第2話:拘束

 ――暗い。


 目を開けているのか、閉じているのか分からないほど光のない場所。

 桑縁が気が付いたとき、初めて目にしたのが暗闇だった。


「あいたたた……」


 長いこと変な態勢でいたせいか、首の後ろと身体の節々が痛む。身動きをとろうとしたが、腕を縛られているのか思うように動けない。それどころか、暗いせいで自分がどのような態勢になっているかもはっきり分からない。しばらく藻掻いたものの、あちこち硬いものや柔らかいものにぶつかるわ、何かが倒れて顔にぶつかるわで体勢を立て直すこともできず、結局諦めてそのまま地面に転がった。


(あれからどうしたんだっけ……)


 未だ目が慣れぬ闇の中で、自分の身に何が起きたのかを思い出す。


 半ば無理やり明超を行かせて、囮役になったつもりの桑縁だったが、その後のことは『なるようになれ』くらいにしか考えていなかった。周りを蔡府の衛卒たちに囲まれ、成すすべもない。彼らが一斉に飛び掛かり矢を向けてきたときは、さすがに『死ぬかも』と感じていた。


(痛いってことは、まだ生きているってことだ)


 節々は痛むが、幸い酷いほどの痛みはない。

 死ぬ――そう思ったとき、桑縁の前に立ちはだかって彼らの剣を止めてくれたのは槐黄かいおうだった。一度は桑縁を亡き者にしようとした彼が、今度は桑縁の命を救ってくれたというのは不思議なものだ。

 それから茗爛めいらんの必死の説得のかいあって、ひとまず桑縁は生きながらえ、白老人を閉じ込めていた離れとはまた別の場所にぶち込まれた……のだと思う。後半の記憶があやふやなのは、この場所に至る前に気絶させられてしまったからだ。


(明超、無事に逃げられたかな……)


 自分でも、なぜあんな無茶な行動に出たのだろうと思うが、あのときはとにかく二人をどうにかして行かせたかった。


 突然光が差し込んで、その冷たさに顔を顰める。暗い場所にいたせいか、こんなにも月が眩しいとは思わなかった。


槐黄かいおう、急いで閉めて頂戴」


 その言葉で、やってきたのが茗爛めいらん槐黄かいおうなのだと桑縁は悟る。手に持つ灯燭の炎が部屋の中を照らし、穏やかな光が屋内に満ちた。


「簡単なものしか用意できなかったけど……」


 茗爛めいらんは持っていた包みを開くと、桑縁に饅頭と瓢箪の水筒を差し出した。そういえば、長いこと何も食べていなかったことを思い出し、すぐさま腹が情けない鳴き声を上げてしまう。恥ずかしい、そう思ったが茗爛めいらんがクスリと小さく笑ったのを見て桑縁もつられて笑ってしまった。

 槐黄かいおうが近づいて桑縁の手を縛る縄を解く。桑縁は彼に礼を言ってから、包みの中にある饅頭を受け取った。


「おいしい」


 こんな状況にあっても腹が減るときは減るものだ。夢中で饅頭を頬張り、差し出された水筒の水を一気に流し込む。


「隙を見て必ず貴方を帰します。それまでどうか少しだけ我慢して。……お父様には貴方のことしか話さなかったから。だから、あのお爺さんと、貴方と一緒に来た人のことは知らないはずよ」


 心から彼女は申し訳ないと思っていることが桑縁には伝わっている。そして、彼女が明超と白老人のことを『お父様』に伝えなかったことに安堵する。ならば水連棚に追っ手が行くこともないだろう。

