇る。
――!?
頭の中が真っ白になって、狼狽のあまり逃げ出したくなってしまう。しかし、いまの桑縁は怪我人で動くことなどできないし、なにより明超の両腕が桑縁をしっかりと抱えている。
「あ、あ、あの! その……夢じゃないって……?」
どぎまぎしながら、桑縁はしどろもどろに尋ねた。
「死にかけたお前は、体から魂魄が離れ彷徨っている状態だった。お前の身体に魂魄が無いことに気づいた俺は、あちこち探し回ったんだ。大変だったんだぞ、東岳廟でお前の生死の確認をして、手あたり次第に思いつく場所を回って、それで鬼市のことを思い出して、ようやく……」
やはり、あのときのことは夢ではなかったのだ。桑縁は彼がすぐ迎えに来てくれたのだと思ったが、思っていた以上に彼は桑縁のためにあちこち探し回ってくれていた。そのことが切なくて嬉しくて、涙がこみ上げそうになる。
「ご、御免なさい。心配を、かけました。僕がいまこうして生きていられるのは、天
それで、の先を言おうとして、適切な言葉が浮かばずに桑縁は困ってしまった。『口付けをしてくれたんですね』なんてどんな顔をして言えばいいのか分からない。
「えっと、あのとき天
変な言い方になってしまったが、明超は気にしていないようだ。特に驚きもせず「ああ」とうなずく。
「生来、万物は陰と陽で構成されているが、生きている人間は陽の気を多く持ち、死んだ人間は陰気を持っている。お前はあのとき死にかけていて、二つの調和が崩れている状態だった。だから、俺が持つ陰気を流し込んでお前の身体の陰陽の気を一番いい状態に誘導したんだ」
「な、なるほど……」
原理としては納得だが、なんだかずいぶんと恥ずかしい思いをしたような気がする。明超から口付けをされたこと、それがとても心地よかったこと。二度目の口付けは荒々しくて、それもまた蕩けそうなほど幸せに感じてしまったこと――。
彼と離れたくなくて、必死で手を掴もうとした。
それが全て、桑縁の命を救うための行為であったのなら。一人でやきもきしている自分が少し切なくなった。
「じゃあ、いまのも……?」
「いまのは違う」
「違うんですか?」
「違う。夢じゃないって言いたかった」
「……夢、じゃない……」
戸惑う桑縁の言葉にも、明超はうなずく。
あの甘美な口付けも、明超の涙も、『絶対に離れない』と言った言葉も。
全てが夢でないというのなら――――。
「お前が好きだ」
聞き間違いだと思った、明超の言葉。
同時に、心のどこかで願っていたことも否定はできない。
にわかには信じ難い言葉に、明超の顔を呆然と見つめる。彼の表情はいたって真面目で、決意の光が瞳の中に宿っていた。
「本当は言うべきではないと思っていた。……俺は既に死んでいて、こんなこと言う資格なんかない。でも、これ以上自分の心を隠せない、黙っているなんて無理だ」
真剣な眼差しの中に、時折切なさが混じるのは、彼が心苦しいと感じているからだろうか。
「正直なところを言うと……助けるためにやってきたっていうのは建前みたいなもんで、本当はそんなお前をもっと知りたいと思った。会ってみたいと思った」
「あの……実際の僕は、会ってみたいと思った僕は、天
「そうだな……。頭はいいが、自分の力量を測れずに無茶をする。俺が離れたらすぐに命を落とすだろうなって思ったな」
よくよく聞くと、割と失礼なことをを言われている気がする。ただ、間違っているかといえば……その通りだとも思う。
「……あの」
「冗談だ。言い方は悪かったが、それもこれもお前の真っすぐさゆえのものだって分かってる。……そういうところも含めて、好きだよ。それから星に真摯に向き合うところも、自分を曲げないところも、愛おしい」
「愛お……」
桑縁は愕然とした。
こんなに甘い言葉を言う男だったか?
実は何か……幻でも見ているのではないか?
それとも、何かに化かされているのではないだろうか?
