人質は待ち人に出会う

第1話:後悔

 水連棚に戻った桑縁たちは、水連棚の役者たちを集め桑縁の考えを話した。……とはいっても、説明したのはほとんど明超で桑縁は尋ねられたことに応えた程度だが。手詰まりを感じていた水連棚の面々は、桑縁の考えに概ね賛同し、皆で桑縁が推測した範囲に絞り、手分けして白老人を捜索することにした。


「西側には殿前司でんぜんしの官府もあり、禁衛兵たちの住居が集中しています。範囲を絞るなら、白虎門の一帯は外していいと考えました。事態は一刻を争います。できるだけ可能性が高い場所を重点的に探しましょう」


 白角会ばっかくかいの面々は、桑縁などよりも常日頃よりこういったことに携わっているはずだが、それも白老人の指導力と知識があってのもの。その白老人の代わりを、桑縁が努めているのだ。そう思うと緊張で声が震える。それでも皆の切羽詰まった表情を見て、桑縁は懸命に必要な情報を伝えた。


「それに、まだ市で西域の商品が取り引きされている可能性があります。最低でも一人は、それとなく市で出される品物を確認してください。他は数人で一組になって、印をつけた場所の調査を分担しましょう。昨晩から今日にかけて人の出入りがあるかどうか、周囲の家にそれとなく聞き込んでください。念のため楽器の音色が聞こえるかどうかも参考になると思います」


 役者たちは数人で組になり、次々に水連棚を出立していった。さすがに全員出払ってしまっては不都合もあるため、一人は連絡係として残ってもらっている。


    *


 時刻は未時[*十三時から十五時]を過ぎてはいるが、夕刻にはまだ早い。桑縁も明超と共に白老人の行方を捜している。東角楼に近い牛走街はとりわけ繁華な通りであり、誰も桑縁たちのことを気に留めるものがいない代わりに、とにかく騒がしい。あまりにも多くの人が通るものだからすれ違いざまにぶつかってしまいそうだ。人よりは気持ち小柄な桑縁は先ほどから何度もいかつい男に肩をぶつけられそうになり、そのたび明超に助けられている。


「お前は本当に危なっかしいな」

「……僕は天大侠にいさんみたいに身軽じゃないんです」


 むっとして桑縁は悪態をつく。好きで鈍いわけじゃない。これでも幼い頃は義鷹侠士に憧れた景王に誘われて、少しは修練を試してみたのだ。しかし、あまりに才能がなさ過ぎて結局すぐに諦めてしまった。


「はいはい。またぶつかったら危ないからこっちに寄れよ」


 明超の手が肩に伸び、桑縁を引き寄せる。踏ん張ることもできず、桑縁はよろけながら訴えた。


「ちゃんと歩けますってば」

「よろけてるじゃないか」

「……」


 それは貴方が引っ張るからでしょう、と桑縁は言おうとしたが言い合う時間も勿体ない。あまりに不毛なので、結局口を噤むことにした。

 一刻ほど歩き続けて辿り着いたのは、ひときわ大きな屋敷の脇。


「できるだけ暗くなる前に見つけたいですが……」


 高い壁を見あげながら桑縁は言い淀む。金持ちの屋敷はすべからく壁で囲まれている。当たり前だが、門の前には門衛がいるし、おそらく壁の中にも使用人をはじめとして屋敷で働く人間たちがいるに違いない。


「お前はここで待ってろよ」


 返事をするより早く明超の姿が消えた。とても桑縁にはできない芸当だ。同時に自分が何の役にも立っていないことを申し訳なくも思ってしまう。

 水連棚の面々は明超ほどではないが、それでも普段から修練をしていて身軽さも強さも桑縁の何倍も上だ。対して自分はどうか……といえば、梯子一つ上がるのも苦労するほどの人並み以下の運動能力だ。

