第6話:白老人

「あれ、どうしたんだろう?」


 水連棚の前にやってきた桑縁と明超の二人は、いつも以上に劇場の前でざわついている客の姿に驚いた。水連棚が東角楼の中でも屈指の人気を誇る劇場であることは周知の事実だが、聞こえてくるのは動揺と不安、心配と戸惑い、そして少しの不満の声。

 不思議に思って人ごみをかき分け、入り口の前までやってくると、大きくは利害が貼ってあった。


「えっ、どういうこと!?」


 張り紙を見た瞬間、驚いて桑縁は声をあげた。


『臨時休業。再開の日取りは追ってお報せします』


 水連棚の劇場の扉に貼ってあったのは、臨時休業の報せだった。しかも、書き方からして今日一日だけというわけではなさそうだ。

 横から張り紙と桑縁とを交互に見る明超が、怪訝な顔で桑縁を見る。


「この劇場ではよくあることなのか?」

「いいえ、こんなこと……初めてです」


 幼い頃からこの水連棚に通っていたが、嵐が来たときでも開催していることで有名な劇場だった。


(その水連棚が臨時休業するなんて……いったい何があったんだろう?)


 水連棚の役者たちは、景王に協力している。もしや彼らが事件に巻き込まれたのだろうか、そう思うと急に桑縁は不安を覚えた。


「裏口から入って、聞いてみるか。一人くらいはいるだろう」

「そう、ですね……行ってみましょうか」


 水連棚の裏口は何度も行ったことがある。つい先日も裏口から入ったし、もっと昔から……それこそ祖父と劇場に通っている頃から白老人に招かれて裏口から入っていた。やはりどんな事情があるのか気になるし、確認してもいいだろう。

 裏口へ周り、いざ扉を叩かんとしたときだ。


「秦公子……?」


 突然呼びかけられた声に振り返る。その先に立っていたのは見知った人物。


「青海さん!」


 水連棚で一番人気の役者――沈青海だった。練習用の短衫を着た青海は、いつものように涼やかな顔をしていたが、どことなく顔色が悪い。それどころか、視線が定まっておらず終始落ち着きのない様子で、よく見れば髪もボサボサのまま、普段の彼らしからぬ様子だ。


「あの、何かあったんですか?」

「実は……。いえ、ちょっと、中でいいですか……?」


 周囲の様子を警戒しながら扉を開けると、青海は桑縁たちに中に入るように促した。


 青海に招かれて裏口の扉から中に入ると、水連棚の楽屋は確かに普段と様相が異なっている。臨時休業にもかかわらず、慌ただしく役者たちが出入りして、顔を見合わせては「どうだ」「だめだ」と首を振り、そしてまた外にくり出している。普段なら常にあちこちで練習が行われているはずなのに、今日は誰一人練習をするものもいない。共通しているのは、皆が焦燥した表情を浮かべている。


「驚かれたことでしょう。実は、座頭が昨日から戻ってきていないんです」

「えっ!?」


 座頭、つまり白老人の行方が分からないということ。


「待てよ、白爺は白角会ばっかくかいの頭なんだろ? 何か調査をしているだけなんじゃないのか」


 居ても立ってもいられなくなったのか、明超が割り込んできた。青海は少し驚いた表情を見せたが、すぐに真剣な顔に戻る。


「確かに、座頭は少し前から二殿下の依頼で、調査を行っていました」

「なら……」

「ですが、座頭は年齢も年齢です。普段は自ら動くことはせず連絡の取り次ぎに徹しておられました。それなのに、急に自分で調べたいことがあると仰って……。いえ、それでも、公演をすっぽかしたりするような方ではないんです!」

「落ち着いてください!」


 明超に掴みかかった青海を宥めながら桑縁は叫ぶ。


『私たち水連棚の役者のほとんどは孤児で、座頭に拾われ育てられました。座頭は私たちが生きてゆけるようにとたくさんのことを教え、居場所を作ってくださいました。どれほど感謝してもし切れません』