「お前、失礼なことを考えてるだろう」
見透かされたように明超に指摘され、桑縁は慌てた。けれど嫌じゃない。嬉しくないわけじゃない。それでも、彼が好きだという自分自身を、すぐに信じることができなかった。
「す、すみません。僕は天
「はぁ? なんで薄明のことが出てくるんだよ」
驚いた明超が、訝しげに桑縁を見ている。
「だって、白先生は天
「そりゃ、引き取ったからには面倒くらい見るさ。仲間としてかけがえのない存在なのは本当だ。………………えっ!? お前、もしかして……」
「いえっ! そ、そうじゃ、ありません! その、なんでもないんです!」
あっと思ったときには既に遅い。慌てて取り繕うとしたのだが、既に明超には気づかれてしまったようだ。
――桑縁が白老人に対して、どのような思いを抱いていたのか。
「あ、あのなぁ! 薄明は爺だろうが子供だろうが、関係ないんだよ。俺が好きだって言ってるのはお前なんだから」
「だって、僕は天
「特別だよ」
「っ……」
間髪入れずに答えられ、桑縁は言葉を失ってしまった。
明超の瞳は真面目なものだ。
「お前は自分が飢えているときですら、俺のために冥銭を燃やしてくれた。物語の中でしか知らなかった俺のために、いつも星を見あげて訴えてくれた」
「あ、あれは……。恥ずかしいので、忘れてください」
彼が言っているのは、初めて明超と出会ったときの一人芝居のことだ。直接顔を合わせたのはあのときが初めてだったが、おそらく明超はその前から桑縁がいつも同じようなことをしているのを知っていたのだろう。
「いいや、忘れない。誠は天の道なり。之れを誠にするは、人の道なり……だったか? お前はいつだってその言葉を実践しようと努力してきた。そんなお前の、真っすぐなところが好きだ」
実践しようとしたのは本当だが、実践できたかと言えば甚だ怪しいもの。思うことと実行に移すことでは雲泥の差がある。自分は、明超が言うほど思いを貫くことはできていない。
「その、僕は生意気だし、人の話を聞かないし……」
「そうだな。お前は口ばかり一丁前で、いつも自分から火の中に飛び込んでいく。それなのに悪びれない。本当に心配ばかりかける」
「……」
「……でも、お前はいつだって俺のことを心配して守ろうとしてくれた。蔡府のときだってそうだ。自分を囮にしてまで、俺たちのことを逃がそうとしてくれた。それに、人質になったときだって、俺を助けるために……」
明超の腕が伸び、優しく抱きしめられる。体温も鼓動もない彼の胸の中で、これは夢なのではないかとぼんやりと思う。けれど背中の傷を気遣いながら回された彼の手が、微かに震えているのを感じて、これは夢ではないのだと我に返る。
「俺が体を張って誰かを守ったことはたくさんあった。それが当たり前だと思っていた。……でも、俺のことを命がけで守ろうとしてくれたのは、お前だけだ。俺は、そんなお前を、好きになったんだ」
驚きですぐには言葉が出なかった。
明超から紡ぎだされる言葉の全てが、にわかには信じ難く、けれど心の底から渇望していた言葉だった。彼の真摯な言葉に対して、どのような言葉を返したらいいのか、一瞬で判断がつかなかったのだ。
桑縁の沈黙を困惑と受け取ったのか、明超は眉尻を下げる。その表情が切なげで、胸がぎゅっと締め付けられた。
「ふふ……。とうの昔に死んだ人間に、こんなことを言われても困るよな。分かってるんだ、俺が言いたいだけだから。全部聞き流してくれて構わない」
その言葉に驚き、慌てて桑縁は明超の服を掴んで訴える。
「ち、違います! そんなんじゃなくて……。驚いてすぐに言葉が出なかっただけなんです。聞き流すなんて、そんなことできるわけ、ありません……」
いまこのときを逃してしまったら――彼に二度と気持ちを伝えられない、受け止めてもらえない気がした。心を落ち着けるために深呼吸を何度かしたあと、桑縁は穏やかに語り始める。
「僕、はじめは天
それでも彼の剣技は凄まじかった。偽物であったとしても、近しい血縁のものではないか、と思わせるほどには。
