第3話:鬼市
目を開けると、夜の喧騒の中にいた。幽玄な燈籠がいくつも掲げられ街路を照らし出す。道の両側には所狭しと露店が並び、それと同じくらい店を覗く人々も溢れている。
(なんで僕、こんな場所にいるんだ……?)
何かあったような、でも何があったのか思い出せない。頭の中が霞がかかったようになっていて、大事な部分が思い出せないのだ。白老人を探してあちこち明超と歩いていたことは記憶している。
(それから……?)
やっぱりまだ思い出せない。
ボンヤリと露店を眺め、売っている品物に目を通す。簪や櫛、衣服に本に、様々なものが売られているようだ。その中で奇妙な物を見つけ、桑縁は手に取った。
「お客さん、お目が高いね。そいつぁ龍の鱗だよ」
「龍の鱗?」
「そう。たったの五文! どうだい、お得だろう? いましか買えないよ!」
いましか買えない、そう聞くとなんだか買わずにはいられない気がして、慌てて懐から銅銭を取り出した。
「これでいいですか?」
「違う違う、うちは紙しか受け付けないよ!」
「紙……?」
「そう。紙銭! 決まってるだろ?」
その瞬間、雷に打たれたように記憶がなだれ込む。蔡府で捕まって、明超が桑縁を助けるために戻ってきた。彼は桑縁のために武器を捨てたが、桑縁は必死で彼の武器を取り戻し……それから、それから……。
明超の腕に飛び込んだあと、寒くて眠くて目を閉じた。
それから先の、記憶はない。
ぞわりと背筋が粟立つ。
(もしかして……もしかして、僕は死んでしまったのか……?)
戸惑いと混乱と後悔の波が一気に押し寄せ、桑縁は呆然とした。周囲の音がどんどん遠ざかって、やがて何も聞こえなくなる。
やりたいこともたくさんあった。祖父の後を継ぐ夢も、この先も続けたかった星の観測記録も。暮らしをもっと良くして、母を喜ばせたいという目標や――義鷹侠士のように悪を打ち倒すという、少し照れくさい願いすらも。
――死んだら全て、終わりなのだ。
義鷹侠士ですら、そうであったというのに、どうしてこんな簡単なことが分からなかったのか。
正義や夢や希望をあれだけ豪語しておいて、よもや何一つ成し遂げられぬまま、死にゆくことになろうとは。
喪失感を抱えながら、行く当てもなくフラフラと街路を歩く。涙すら零すことができず、心は空っぽのまま。もう、どうなってもいい、そんな気持ちが心の中を占有していた。足元がふらついても、傾いた体を戻すことすらできなかった。
「あっ」
膝から頽れた桑縁は手をついた。
倒れてもいい、なるようになればいいと思ったのに、それでも体は反射的に動くのだから滑稽だ。こんなに後悔をするのなら、どうして死ぬ前にもっと自分を大切にしなかったのか。
そう思うと自然に涙は零れ、地に伏したまま桑縁は声をあげて泣いた。
「ううう……ああああぁぁ……」
泣いても泣いても、涙は止まらない。思い浮かぶのは母の顔と――何度も無茶をする桑縁に対して怒っていた明超の顔。彼は桑縁のことを本当に心配してたからこそ、あれほど怒ったのだ。桑縁は知ったような顔で彼に対して忠言を呈したが、結局のところ桑縁は自分自身のことすら理解していなかった。
全てのことが無意味に思え、そのまま消えてしまいたくて、泣き伏したまま桑縁はずっとうずくまっていた。道の真ん中でそうしていたせいか、周囲がざわついている。
そんなの、どうだっていい――そう思ったはずなのに。
「桑縁!」
聴き間違えようのない声に瞠目し、否応もなく抱き起こされて、もう一度目を見開いた。桑縁の身体をしっかりと抱きしめる、逞しい腕。驚きのあまり掠れた声しか出ない桑縁の顔を正面から見据え、今にも泣きそうな顔で微笑んでいる。
「やっと見つけた……!」
明超の頬を涙が伝う。つられて桑縁もぽろぽろと涙を零す。
「明……超……っ……!」
「桑縁!」
明超はいっそう強く桑縁を抱きしめ、桑縁も明超の背に手を回して強く抱きしめた。辛くて、苦しくて、どうしようも無くて、明超の顔を見た途端、感情が溢れ出して止まらない。