 しかし、同時に彼女の言ったことも気がかりだった。


『関係のない人間を、これ以上殺したくなかっただけ』


 生きて戻れるのか――その不安も消えたわけではないが、今のところすぐに死ぬような危険はなさそうだ。どのみちすぐには帰ることができないだろう。


「あの、茗爛めいらんさんは槐黄かいおうさんと一緒に曹州漆陶器什物鋪そうしゅうしっとうきじゅうもつほにいましたよね」


 茗爛めいらんがぎくりと体を固くし、また槐黄かいおうも同様に桑縁を警戒している。返事はないが、肯定の意だ。


「どうして、そう思うのかしら?」


 努めて冷静に振る舞う彼女の声は、微かに震えている。


「貴女の手には槐黄かいおうさんと同じように、新しい火傷の痕がありました。あの火事のとき……小石が飛んできたんです。あれは槐黄かいおうさんが僕のことを殺そうとしていたから、僕に早く帰って欲しくてそうしたんでしょう?」

「……」


 結果としては、帰ろうとしたところ槐黄かいおうの方が素早く、あわや桑縁は殺されそうになってしまった。――それに、思えば明超は『一人』とは言わなかったように思う。きっと桑縁がまた深入りすることを恐れて、詳細を語ることをしなかったのだ。


「貴女は蔡府の小姐おじょうさまではないんですか? どうしてあんな場所にいたんです。……それに、店主を殺したのも貴方がたですよね。同じ場所で死んでいた女性も……」

「違う。小姐おじょうさまは誰も殺してはいない。店主を殺したのは私だ」

「つまり……宮女の紹玲さんを殺したのは別の人物ということですか」


 槐黄かいおうが微かに動揺の表情を見せた。桑縁の考えは概ね正しいようだ。ということは、やはり桑縁たちを捕まえようとしたあの人物――茗爛めいらんが『お父様』と呼んだ人物が黒幕なのだろうか?

 茗爛めいらんはあの男を『お父様』と呼んだが、どうして父が娘に人殺しの手伝いをさせようと思うのか。それに彼女は西域の一座にもかかわっている。


「あの……お二人は恋人同士なのですか?」

「違う」


 槐黄かいおうが即答した。しかし、それを聞いた茗爛めいらんの表情は曇る。


(分かりやすいな……)


 つまるところ、二人とも憎からず思ってはいるが、互いの立場もあって気持ちを伝えあうことはできない。そんなところだろう。


「私は茗家に養子に出されたの、だから正真正銘私は蔡家の娘よ。槐黄かいおうは父の侍衛。いまは怪我をしているから、隊長の任を外されているけれど」

「……」


 桑縁は少々気まずい気持ちになった。怪我をしたのは、明超が桑縁を助けようと剣を向けたからだ。おそらく彼女は、炎の中から必死で槐黄かいおうのことを救い出したのだろう。それで二人とも火傷を負ったに違いない。

 西域の一座の踊り子たちの脇で、楽師が奏でていた琵琶の音色。美しい音律なのにどこか違和感を感じたのは、恐らくそのせいだ。


(とはいえ……僕は殺されそうになったわけだし、明超は僕を助けてくれただけだし……)


 さすがにこれは、謝るのも筋違いなような気がして、そのまま何も反応せずに黙っておくことにした。

 それにしても聞けば聞くほど奇妙なのは、茗爛めいらんの身の上だ。

 なぜ養子に出した娘が蔡家に戻っていて、さらにこのような血なまぐさい事件に関わっているのか。それに、桑縁は西域の一座で見かける以前にも、広場で琵琶を弾く彼女の姿を見かけたことがある。そのときはたしか、教坊の楽師として琵琶を弾いていたはずだ。この蔡家には……何かしらの複雑な事情があるような気がする。少なくとも彼女はそれを喜んで受け入れている様子はない。


「もしかして……」


 白老人の所在を主張するように奏でられていたあの演奏、それを思い出して桑縁は閃いた。


「もしかして、西域の一座について妙な噂が流れていたのは、貴女がわざと流したものなのではないですか?」

「それは……」

「白先生の居場所を伝えるために、危険をおかしてまで琵琶を奏でてくれた貴女です。鳳凰と不死の仙薬の噂、それらは何を意味しているのでしょうか。どうしても伝えたいことがあったのでは……」