やがて『もしかして』はいつの間にか確信めいたものに代わり、いつしか当たり前のように本物であると受け入れていた。
「でも、白先生は僕なんかよりずっと天
「爺は……薄明と比べるのは止めてくれよ。あいつはチビの頃から面倒を見てるから、手のかかる弟とかそんなモンさ。だからそもそもお前とあいつを比較するのは、根本が間違ってるんだ」
急に切ない表情から不機嫌な顔に変わった明超を見て、桑縁は思わず吹き出しそうになる。しまらない表情のまま、明超にごめんなさいと詫びた。
「でも、貴方と共に生きた時間を、褪せることない鮮やかな思い出を、いまも大切にしている白先生が羨ましかったんです。僕も貴方が一番輝いたとき、側にいたかった。……あ、でも。だからといって幽鬼は嫌だなんていう意味じゃないんです。これは僕の、嫉妬みたいなものです」
この感情が嫉妬であると自分で認め、言うのは恥ずかしい。けれど、正直な気持ちを明超に伝えたいと思った。みっともない自分も、包み隠さず彼に打ち明けたい。どうしてそう思ったのか、理解してほしかったからだ。
「もし俺が、あの戦いで生き残っていたら……。いまも生きていたとしたら?」
「それは……、仮に生きていたなら、天
白老人でも生きているのが不思議なほどであるのに、彼より二十以上も年上の明超が存命ならば……いや、かなりそれは難しい話だろう。
「百を超えた爺さんだったらどう思う? 嫌だと思ったか?」
「年齢なんて、関係ありません」
年齢を気にする明超が愛おしくて、桑縁は思わず笑った。
「どんな姿でも天
冥銭を燃やし続けた祖父と桑縁のことを、ずっと見守っていてくれた人。
炎の中に飛び込んでくれた人。
一緒に夜空を見上げ、星についての話を聞いてくれた人。
桑縁を救うために、蔡府へ一人で乗り込んできてくれた人。
鬼市で泣き続けていた桑縁を探し出し、口付けてくれた人――。
たとえ彼が生きていたとしても、死んでいたとしても。桑縁に対して彼がしてくれたこと全てにおいて、何か変わるものがあっただろうか?
あるわけがない。
そんなの分かっている。
彼が生者でも死者であったとしても、桑縁がいま抱いている気持ちに、偽りなど何一つないのだ。
だから、少し躊躇いがちに、恥じらいながら桑縁は続けた。
「――ですから……その、やっぱり僕も、いまの貴方が好きなんです……」
恥ずかしくて、度胸がなくて、最後は尻すぼみの小声になってしまう。それでも明超の表情が大きく変化したから聞こえていたのだと思う。
明超の顔が近づき、ゆっくりと唇が触れ合った。確かめ合うように何度かそれを繰り返し、すぐに深い口付けへと変わる。優しく絡められる彼の舌先にぞくりと体を震わせ、桑縁は小さく身じろいだ。唇から首筋に、鎖骨にと落とされていく口付けに期待と不安が入り混じって鼓動はいっそう早くなる。
「あー、クソっ!」
「はい!?」
慌てて桑縁から顔を放した明超に、驚いて思わず聞き返す。色気もない互いの言葉に先ほどまでの甘い雰囲気が吹っ飛んだ。
「いや、これ以上本気で続けたら、――背中の傷が開いてお前が死ぬ。本当は今すぐお前のことを押し倒したい」
「……」
確かに明超の言う通りだ。これ以上激しく彼にあれこれされようものなら、背中の傷がぱっくり開いて、再び医者を呼ばねばならなくなるだろう。
(しかも、屋根の上でこれ以上なんて……)
考えただけで顔が熱くなる。
「そ、そ、そうですね。確かに天
「――明超」
間髪入れずに明超に口付けられる。もう今日だけでも驚くほど彼に口付けられて、何がなんだか分からない。
分かっているのは、桑縁はそれを嬉しいと思っていること。
「夢じゃないと伝えたからもう一度言っておくぞ。天
「明超……」
熱に浮かされたように、彼が望むままの言葉を口にする。
「うん、いいだろう。悔しいけど、これ以上のことはお前の傷が治るまでお預けだ」
満足そうにもう一度、明超は桑縁の額に口付けを落とした。
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