 そんなことをモヤモヤと考えていると音もなく明超が現れた。


「ざっと様子を見てきたが、怪しい様子はなさそうだ。部屋の中もいくつか覗いてきたが、のんびりしたもんさ」

「そうですか……」


 果たしてこれで白老人を見つけることができるのだろうか。そもそも『噂』と白老人が消えたことと、関係はあったのだろうか。いままでの行動すべてに自信が持てなくなってくる。


「まだほかにも候補はあるんだろう? そっちも行ってみよう」


 歩き始めた明超に追い立てられるように桑縁もあとに続く。次も駄目だったら……その次も駄目だったら、そんなことばかり考えて、自然に口数が減っていった。橋のたもとで優雅に語らう人々を尻目に門を抜け、再び繁華な場所を二人で歩く。様々な露店の呼びかけを適当にあしらっていた明超は、いつの間にか手に花を持っている。


「知ってるか? 冥府にも市が立つんだよ」

「もしかして、鬼市のことですか?」

「何だよ、知ってるのか……」


 妙に残念そうな顔をした明超を見て、桑縁は苦笑いした。庚央府でいう鬼市は夜明け前から明け方にかけて開催される市のこと。対して明超が言った鬼市は、冥府の市である。


「聞きかじった程度ですよ。死んだ者たちが冥府で市を開く……死んでいるけれど、彼らも冥府では普通に生活をしているんですね」

「まあな」


 冥府からやってきた男は、さも当然のように同意する。


「さっき、花売りに聞いたんだ。この近くでも鬼市が立つんだってさ。……ところが、生者に混じって死者も鬼市に買い物にやってくる。でも、死者の通貨は紙銭だろ? だから、間違って死者に物を売ったとしても、手元には紙銭しか残らないんだ」

「鬼市って、生者と死者とが出会う場所なんですね」

「この辺りには東嶽廟とうがくびょうもあるそうだから、冥府との繋がりが濃いんだろうな」


 東嶽廟とうがくびょうといえば冥府で生死を司る神、東嶽大帝とうがくたいていを祀っている廟だ。その近くで鬼市が立つとなれば、冥府の影響をより受けやすいかもしれない。


「それって、何か悪い影響があるんですか?」


 不安に思い聞き返した桑縁に、明超はにこやかに首を振った。


「いや。別に悪い影響はないな。単に境目が曖昧ってだけだ。……迂闊なことさえしなけりゃ何も害はないさ」


 とはいえ、桑縁もこうして幽鬼である明超と共に歩き、共に飯を食べているわけで、もはや境目もクソも無いような気がする。


「ふと鬼市に白爺がいたら……そう思ったら、不安で仕方なくなったんだ。正直に言うと、いますごく後悔している」


 ぽつりと零した明超の言葉に驚いて、桑縁は彼の顔を見た。


「後悔?」


 うん、と明超は力なく笑う。普段の彼らしくない弱気な表情。


「お前に……昨日あれだけ言われたのに、俺はまだ決心がつかなかった。白爺が……いや、薄明の行方が分からなくなって、見つからなくて、自分がどれだけ酷いことをしていたか、ようやく気づいたんだ。遅すぎるだろう?」

「そんな……」


 言葉を詰まらせた桑縁の言葉に、明超は首を振る。


「いいや、分かってる。あいつは一目で俺が俺であると見抜いたのに、俺は他人の振りをした。あいつが受け取ってほしいと頼んだ物も、頑なに受け取らなかった。いつか別れる日が来ると分かっていても、それでもすぐには決められなかった」


 明超の声は微かに震えている。もしも昨日、明超自身のことを白老人に話したとして、白老人が姿を消さなかったとは言い切れない。それでも彼が後悔しているのは、二度と会えなくなることを危惧しているからなのだ。


「それは、止むを得ないことだったと思います。もしも天大侠にいさんが生きていたら、本人であるとすぐに認めることができたかもしれません。ですが……」


 誰が幽鬼となって戻ってきた、などと言うことができるだろうか?