 普段は穏やかな彼がここまで取り乱しているのは、やはり白老人は青海にとって……いや、水連棚全員にとってかけがえのない存在だからだ。


「お気持ちは理解しているつもりです。ですが、焦ってばかりでは大切な情報も見落としてしまうかもしれません。僕たちも協力しますから、順を追って話してくれませんか?」


 桑縁は青海の目を見ながら、落ち着くようにゆっくりと語り掛けた。それでも始めは言葉にすることを躊躇っていた青海だったが、ようやく気持ちの整理ができたのかしばらくすると大きく息を吐いて「分かりました」とうなずいた。


 青海は桑縁と明超の差し向かいに座り、ぽつぽつと語り始める。躊躇いがちに語る様子は弱弱しく、普段舞台の上で見る彼とも、楽屋で話す彼とも異なっていた。


「本来は話すべき内容ではありませんが……二殿下はお二方を信頼されておりますので全てお話します。少し前より二殿下に『旅興行で東角楼にやってきた西域の一座のことを調査して欲しい』と頼まれておりました」

「西域から?」


 青海はうなずいた。彼の話によれば一座は交易も兼ねてしばらくのあいだ滞在しているそうで、市にも珍しい品々を売りに出しているのだという。彼らの持って来た品々はどれも珍しいものばかりで、黄金と美しい色の宝石で彩られた髪飾りや腕輪などが妃賓や金持ちたちのあいだで高値で取り引きされているそうだ。毎朝禁門が開くたび、皆が一斉に飛び出していく様子は、最近では見慣れた光景となっている。

 さらに彼らの披露する舞踊や演奏は見事なもので、彼らが出ているときは広場の人だかりはいつもに増して多いのだと青海は話す。


「ですが、二殿下は彼らのことを警戒しておられます」


 後宮に宦官の振りをして出歩いている景王には、妃賓たちの状況をある程度掴むことができる。一部の妃賓たちは美しい装飾品に夢中になるあまり、皇上から賜った物をこっそり売って金に変えてしまったものもいるそうだ。あまつさえ、妃賓の機嫌を取ろうとする臣下や、妃賓に倣おうとする貴族や富豪たちも加わって、市場での価値も高騰しているらしい。


「皇上から賜った物を売ってまで、西域の装飾品を買い求めた妃賓たちのことが明るみになれば大問題になります。それに、この過熱ぶりも異常なもので、二殿下は誰かが裏でそうなるように糸を引いているのではないかとお考えのようです」


 昨日桑縁も目にしたが、西域の一座の踊りは見事なもので、皆が夢中になるのも納得だ。そして彼らの身に着けていた美しい装飾品の数々に目を奪われることも無理はないだろう。しかし、その弊害がこのような形で表れているとは夢にも思わなかった。


「話は概ね分かりました。ですが、どうしてそのことで白先生はお一人で無茶をしようとされたのでしょうか?」

「それは……おそらく……不死の仙薬のせいなのではないかと……」

「不死!?」


 青海はうなずく。

 西域の一座がもたらしたのは、黄金の装飾品と美しい踊りのほかにもう一つ。『奇妙な噂』というものがあるそうだ。


「一つは彼らが鳳凰を飼っているという噂。もう一つは、どのような病もたちどころに治し、生命力を増やすという、不死の仙薬を彼らが持っているという噂です」

「そんな、馬鹿な!」


 思わず桑縁は叫んでいた。確かに万能の仙薬というものは人々の焦がれる存在だ。しかし、本当にそのようなものがあるわけがない。


(いや、でも……)


 思いかけて隣に幽鬼がいることを思い出す。


(死んだ人間が幽鬼となって、しかも|陽間げんせに舞い戻ってくるんだから、もしかしたら仙薬というものも存在するのかな?)