 白老人が『噂が本当だった』というからには、鳥はおそらくいたはずだ。仙薬の意味するところも然り。彼女は意図をもってその噂を流したに違いない。誰かに気づいてもらいたいと願って……。


 長い沈黙が三人のあいだに流れ、桑縁は彼女が口を開くのを静かに待った。


「鳳凰も不死の仙薬も嘘。そして噂を流したのは私。……理由は、お父様を止めたかったから」

「貴女の父君は、何をしようとしているんです?」


 茗爛めいらんは首を振り、溜め息をつく。


「本当のところは、私にも分からない。でも、確実に一つだけ分かっているのは、父は私の知らない誰かと一緒に、自分の息子の……私の兄の復讐をするつもりだということ」

「兄?」


 驚いて顔を上げた桑縁は、彼女の顔を見た。


「兄は将来を期待され翰林院の学士となったそうです。でも、起草した昭勅に不備があったと酷い罰を受け、自ら死を選んだと……。あとから兄の才能を妬んだ同じ翰林院の友人が昭勅をすり替えたのだと判明したのだけど、既に遅かった」


 兄の汚名は雪がれたのか、しかし、そうであるなら復讐のために娘を利用しようなどと思わないだろう。犯人は見つかったようだが、その犯人はどうなったのか。尋ねたいとも思ったが、自分の置かれている現状を思うとなかなか言葉にできなかった。


小姐おじょうさまは公子が亡くなったあと、茗家の養子に出されたのだ。旦那様の大義を為すため、兄のためにと。小姐おじょうさまはそのようなこと、これっぽっちも望んではいなかった。しかし大切な跡継ぎを喪われ茫然自失の旦那様には、それが理解できなかったのだ……」


 膝の上で握りしめる槐黄かいおうの拳は小さく震えている。明超の一撃で片腕を失い、気を失っていた彼を命がけで救いだしたのは茗爛めいらんだ。口に出すことは決して無いが、槐黄かいおうがいかに彼が茗爛めいらんのことを想っているのかが伝わった。……あの火事の中迷いも見せずに桑縁を殺そうとした男と同一人物とは、とても思えない。


「私は父に命じられるまま、幼い頃より琵琶を習い、教坊に楽師として入りました。……西域の一座の演奏をしたのは、今回だけ」


 しかし、そんな彼女が西域の一座の演奏をどうして受け持ったのだろう。しかも、今回だけというのも奇妙な話である。


「もしかして、何かしらの毒の受け渡しのために?」


 気づいたときには口に出していた。閃いたら、黙っていられなくなったのだ。茗爛めいらんは言葉を失い、呆然と桑縁を見ている。


「驚いた……。どうして分かったの?」

「全部が偽物。鳳凰も、仙薬も。意図的に気づいて欲しくて噂を流したのなら、嘘の中に本当のことが隠されているはずです。仙薬のような薬ではないけれど、薬には違いなかった。そうでしょう? 鳳凰もおそらく……」


 この二つの条件に見合う薬――復讐をするための薬なら毒薬だろう。それに紹玲に纏わること。それらを総合すると導き出されるものは一つしかない。教坊に娘を入れたことからも概ね予想を外してはいないはずだ。


(となると……狙いはやはり、皇后娘々なのか? でも、蔡家の公子と皇后娘々には何の繋がりもない)


 さすがにそれだけは分からなかった。景王なら分かるかもしれない、そう思うと閉じ込められた状態の自分が情けない。


「あの……どうして話してくれたんですか? そりゃ、尋ねたのは僕ですけど……」


 桑縁の予想が正しければ、事態はかなり深刻だ。桑縁がこのことを聞かされたのは、もしや生かして帰す気がないからなのでは……そう思った瞬間、青ざめた。


「私は……いままでは命じられるままに動くだけだった。でも、関係の無い人をたくさん殺してしまって、もう、これ以上誰かを巻き込みたくないと思った、誰も死んで欲しくはない……。貴方がもし無事に蔡府から出ることができたら、どうか父を止めて欲しいの」