 しかも、相手はかつての仲間。

 唯一生き延びた仲間なのだ。


「仮に幽鬼であると知ったら、どのような反応をするのか。悲しむのか喜ぶのか、見当もつきません。ですから、天大侠にいさんが迷ったのは当然だと思います」

「それでもッ……!」


 桑縁の言葉を遮るように明超が呻く。


「もしあいつに何かあったら、生きているあいつには二度と会うことができない。もっと早く言っておけば……いや、違う、俺は……、あいつにだけは幸せな一生を送ってほしかったんだ。こんな人生の終わりかたをさせたくは……」


 こんなに弱弱しい彼を見たのは初めてだった。それだけで、いかに白老人が――薄明が明超にとって大切な存在であったかが分かる。たまらず桑縁は明超の背に手を回し、彼のことを抱きしめた。わずかのあいだ、明超は身体をこわばらせたが、すぐに流れに任せるように緩やかになる。


「落ち着いてください。悪いことばかり考えては、余計に思いつめてしまいます」


 いつか彼がそうしてくれたように、彼の背を優しく叩く。あのときは侍女姿で皇城の屋根の上、泣き止まぬ桑縁を宥めるために明超がしてくれたのだった。侍女の振りをして後宮で生活することは、大変でもあったが悪いことばかりでもなかった。桑縁の部屋に忍び込んできた宦官姿の明超が、いまはもう懐かしい。


「とにかく白先生を見つけることを考えましょう。迷っているあいだも、悩んでいるあいだも、無駄にはできません。諦めるのは全ての手段を講じてからでも遅くはないのですから」


 明超の手が、桑縁の背に触れる。ささやかに抱きしめ返されたあと、明超の身体は離れていった。離れゆく時間も名残惜しく、彼の腕を取り、引き戻したい気持ちに駆られてしまう。


「恥ずかしいところ見せちまったな。でも、感謝してる」


 照れ笑いを見せながら明超は頭を掻く。その表情に先ほどの悲壮感はなく、彼が落ち着きを取り戻したことに桑縁は安堵した。


「大切な人のことなら当然です。……さあ、もうひと頑張りしましょう」

「ああ」


 頷き、再び明超と歩き始めるが、心の内では複雑な思いを抱えている。白老人は桑縁にとって、幼い頃より祖父と通った劇場の優しい座頭で、桑縁も彼のことをとても慕い、ある意味第二の祖父のような存在でもあった。そんな彼が、実は幼い頃から義鷹侠士を慕い共に旅をした仲間であり、義鷹侠士が唯一最期の戦いに連れていかなかった薄明であると知り、とても驚き、憧れた。


 ――明超にとって、薄明は特別な存在。


 そして白老人もまた、彼のことを慕い続け、彼の信念を継ぐために水連棚を立ち上げ、身寄りのない子供達を引き取り、そして明超のために彼の剣を鋳直した。一目で八十年ぶりに再会した明超を本物だと見抜き、自ら出向いて彼の強さを確かめた。何度も明超に拒否されても彼のことを『天兄』と呼び、老人ながらも彼と共に冒険することを夢見ている。

 明超が白老人に対して自分が本物であると告げない理由も同じこと。白老人――薄明が明超にとって特別な存在だからこそ、彼はあんなにも迷っているのだ。


 桑縁には、二人のような絆はない。

 確かに明超は、桑縁の燃やした冥銭に恩義を感じて、助けるために駆け付けてくれた。しかし、それは『恩義』であって、それ以上のものではない。白老人のような『特別な何か』や『互いに想い合う強い絆』がとても羨ましく思えた。


(僕は天大侠にいさんに、どう思われているんだろう……)


 こんなときなのに、こんなことばかり考えてしまう。自分は明超に無茶ばかりさせているし、白老人のように幼い頃から育てられたわけでもない。冥銭で繋がっただけの関係なんて、とても希薄なものだろう。