「僕、貴方の注意を何も聞かないで、無茶ばかりして……死んでしまったみたいです! 本当に、御免なさい……!」
彼があれほど心配してくれたのに。厳しいことも言ってくれた。桑縁を助けるために炎の中に飛び込んでくれた。それなのに、あのとき桑縁は自分を囮にして彼を炎の中に呼び寄せたのだ。
桑縁が人質に取られたときも、明超は迷いなく剣を棄てた。それも全て、桑縁のためだ。彼は確かに死人であり幽鬼であったが、桑縁は彼のことを心配しながら、いつだって無茶なことばかりして、明超を危険な目に遭わせていた。
――なんて愚かだったんだろう。
なぜ自分なら平気だと思ったのか。初めは
明超が無事ならそれでいい、彼のかけがえのない白老人が無事なら悔いはない。何度もそう自分に言い聞かせたが、自分が死んだことに気づいて思ったのは、失ってしまったものの大きさだった。
「御免なさい、御免なさい……」
彼の忠言を無碍にしてしまった。母を一人残してしまった。本当に愚か者だ、母に合わせる顔もない。どれほど後悔しても取り戻せないものを失ってしまったことに気づき、申し訳なさとやるせなさで桑縁は泣きじゃくった。
「……馬鹿だな。お前はまだ、死んでないよ」
涙でぐしょぐしょになった桑縁の頬を、明超が優しく指で拭う。彼の目は穏やかで、慈愛に満ちていた。
「でも、ここは鬼市でしょう……紙銭を扱っているのだから、冥府の鬼市ですよね?」
「言ったろ? ここは狭間なんだ。幽鬼もいれば、生きた人間も迷い込む。……心配することはない、死の淵に立たされて少しのあいだ迷い込んだだけさ」
人の世の鬼市に鬼がまぎれることはよくある話。ならばその逆もまた然りということなのか。ぼんやりと彼の話を聞いていると、黒い官服の男たちが明超を取り囲んだ。
「天冥官! こちらにはいませんでした」
「こちらもです!」
「私は、似た男を見かけたと……」
言いかけた男を遮って明超が口を開く。
「ああ、すまない。もう見つけたんだ」
黒い官服の男たちは驚き「は、そうでしたか……」と戸惑っている。
「協力してもらって悪かった。それに俺はもう冥官じゃないからな」
「そんな! いつだって貴方は我々の憧れです!」
「はいはい。ありがたいけど、少し急いでいるからまた後でな。すまなかった」
その割にはぞんざいに追い払う。しかし黒い官服の男たちは怒ることもなく明超に頭を下げて去っていく。
「あの、いまの……めいかんって……?」
「あー気にするな、昔の部下だよ。……お前を探すために協力してもらったんだ」
誤魔化すような明超の口調。それより、明超が誰かに協力を頼んでまで桑縁を探してくれたことが申し訳なかった。
「すみません、僕の、ために……」
「いいんだ。俺がどんなことをしてでも、お前を見つけたかったんだから」
その言葉にどうしてか胸が締め付けられる。
明超は桑縁の肩を抱き、ゆっくりと歩き出す。燈籠の光から隠れるように露店の脇を通り抜け、ひっそりとした暗闇のなか、二人で石段に腰を下ろした。
「いまのお前はとても弱っている。うっかり魂魄が行方不明になるくらいだからな。本当に慌てたし、心配したし……ずいぶん探したんだぞ」
「御免なさい……」
「謝らなくていいんだ。お前を置いていった、俺が迂闊だった。もっと冷静になって動くべきだったんだ。あのあと俺は、本当に後悔して後悔して……もしも本当にお前を失うことになっていたら、俺は……。つらい思いをさせてしまった、許してくれ」
「天
天
「明超」
「はい?」
「さっき、明超って呼んだだろ。……天
そういえば、さっきは無我夢中で、何も考えずに彼のことを『明超』と呼んでいた。改まって言われるとなんだか妙に照れくさい。何度か口を開いて躊躇った末に、ようやく桑縁は「明超」と口にした。
「うん。……悪くないね」
ぺろりと自分の唇を舐め、満足そうに明超は微笑む。その微笑みも、口元も艶っぽく、桑縁の鼓動は先ほどよりいっそう早く、苦しく、激しくなった。