 けれど桑縁の内心をよそに、茗爛めいらんは涙声で己の心の内を語る。桑縁は目の前で涙を零した彼女の姿を見つめる。桑縁とそう年齢の変わらない彼女は、いったいどれほどの重責をその身に背負ってきたのだろうか。――そう思うと彼女が少しばかり、不憫に思えた。


「貴方と一緒にいた人、明日は彼に連絡を取ってみます。だからもう少し辛抱して頂戴」


 茗爛めいらんはそう言うと、槐黄かいおうを連れて離れをあとにした。

 灯燭の光が扉の向こうに消え、再び暗闇が訪れる。


    *


 明超はきっと助けにやってくる、間違いない。けれど蔡府の様子は異様だった。明超が初めに警戒したのがよく分かる――桑縁の見立てでは使用人はほとんどおらず、屋敷内にいる人間のほとんどが武装した衛卒たちだった。おそらく、茗爛めいらんの話から察するに、蔡府の主は息子の復讐のために着々と準備を進めているのだ。


 ――そのような危険な場所にもう一度明超を来させていいのか、そして自分はこれからどうなるのか、真っ暗な闇の中で不安なことばかり考えていると、どうにかなってしまいそうだった。


 不安を連れてくる、暗闇は怖い。


 幼い桑縁は暗闇を恐れた。

 夜空は好きだが、暗い部屋は怖い。風の音、水の音、鳥の声、その全ての音さえ恐ろしいもののように思え、眠りにつくまでのあいだほど苦しい時間は無かったのだ。


『瞼の裏に星空を浮かべてごらん。空の星辰を違えることはできないけれど、瞼の夜空はお前だけのもの。望む星空を描くことができる。とても素敵なことじゃないかね?』


 大人になったいまは、笑い飛ばしてしまうかもしれないが、当時はなんて素敵なことだろう、と夢中で目を閉じたくさんの星を思い浮かべた。描いた夜空を忘れぬように何度も何度も繰り返し星を数え、忘れぬように下手な星図まで描いた。

 それからは、夜の暗闇が怖くなくなったのだ。


(お爺様……)


 不安を少しでも紛らわそうと、桑縁は再び目を閉じる。幼い頃に必死で覚えた自分だけの星図を思い出しながら、その一つ一つの輝きを瞼の裏に思い描く。

 星の一つ一つに義鷹侠士の仲間たち一人一人の名を、自分だけの星官として名付けていた。もちろん、薄明の星も。当時はよもや薄明が白老人となって、桑縁の前に現れていようとは夢にも思わなかったのだが。

 それに――義鷹侠士の星。

 このことを話したら、きっとまた明超に引かれてしまうかもしれない。そうでなかったら、苦笑いされるだろう。嫌そうな顔をする彼の顔が思い浮かんで、桑縁は可笑しくて笑ってしまった。

 思えば明超と出会ってから、ほとんどの時間を彼と過ごしていた。後宮にしばらく滞在したときは彼に会えなくても、たびたび彼が顔を見せてくれたから、そこまでつらいと感じなかった。それなのにいまとても心細く、彼の顔が見たくなる。――弱気はいけない。心が軽くなったはずなのに、明超の顔を思い出した途端に、笑っていたはずの瞳から熱いものが零れ落ちる。