 そう思うと、何故か胸がとても痛かった。

 そして、白老人の命が危ないかもしれない、そんなときに彼のことでモヤモヤとしている自分が、とても白状な人間に思えて余計に惨めな気持ちになる。


「桑縁? 顔色が悪いぞ、どうしたんだ?」


 明超が横からのぞき込まれ、桑縁は驚きの声をあげた。


「な、なんでもありません」


 先ほどでモヤモヤしていた、醜い心の内を見られたくなくて、慌てて取り繕う。けれど桑縁の言葉だけでは納得できなかったのか、桑縁の目線と合わせるように屈むと、明超は桑縁の頬に手を当てた。


「さっきまで凄い辛そうな顔をしていたじゃないか。いったい……」


 あんなに泣きそうだったのに、辛そうだったのに。桑縁のことをこんなにも気にかけてくれる、その優しさが辛くて嬉しくて、言葉が出てこない。――が、しかし、聞こえてきた微かな音色に目を見開き、とっさに明超の袖を掴んだ。


「しっ……!」


 驚いた明超が言葉を飲み込んだのを確認すると、彼の唇に人差し指を当て『そのまま、しずかに』と合図する。いつになく動揺しながらうなずく明超の様子に首を傾げた桑縁だったが、次の瞬間、自分がいま明超に抱き着くような形になっていることに気づいた。ほとんど声にならない小さな叫び声をあげ、恥ずかしさのあまり慌てて明超から飛びのく。


「あの、あのあの、あっちから音が……」


 頭の中が真っ白になって、うまい言葉が見つからない。それでもいまの表情を見られぬように明超の背に回り込むと、力いっぱい彼の背を押した。


    *


 いままで見た屋敷はどれも大きな建物だったが、今回も負けず劣らずの大屋敷の部類だ。『蔡府』の扁額が掲げられ、門前には何人もの門衛が立っており、商人の屋敷よりは厳重に見える。この辺りは貴族や官吏も多いそうだから、この屋敷に住んでいるのはそれなりの地位にある人物なのかもしれない。


(なんか、どこかで聞いたことがある気がするんだよな……)


 記憶にあるということは、やはり高い地位にある人物が住んでいるのだろう。


「……確かに琵琶の音だ。しかもこの旋律、昨日広場で聴いた旋律にそっくりじゃないか。これは……当たりかもしれないな」


 しばらく目を閉じ音色を聴いていた明超は、間違いないとうなずく。


「だが疑問が無いわけじゃない。逃げたのに、どうして敢えて皆が知っている曲を弾いているんだ? 分かりやすすぎないか? これじゃまるでここにいると言っているようなものじゃないか」

「それは、その通りです……」


 普通に考えれば罠だと思うことだろう。ただし、罠だから入らないという選択肢は桑縁たちに残されてはいない。

 明超もそれは同じで、何やら真剣に壁の向こう側を探りながら考えている。


「ここの守りは他より堅い。入るからにはそれなりに覚悟が必要かもしれないな」

「天大侠にいさんが、ですか?」

「不可能と言っているわけじゃない。ただ、万が一のときは正面からやりあう可能性があるってことだ」


 明超の剣は確かなものだが、彼は決して諜報活動を得意としているわけではない。手練れが多数いた場合は、気づかれる可能性もあるということ。さすがにその危険を冒して良いものか――桑縁も悩んだ。


「……………………一つ、試させてください」


 明超の返事を待たずに、桑縁は音に合わせて何度か指笛を吹く。


「ちょっ……お前、何やってるんだ!」

「相手に気づいてもらうためです。もし衛卒が来たら、そのときは適当に誤魔化せばなんとかなります!」

「お前……。お前のその、妙な自信はどこからくるんだよ……」


 呆れた明超が溜め息をつき――そのとき裏手の門が開いて、中から誰かが飛び出してきた。


「貴方たち……」


 出てきたのは蜻蛉の羽を思わせる布を幾重にも重ねた襦裙を纏う、天女のような女性だ。薄めの化粧は儚さを思わせ、けれど芯が強そうな瞳を持っている。咄嗟に剣を抜いた明超を見て、桑縁は慌てて「待って!」と腕に組みついた。