 無い……とも言い切れない。桑縁が迷っていると、代わりに明超が「偽物に決まっている」と卓子代わりの木箱を叩いた。


「不死の仙薬なんてものが、百歩譲って存在したとしてだ。そんなもんが、そう簡単に手に入るもんか! 万に一つでも、そんな代物を持っていたとしたら、収拾がつかなくなるにきまってる!」

「はい。全くもって仰る通りです。とにかく妙な噂がついてまわるものですから、二殿下も怪しまれて……それで一座を調べるようにと」


 語気荒くまくし立てる明超に驚き、青海は彼に同意する。確かに本当にそんなものがあったら喉から手が出るほど欲しい者たちはいるだろう。しかし、おいそれとそんな噂を信じるのはどうだろうか。


「二殿下からそういった依頼を受けるのはよくある話で、座頭も普段通り我々に内密に一座のことを探らせていたんです。……ところが、昨日お二人をお見送りに出た座頭が戻ってこられたとき、少し様子が変だったんです」


 白老人は人ごみの中に消えていく桑縁たちを、じっと見ていたという。


「座頭は天殿に並々ならぬ想いを抱いておられましたから、きっと別れが寂しいのだろうと我々は座頭を残して楽屋に戻ったのです」


 それから少しして、白老人は楽屋に戻り、着替えの用意を命じたそうだ。興奮冷めやらぬ様子の彼は『あの噂は本当だったのか……!』と語ったという。


「それから、黒装束に身を包みどこへ行くのかも告げず……。普段はお一人で何かをなさろうとは絶対しない方なのです。ただならぬ雰囲気を感じ、詳しく問うことはしませんでしたが、西域の一座の行方も一晩のうちに分からなくなってしまいました。いまとなってはお止めすればよかったと悔やむばかりで……」


 そう言って青海は唇を噛む。

 桑縁は椅子から立ち上がると、青海に頭を下げた。


「白先生の捜索でお忙しい中、お話しいただき、ありがとうございます。僕たちもこれから白先生を探してきます」


    * * *


 水連棚を出てすぐ、明超に腕を掴まれた。


「なあ、桑縁。心当たりはあるのか」


 振り返ると、思いつめた彼の表情が覗く。彼が掴んだ手の力は、いつになく強く――白老人のことを案じているのだ。桑縁は息を整え、それから明超を見あげる。


「昨日僕たちを見送ったとき、きっと白先生は西域の一座の『噂』に纏わるものを見つけたんです。『それ』が白先生が自ら動きたいと思うほどのものであるなら、青海さんの言うとおり不死の仙薬に関わる何かで間違いないと思います。……まずは一座があった場所を見てみたいと思います」


 そう言って昨日の記憶を頼りに辺りを見回す。


「すみません、珍しい踊りを披露していた方々の舞台が、昨日ありましたよね?」


 桑縁が声をかけたのは、昨日東角楼を訪れた際に、西域の一座の舞台近くで飴売り屋台を出していた老人だった。


「ああ、昨晩のうちに荷物を纏めて引き上げていったようだよ。あまりに急だったんで驚いたねえ」

「あの、どこに行ったか分かりませんか?」

「さあねえ。……国にでも帰ったんじゃないかね」

「……」


 もしも庚央府を出てしまっていたら、追いつくことは難しいだろう。桑縁は唇を噛む。

 考えてみれば、初めから水連棚の面々は西域の一座に目を光らせていたのだ。おそらく白老人が行方不明になったのなら、真っ先に彼らを疑っているだろう。あれほど皆が焦っていたのは、その一座の行方が一向に見つからないからだ。


「調査に長けた白角会ばっかくかいが必死で探しても見つからない、それなのに僕なんかが探したところで、そう簡単に見つかるわけないじゃないか……」


 無念さをにじませ、思わず言葉が零れ落ちる。素人の自分が簡単に見つけられるわけなどない。


「くそ、爺のやつ心配かけやがって……。見つけたらただじゃおかねえ」


 悪態をつく明超の声は、言葉と裏腹に不安に満ちている。昔の仲間を、やはり心配しているのだ。彼のためにも、水連棚の皆のためにも、そして世話になっている白老人のためにも挫けている場合ではない。


(急に姿を消したのは、何か理由があるに違いない。ただ、慌てて国に帰るにしても、彼らが移動するなら相当目立つはずだし、そう簡単に庚央府を出られるだろうか?)