 明超が無事ならそれでいい。

 彼が心から助けたいと願った、白老人が助かったのならそれで本望だ。

 それでも……。

 明超にもう一度逢いたい。


「……天大侠にいさん……」


 女々しくて情けない。それでも逢いたくて、未来が見えなくて、暗闇の中で桑縁は泣きながら彼の名を呼んだ。


    * * *


 次の日――時間の感覚がないのでおそらく、だが。

 慌ただしい物音で桑縁は目を覚ました。

 微かに窓から漏れる柔らかな陽光が、朝であることを告げている。反対に外から聞こえる声は物々しく、寝ぼけた頭で何が起きたのかとボンヤリと考えた。


「出ろ!」


 乱暴に扉が開かれ、眩しさで目の前が真っ白になる。暗闇の中にずっといたせいで目が慣れていないのだ。あっと思った次の瞬間には腕を掴まれ引きずられる。


「ちょ、ちょっと、何するんですか!」

「黙れ!」


 首元に冷たいものが押し当てられてすぐさまそれが剣であると理解する。途中まで出かかった声を飲み込んで、腕を掴む相手の顔を見る。

 ……槐黄かいおうではない、黒ずくめだが別の男だ。

 ただならぬ様子は、何か彼らにとって想定外のことが起きたのだろう。ならばなぜ桑縁は彼らにこうして脅されながら歩いているのか。いかんせんこの屋敷は広すぎる。何度か廊廡を通り抜け、いくつかの部屋の脇を通ったはずなのだが、自分がどの場所にいるのかよく分からない。

 桑縁の両腕は縛られてはいるが、簡単に解けるように槐黄かいおうが調節してくれている。せっかく外に出られたのだから、なんとか隙を見て逃げられないだろうか――そんな考えを巡らせながら歩いていると、地面に突き倒されて我に返る。


「うあっ」


 ほとんど顔から倒れ込んだため、受け身の姿勢すら取れずに思い切り地面に顔を打ち付けてしまった。目は痛めていないが顎も頬も擦ってしまい、ヒリヒリと痛む。――と思うと今度は顎を掴まれ無理やり持ち上げられた。先ほども同じようなことをされたが、今度はもっと乱暴だ。


「ふん。こんな小僧のためにここまで掻き回されるとは……」


 わずかに白髪の交じる、男の相貌に目を凝らす。昨日は気づかなかったが、やはり彼の顔には覚えがあるような気がする。


(あ……! まさか……)


 星を観測し未来を占う――この一点において、翰林天文院と司天監の二つを構成する要素はほぼ同じである。異なっているのは翰林天文院は天子直属の組織であるということくらいなものだ。しかし、そのわずかな差はとても大きな隔たりである。それゆえ提挙ていきょ司天監ならいざ知らず、桑縁にとって翰林天文院の人物というのは聞いたことはあるが見たことはない、程度のものだった。


 ――翰林天文官 さい梅功ばいこう


 一度だけ彼の姿を見たことがある。それはまだ祖父が生きていた頃のことだ。皮肉なことに霊台郎になってから、桑縁が彼の姿を見たことは、まだ一度もなかった。


(蔡府って……翰林天文院の蔡天文官の屋敷だったのか……!)


 口に出したら間違いなく今すぐ殺される。そんな予感がして、なんとか彼の名を口にすることは堪えた。それでも、彼が顔を隠していない以上桑縁を生かして帰すつもりはないのだろう。そう思うと、とたんに背筋が寒くなる。


「桑縁!」


 焦がれた声に頭を跳ね上げ、矢も楯もたまらず彼の姿を探す。聞き間違えるわけがない、明超の声だ。


「天大侠にいさん!」


 声に反応して明超の目が桑縁を捉える。明超が近づこうとすると、すぐさま桑縁の喉元に剣が突きつけられた。


「ふん、鼠が一匹のはずはないと思っていたが、やはりな。刺客たちをやったのもお前か!」

「その通りだ! だから俺の命と、そいつの命を交換しろ」

「ちょっと! 何を言ってるんですか!」


 明超の言葉に驚き、桑縁は思わず叫んでいた。昨日どうにか彼を逃がすことができたと思っていた。それなのに、よもや彼が『自分の命と交換』などと持ち出すとは思わなかったのだ。蔡天文官は暫し明超と桑縁を交互に見比べている。


「馬鹿なのか? そのような条件を我々が飲むとでも?」

「お前こそ馬鹿なのか? 俺は、お前んとこの刺客が束になっても傷一つつけられない男なんだぞ」


 自信たっぷりに言い放った明超の言葉を聞いたとたん、蔡天文官が苦虫を噛みつぶしたような表情を見せた。蔡天文官は侍衛の男に桑縁を引き渡し、自らは剣先だけを桑縁の首に押し当てた。