 女性は驚きのあまり動けないようだ。幸いとばかりにすかさず桑縁は彼女に歩み寄る。


「昨日、西域の一座が踊っていたときに、琵琶を弾いていたのは貴女ですね」


 まだ驚きの中にいて動けない彼女は、しかしその瞳は『そうだ』と言っている。桑縁は彼女の返事を待たずに続く言葉を畳みかけた。


「大切な人を探しています。白髪の老人です。どうか返していただけませんか? そのために、わざと琵琶を弾いて教えてくださったんですよね」


 ハッと女は息を飲み、そして小さくうなずく。あからさますぎる琵琶の旋律は、むしろ罠ではないかと疑ったが、桑縁は琵琶の主が白老人の居場所を教えてくれているほうに賭けたのだ。


「急いで……急いで中へ……誰かに見つかる前に、連れ出してあげて」


 女の言葉に桑縁は明超と顔を見合わせると、彼女のあとに続いた。


「私は茗爛めいらん


 女の名は蔡家の長女、茗爛めいらんであると名乗った。気になるのは『蔡家』の長女であるのに、どうして『茗』なのか。しかし白老人の無事を確かめることのほうが、いまは遥かに重要だ。


「本当に御免なさい。あのお爺さんには申し訳ないことをしてしまいました。幸い父はいま、出払っているわ。だから、急いで」


 扉を開く彼女の手には、まだ生々しいほどの火傷の跡が見える。きっとつい最近火傷をしたのだろう。その手を見ながら桑縁は、まだ他に何かあるような気がして記憶を手繰り寄せる。


「この中です。手荒なまねをして御免なさい」


 院子にわを抜け槐の木に囲まれた離れまで桑縁たちを連れてきた茗爛めいらんは、入り口を開けながら手身近に話す。どうやら白老人を逃がすのは彼女の一存のようだ。


「俺が行く。ここで待て」


 扉が開けられ、明超がいち早く暗闇の中に入る。まだ外は明るいというのに部屋の中はほとんど真っ暗だ。おおそらくは窓を塞いでいるのだろう。扉の周りだけ、微かに部屋の様子が薄っすらと見えていて、質素な囲屏や箱などが乱雑に詰まれている。きっと、普段ここは物置として使われているに違いない。

 ほどなくして、小さく部屋の奥から「薄明」と呼ぶ彼の声が聞こえたから、きっと白老人は見つかったのだと桑縁は思った。


「あの、ありがとうございました。貴女がいなかったら、白先生を見つけられなかったかもしれません」

「もとはといえば私たちのせいなのですから。さ、早く」


 儚げな見た目に反して、彼女の口調は非常に明瞭だ。おそらく見た目ほど彼女は弱くはないのだろう。ほどなくして白老人を背負った明超が戻ってきた。背負われる白老人は黒装束姿のまま、表情は弱弱しく目は閉じたままだ。しかし顔色は思うほど悪くは無く、そして明超の表情は比較的穏やかであるから、おそらく白老人は無事なのだろうと察せられる。


「白先生は大丈夫、ですよね?」

「眠ってはいるが、怪我はない。……ったく肝が冷えたぜ」

「よかった……」


 安堵で身体の力が抜けそうになるのを堪え、桑縁は壁に手をついた。ずいぶん危ない橋を渡った自覚はある。茗爛めいらんが善良な人間でなければ――。


(善良な……?)


 そこまで考えて、はたと気づく。彼女は西域の一座の件に間違いなくかかわっている。そんな人間が果たして善良といえるのだろうか?