「さて……これからお前の魂魄を体に戻さないといけないんだが、怪我のせいでずいぶん衰弱している。だから、俺が少し手を貸してやる。異論は無しだからな」
「手を貸すって、どうやって?」
桑縁の質問には答えずに、明超は桑縁の頤を引き寄せ口付ける。
何が起こったのか、すぐには理解できなかった――けれど自然にそれを受け入れている自分がいる。口付けを通して冷たさにも似た何かが桑縁の中に流れ込み、まるで血液が体内を循環するように巡ってゆく。その冷たさがあまりに心地よくて、たまらず桑縁は声を漏らしてしまった。
「んっ……」
びくりと明超が反応し、慌てて唇を離す。
「おまっ……お前、なんつう声をあげるんだよ!」
「す、すみません……つい……」
なんとみっともない声を出してしまったのだろう。羞恥のあまり桑縁は明超から顔を背けた。
なのに明超は困ったように頭を掻いて「違う違う」と首を振る。
「そうじゃない。……そんな声出されたら、辛抱できないだろ……」
「はい?」
「もういい、お前が煽ったんだからな」
不貞腐れたように明超が言い捨て、桑縁が聞き返す間もなく再び彼の唇が押し当てられた。先ほどよりも乱暴で、息をすることも困難なほど激しく、長く口付けられる。舌で口内を乱暴に掻き回され、明超の口から流れ込む力に戸惑い、翻弄され、けれど不快ではなく……むしろ快楽にも似た心地よさに蕩けてしまいそうだ。体の力がだんだん抜けて、ほとんど明超に体を預ける形になってゆく。
――どうにかなってしまいそう……。
薄れゆく意識のなか、この瞬間が幻でないことを願った。明超が消えてしまわないように、幻でありませんようにと。必死で桑縁は手を伸ばす。
「大丈夫だ」
大きな手が、伸ばした手をしっかりと握り返す。
「ここにいる。絶対に離れない」
その言葉に安堵して、桑縁は深い眠りに落ちていった。
* * *
湯気に混じる薬草の香りと、陶器の触れ合う涼やかな音に誘われるように桑縁の意識は浮上した。
なんだか長くて短い、夢を見ていたような気がする。
「あっ……痛ぅ……」
起き上がろうとして、背中と足の痛みで桑縁は顔を顰めた。
「桑縁!」
慌てて駆け寄ってきたのは明超だ。
「傷が開く。無理はするな」
その言葉でようやく自分が蔡府で斬られたことを思い出した。
(痛い……痛いってことは、生きているのか……?)
鬼市に迷い込み、自暴自棄になったところで――明超が迎えにきてくれた。あれは夢だったのだろうか?
明超は傷に触れぬよう注意深く支え、桑縁の上体を起こしてくれた。
「本当に酷い傷だった。二殿下が庚央府で一番腕利きの医者を探し出して、連れてきてくれたんだ。……お前の背中、糸が入っているからな。絶対に無理をするんじゃないぞ」
「えっ……もしかして縫ったんですか!?」
ぎょっとした桑縁の額を明超が人差し指で小突く。……と思いきや、まるで羽のように軽く触れられて、なんだかむず痒い。
「当たり前だろ。あれだけ斬られて、死ななかったのは奇跡なんだぞ」
明超が言うには――あのとき、桑縁の傷を見た明超は、瞬時に点穴で出血を止めたらしい。そういえば刺された腿からもかなり血が流れていたし、背中を斬られた時はそうと気づかなかったが、やたら寒くなったのは急速に血が抜けていったからなのだろう。
「お前が倒れたあと、
「じゃあ、ここは二殿下の屋敷? 二人はそのあと、どうなったんです?」
明超は眉根を寄せ、首を振る。
「二人のことは分からない。俺もお前のことで余裕が無かったんだ。ここは……正確には二殿下が所有する別邸の一つってとこだな。母君に知られたら、泣かれるなんてもんじゃないぞ。まあ、傷が治るまで時間がかかるだろうし、いずれはバレるだろうけどな」
「うっ……」
それを言われると耳が痛い。鬼市で自分が死んだと思ったときは、本当に絶望で挫けてしまいそうだった。あのとき――明超が来てくれて、どれほど嬉しかったことか。夢かもしれないが、夢でも本当に嬉しかった。
あれは夢なのだろうか?