「……いいだろう。事と次第によっては、その条件を飲んでやってもいい」

「どうすればいい」

「秦公子を助けたくば、大人しく我々の言うことに従ってもらおう。……どうやら貴公はかなりの剣の達人だそうだな。迂闊に剣を残して痛い目を見るわけにはゆかぬ。まずは武器をこちらに渡せ」


 二人のあいだでどんどん話が進んでいき、桑縁は危機感を募らせる。どう見積もっても蔡天文官が明超と桑縁を交換するはずはないし、桑縁だってそんなの絶対に嫌だ。


「駄目だ! うっ……」


 足に激痛が走った。蔡天文官が桑縁の腿に刃を突き立てたのだ。あまりの痛みに呻き、崩れ落ちそうになる。足から流れ落ちる血は止め処なく、急速に力が抜けていくのを感じた。


「桑縁に手を出すな! 止めろ!」


 痛みで目の前が真っ白になり、明超の悲鳴にも似た叫びだけが耳に届く。


 ――そいつらは約束を守るようなことは絶対にしない。桑縁は彼に叫びたかった。しかし叫んだら最後、それが真実になってしまいそうで、軽率に口にすることは躊躇われた。そして、何を言おうが明超が桑縁のために、何を言っても聞く耳を持たないであろうことも理解している。同時に、こうしているだけで自分はじわじわと死んでゆくのだということを実感し、これまでの己の危うい行動の愚かさの全てを後悔した。


(あれだけ、明超が僕のことを心配して言ってくれていたのに……)


 何もかもが遅すぎたのだ。

 結局何も活かせずに、こうして足を引っ張る羽目になるなんて。


「さあ、武器をこちらに」


 勝ち誇る蔡天文官の声に、明超は無言で持っていた剣を彼らの前に放り出す。衛卒の一人が恐る恐る歩み寄り、さっと明超の剣を回収した。

 この光景を知っている。かつて義鷹侠士が仲間を人質に取られた時と同じ光景だ。あのときと同じように、明超は迷いなく己の剣を敵に差し出してしまった。


「そのまま動くなよ。……そいつの手足の筋を切れ!」


 すぐさま男の一人が明超に剣を振り上げる。

 脳裏に閃いたのは、義鷹侠士が仲間のために己を犠牲にした光景。沐浴のときに桑縁が見た、明超の肩の傷。

 次の瞬間、桑縁の意識は驚くほど鮮明になった。


「駄目だっ!」


 一瞬で両腕の縄を解き、ありったけの気力と力を振り絞って男の拘束を振りほどく。突き付けられていた剣先が首の皮を切り裂くのも躊躇わず、一心不乱に駆け出した。


「なんだ!? うわっ!?」


 明超に剣を振り上げる男の腕に食らいつき、体勢を崩した男が地面に倒れ込む。予想外の出来事に、周囲が一瞬怯んだその隙をつき、すかさず別の男から明超の剣を奪い取った。思うように足が動かなかったが、それでも必死で、走り寄る明超の腕の中に倒れ込んだ。


「馬鹿野郎! なんて無茶なことを――」


 ようやく戻ってくることができた、安堵で涙が零れ落ちる。ほんのわずかのあいだだったのに、こんなにつらいと思ったことはなかった。たくさん彼に話したいことがある、伝えたいことがある。白老人のことも聞きたいし、この先のこともたくさんたくさん――それなのに、身体が思うように動かない。

 彼の名を呼んだ。

 けれど声が思うように出てこない、口もうまく動かない。


「目を開けろ! 俺は、お前を助けるために来たんだ! それなのに……」


 薄っすらと目を開くと明超の手は真っ赤に染まっている。足の怪我くらいで大げさだ、そう言いたかったが瞼が重くて目を開けていることも難しい。なんだか背中が熱くて寒くて……限界だった。


「ここは私と槐黄かいおうがなんとかするわ、逃げて!」


 茗爛めいらんの声が遠くで聞こえたような気がした。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る