「あの、どうして白先生の居場所を教えてくれたんですか?」


 茗爛めいらんは俯き、首を振る。


「……関係のない人間を、これ以上殺したくなかっただけ」


 その言葉に息を飲み、何を言うべきか迷った。


「聞きたいことはたくさんあるが……いまは爺のことが心配だ。桑縁、行くぞ」


 明超の言葉で我に返り、桑縁は明超のあとに続く。部屋から出ると茗爛めいらんの脇を通り抜け、一礼をしてから裏口の扉へと向かった。


    *


 広大な院子にわを壁沿いに急ぎ、初めに桑縁たちが入ってきた裏口までもう少しというところまでようやく辿り着いたときだ。


「待て!」


 明超の声で桑縁は慌てて足を止めようとした。しかし、足がもつれて体勢を崩し地面にへばりついてしまった。なんとも無様な光景である。


「あいたた……どうしたんですか」


 泥だらけの手を服で拭いながら立ち上がった桑縁は、その場に凍り付く。裏口の扉のすぐ前で黒衣の男が剣を向け立っている。


「何者だ」


 男の右腕は不自然に隠れ、まるで肩から下がないようだ。男の頬や腕にある、まだ新しい火傷の数々。


曹州漆陶器什物鋪そうしゅうしっとうきじゅうもつほのときの――」


 あっと思ったときには、思わず声に出してしまった。

 桑縁が誰であるか男も気づいたようだ。老人を背負う明超には目もくれず、真っ先に剣で桑縁に斬りかかった。

 軽やかな金属音と光が閃き、桑縁の目の前で男の剣が弾かれる。閃いた何かの行方を目で追うと、そこには柳葉飛刀りゅうようひとうが刺さっていた。


「天大侠にいさん!」

「桑縁、先に行け!」

「で、でも……」


 柳葉飛刀りゅうようひとうを放ったのは間違いなく明超だが、白老人を背負う彼の表情には余裕が無い。先に行け、と言ったのは桑縁を守りながら戦うのは難しいということ。しかし白老人を背負ったまま、彼が力を存分に発揮できるかというとそれも怪しいものだろう。


(白先生が目を覚まさないから、無茶をしたくないんだ……)


 怪我はないとは言ったものの、相手は相当な老人なのだ。いまの彼が、桑縁を抱え天文台を飛び超えたときのような荒っぽい動きに耐えられるのか、きっと明超自身も分からず不安に違いない。


槐黄かいおう、止めて!」


 鋭く響いた茗爛めいらんの声。彼女の声を聞いて、刺客――槐黄かいおうは戸惑っている。


「小……小姐おじょうさま、ですが……」


 茗爛めいらんは走り寄り、そして槐黄かいおうの前で両手を広げ明超を庇った。


「お父様からのお叱りは私が。この方たちは行かせてあげて。お願い」


 槐黄かいおう小姐おじょうさまとのやり取りを見ていると、炎の中で桑縁に剣を向けた相手とは到底思えない。小姐おじょうさまと呼ぶからには、彼女のほうが立場が上なのだろうが、戸惑っている槐黄かいおうの様子から見るに、二人の関係はそれだけではないようにも見える。


「……分かりました。私は何も見なかったことにします」


 結局、槐黄かいおうが折れる形でその場は収まった。


「さ、行ってください」


 すぐさま茗爛めいらんが振り返り、桑縁たちに言う。さすがにこれ以上この場所にいるのは限界だ。


「天大侠にいさん、行きましょう」


 桑縁は明超を先に行かせ、自らもあとに続いた。


    *


 それでも、悪いことは重なるものだ。

 ただならぬ表情で明超が足を止める。それだけで茗爛めいらん槐黄かいおうではない、別の誰かが近づいているのだと察した。


(天大侠にいさんは白先生を背負っている……)


 桑縁は完全にお荷物だ。白老人か桑縁、どちらか一人であれば彼は屋敷の塀だって飛び越えることができるだろう。それができないのは、飛び越えてしまったら桑縁だけが塀の内側に残されることになるからだ。

 明超にとって白老人は、薄明少年の頃から共に旅をして育てた弟のような存在。そして白老人が明超のことを八十年間ものあいだ、どれだけの後悔を抱えながら明超に焦がれ続けてきたのか、分からぬ桑縁ではない。


(天大侠にいさんにとっても、白先生にとっても、二人は互いに大切な存在なんだ……)