それとも、夢ではないのだろうか?
明超に尋ねようと視線を動かすと、彼は陶器の器を片手に持っていた。仄かに湯気が立ち昇り、その湯気からは薬草の匂いが香る。先ほど目を覚ました時に感じた匂いはどうやらこの器の中身だったようだ。
「体力の回復を早めて傷を治す煎薬だ。……飲めるか?」
明超の言葉に小さくうなずき、器を受け取ろうとすると「その怪我で持たせられるか」と断られてしまった。自分では動けるつもりなのだが、背中を縫うほどの傷なんだぞと、さらに怒られた。
「ほら」
それでも、
「天
彼が器を置くために立ち上がったとき、腰に付けた令牌と背負った剣が目に入った。――それは、以前白老人が明超に渡そうとしていたものだ。初めに受け取って欲しいと懇願された彼は頑なにそれを受け取ることを拒否していたはず。
「ああ。……薄明には本当のことを話したんだ」
「驚いてましたか?」
「泣いて詫びて、泣いて喜んでた。最後まで共に戦えなくて済まなかった、幽鬼でも、生きているうちにもう一度逢えて嬉しいってな。俺が幽鬼であることは、どんなことがあっても絶対に言わないって約束もしてくれた」
「そうでしたか……」
白老人がどのような反応をするのか、桑縁も気がかりではあった。どうやら二人がお互いを認め合えたと分かって、心から安堵する。
「ということは、白先生は無事ということですね?」
「無事だよ。無事無事。少し衰弱してたけど、あっという間に元気になった。それこそお前よりずっと元気さ」
「ははは……」
百歳間近の老人のほうがいまの自分より元気とは、なんとも滑稽な話だ。明超はふっと表情を緩ませ、桑縁の脇――寝台の隅に腰かけ、桑縁に寄り添うようにして肩を抱き寄せる。明超の柔らかくて艶やかな黒髪が桑縁の頬に触れ、くすぐったいけれど、なんだか嬉しい。鬼市の夢を見てから……いや、自分の中にある明超の存在の大きさに気づいてから、ずっとふわふわソワソワと浮かれ立つような感覚が続いている。
「ありがとな。……お前が真剣に諫めてくれなかったら、俺は一生……いや、死んでるから一生はおかしいな。とにかく、取り返しのつかないような後悔をするところだった。お前のお陰だよ」
「いえ、最後に決断したのは結局のところ天
「……」
急に明超が黙ったので、桑縁は自分が何かまずいことでも言ったのかと自身の言葉を反芻する。特に大したことは言っていない。なのになぜか明超は変な顔をして桑縁のことをじっと見ているのだ。
「あの、何か?」
「…………いいや、何でもない」
少し拗ねたような顔で、しかしすぐに元の笑顔に戻る。
「あいつさ、水連棚で公演する、新しい俺の……三代目義鷹侠士の脚本を書くんだって張り切ってたぜ」
「は!?」
驚きのあまり寝台から立ち上がろうとして、やっぱり痛みで動くことはできず、明超に怒られた。そうは言っても、本当に驚いたのだから仕方ない。
「三代目義鷹侠士の脚本って、いったい何を書く気なんですか!?」
「俺と、お前の冒険譚を書くんだってよ」
「……」
――盛りそう。
――絶対に話を盛りまくりそう。
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