 気になるのは二つの『噂』だ。そもそも西域から来た彼らが魅力的な装飾品や変わった品物を取り扱っているからといって、鳳凰を飼っているだの不死の仙薬だのを持っているというのは、いくら何でも突拍子もない話。誰も信じるわけがないだろうが、それでも白老人は『噂は本当だった』と言ったのだ。

 しかし仮に噂が事実ならば、明超が言う通り一座を狙う者たちが必ずいるはずで、少なくとも一介の旅芸人が鳳凰を飼っているならば真っ先に見世物にするだろうし、しないのなら貴重な鳥や薬を日常的に持ち歩く、というのも実に奇妙な話である。


「もしかして……そうだ!」

「おい、急にどうしたんだ!」


 急に走り出した桑縁に驚いた明超が慌てて後を追う。桑縁は記憶を頼りに細道を通り抜け、劇場の裏手にある客棧きゃくせんの前で足を止めた。二階建てながら左右に広く伸び、大きく開かれた入り口の左右に並べられた卓子では、客たちが酒を飲み語らっている。


「ずいぶん大きな客棧きゃくせんだな」

「劇場に近いから泊まりのお客さんに重宝されているんですよ。表通りに面していないぶん通向けというか……隠れた名所ってやつですかね」


 かくいう桑縁も幼い頃に祖父と泊まったことがある。そのときと変わらぬ雰囲気を湛える客棧きゃくせんの姿を懐かしく思う。


「……っと、いけない。ええと、厩舎きゅうしゃはこっちのはず……」


 客棧きゃくせんの脇に回って、厩舎きゅうしゃの中を覗き込む。馬に混じって駱駝がいることを確認した桑縁は、安堵のあまりその場にへたりこんでしまった。


「よ、よかった……」

「おい、いったいどうしたんだ。説明してくれよ」

「実は……西域の一座は、まだ庚央府にいるんじゃないかと思ったんです」

「何だって!? おい、それってどういうことなんだ?」


 桑縁は厩舎きゅうしゃから顔をだす駱駝らくだを指差す。駱駝らくだはおよそ庚国では見かけない生き物で、庚央府の中で飼っているという話は聞いたことがない。


「だってほら、こいつはきっと、西域の一座の駱駝らくだですよ。姿は消したけれど、駱駝らくだは目立つのでいったんそのままにしてあるのだと思います。彼らはどこかに身を隠してるのではないでしょうか」

「何のために?」

「それは、まだ分かりませんが……。でも思うんです。彼らは、彼らだけではなく庚央府の中で誰か、彼らを援助する存在があるんじゃないかって。そうでなかったら、あれだけの人数が迅速に姿を隠せるはずありません。身を隠すだけの場所も必要なはずですから」

「……ってことは、一座を匿えるだけの財力と土地を持つ奴のところにそいつらがいる可能性が高いってことか」

「確証はありません。でも、情報が少なくて、すみません……」


 大きな手が桑縁の肩に触れた。


「もう一度よく探してみよう。水連棚に戻って、皆に協力してもらったほうがいい。該当する範囲を手分けして探すんだ」

「でも、僕の一存で水連棚の皆の手を借りるのは……。それに、もし僕の考えが間違っていたら……」

「大丈夫さ」


 弱気な桑縁を鼓舞するように明超が力強く言う。


「お前のこと、頼りにしてるよ。少なくとも一座がまだこの辺りにいることの確証が持てたんだから。それだけでも凄いことだ。……いまは時間が惜しい。少しでも可能性があるなら、それに賭けてみよう」


 切羽詰まった状況なのに、なのに胸に熱いものがこみ上げる。その感情の出所を探る余裕はいまはない。浮かび上がった様々な考えを振り切って、桑縁は明超に強くうなずいた。

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