 失ったら、二度と戻らないであろう、切れそうなか細い糸で繋がっている二人の縁。それを断ち切らせることなど、考えたくもない。

 二人とも、桑縁にとって大切な存在であるのだから。


「天大侠にいさん。二手に分かれましょう。白先生を背負った天大侠にいさんと僕の三人では目立ち過ぎます」


 意を決した桑縁は、明超に呼びかけた。驚き、怒りにも似た表情で明超は桑縁を見る。


「何を言ってるんだ? 二手に分かれて、お前はどうするんだ!?」

「できるだけ目立たない場所に隠れながら逃げます! 潜むくらいなら僕にもできるでしょう? そうして、人がいなくなった瞬間を見計らって屋敷から出ますから」

「簡単に言うんじゃない! この屋敷の中にどれだけの衛卒がいると思ってるんだ! 弓矢を持っているやつだっている。気配も消せない奴が一人で逃げられるわけないだろ!」

「それでも! 天大侠にいさんは、必ず白先生を水連棚に届けなければいけないんです!」


 いつになく強い口調で言ったからか、怒っていたはずの明超が、驚き呆然と桑縁のことを見つめている。


「僕は自分が弱いことを知っています。だから、ちゃんと隠れてうまく逃げます。だから、水連棚で落ち合いましょう!」


 いうや否や、桑縁は明超を押しやって自らは駆け出した。背後で明超が呼ぶのも聞かず、振り返ることもせず。


(気づかれたかな……)


 本当は逃げる気など毛頭なく……否、逃げることも隠れることも不可能だ。彼の言う通り気配を消すこともできない桑縁が、隠れることなど無意味に等しい。もちろん、努力はするつもりだが、二手に分かれると言った理由はもう一つある。先ほど明超が見ていた方向へ向かうと、見張りの男たちがうろついているのが見えた。どうやら彼らは桑縁たちの存在に薄々気づいたようだ。先ほど歩いてきた場所のあたりを用心深く探っている。


 ――やっぱり。


 側の小石を拾い上げ、見張りのいる場所に向かって思い切り投げつける。石は石畳に落ちただけだったが、それでも小気味いい音をたてて転がった。


「誰だ!」


 一斉に桑縁のいた方向に侍衛たちが走り出す。桑縁はすぐに床下に滑り込み、慎重に四つん這いで歩みを進めた。


 絶望的だと覚悟を決めたものだったが、案外隠れる才能はあるらしい。

 武術の達人でもなく、軽功の達人でもなく、気配を消すことすらできない桑縁だったが、思いのほか順調に見張りに見つかることもなくその場を切り抜けることができた。嘘みたいな話だが、本当に運が良かったようだ。床下から這い出せば、後門が見えた。門を潜り抜ければあとは自由だ。あと一息、はやる気持ちを抑えながら桑縁は周囲の様子に気を配り、ゆっくりと門に近づく。


「誰だ貴様は」


 背後から聞こえた声に恐る恐る振り返ると、黒ずくめの集団に取り囲まれていた。槍に剣そして弓矢を番えた男たちは、漏室ろうしつでの一件のあった夜、桑縁を殺そうとした刺客たちとよく似ている。そして侍衛に囲まれた立派な剣を持つ人物だけが、他の男たちとは様子が異なっていた。おそらくは、この屋敷の主なのだろう。


(いや、そんなこと考えている場合じゃない!)


 逃げ場所は裏口の扉だけ。


「お、お父様!」


 遠くから走ってくる茗爛めいらんの声。お父様、という言葉に桑縁は驚く。


「その方は私の知り合いで、今日は一緒にお茶のお約束を……」

「黙れ!」


 男の怒鳴り声は空を震わせ、地を揺らしたかに思えた。茗爛めいらんが怯え、後退る。すかさず槐黄かいおうが男の前に飛び出すとひざまずき首を垂れた。


「申しわけございません。全て私の不徳のいたすところでございます。小姐おじょうさまには何の関係もありません」

「言い訳は要らぬ!」


 槐黄かいおうの言葉にも聞く耳は持たず『お父様』は鋭い殺意の眼差しを、桑縁に向けた。

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