第5話:天文台・二

 天文台から瑛月楼に駆け込んだ桑縁たちが二殿下こと景王への取り次ぎを頼むと、およそ一時辰ほどで景王は高雲を引き連れて瑛月楼に現れた。馬車での移動とはいえ、皇城から瑛月楼まではそこそこの距離である。にもかかわらず、この短時間で彼が瑛月楼にやってきたということは、やはり桑縁のもたらした天文台の件が、それなりに景王にとって重要なことだったということだろう。

 いつものように、瑛月楼の一番上等な部屋。そこで桑縁たちの話を聞いた景王は、もっともであるとばかりに大きくうなずいた。


「そもそも司天監――それに翰林天文院の二つは、極めて強い『言葉の力』を持っている。司天監たちが『こうである』と言えば、皆それを信じるのだ。悪い奴らがいるならば、それを利用しない手はないだろう?」


 だからこそ司天監は一つではなく、天文院と対を為す。それでも、こうして双方ともに立ち行かなくなってしまうのは、やはり担う役目の特殊さからなのだろうか。


「二殿下が到着するまでのあいだ、僕なりに色々考えていました。……やはり、僕の観測記録が差し替えられていた理由は、犯人は何かしらの意図をもって、奏上する内容を変えるつもりだ――ということでしょうか」

「そうなるな」


 楼主が出してくれた松黄餅しょうこうへい[*松花粉に蜜を合わせた落雁]を齧りながら、明超は二人の会話を黙って聞いている。星のことについて彼は全く知識がないため、口をはさむ余地はないのだ。

 桑縁は紙に書き記した文字を、向かいに座る景王に向けて見せた。これらは桑縁が景王を待っているあいだに書いたもの。


金来晧きんらいこう沃當陽よくとうよう王慶縁おうけいえん……。あの日、卓子の上に積み上げられていた観測帳に書かれていた名前です。年号は庚永八年、庚永十一年、啓辰七年……」

「お前……あのわずかな時間で冊子の年代と名前を全部覚えたのか!?」

「そうですが……」


 驚くほど短い時間だったわけでもないし、覚える数も多くなかったため、幸いにして全ての名前を覚えることができた。生来、覚えることは得意であり、大概のことは八割程度までだいたい覚えることができる。それでもさすがに記憶は時間とともに薄れるものである。だから今回は墨と紙を瑛月楼の給仕に頼み、覚えたことをすぐに書き残しておくことにした。


「それで、私にこの紙を見せるということは、何か調べて欲しいことがあるのだな? しかし、観測記録ならば、お前の祖父上がご健在の頃から欠かさず記録をつけているお前の方が詳しいだろう?」


 景王の言うことは正しい。桑縁が個人的に記録している観測帳は、桑縁だけではなく死んだ祖父も毎晩のように記録をつけていたのだ。いわば、桑縁のこうした日常全ての基盤を作ったのは、祖父の影響であった。だから、新たな庚国が再興してまだ八十年、その半分以上の観測記録を桑縁と祖父の記録で補うことが可能なのである。


「はい。二殿下に調べていただきたいのは、彼らがどのような人物で、いまどこにいるのかということです。犯人はなぜ彼らの観測帳を必要としたのか、なぜ記録を差し替えようとしたのか。その理由が分からないものかと思いまして」

「確かにそれは重要なことだ。よし、そちらは私のほうで調べておこう」

「ありがとうございます」

「それからもう一つ――重要な報せがある。本来はお前たちから連絡が来る前に、このことを報せようと準備していた」

「はい?」


 景王の表情が心なしか険しい。どうやら彼が瑛月楼に急いで来た理由は、桑縁たちの話を早く聞きたかったというより、彼自身が持っている情報をいち早く桑縁たちに伝えたかったということが大きかったようだ。いったい何を言うのだろうか、そう思っていると、脇に控える高雲の背後からもう一人の人物が歩み出た。


「太子殿下……!」


 皇城において下っ端の桑縁でも、目の前の人物が誰であるかを知っている。景王の兄である太子こと晏王だ。控えめな蓮灰の深衣と元青の大袖衫を羽織ってはいるが、彼の表情と一挙一動全てが隠しようもないほど太子の風格を醸し出している。普段は遠目でしか見たことのなかった彼が目の前にいる。


「私はいま身分を隠してこの場に来ている。だから、そう畏まる必要はない」


 慌てて桑縁が挨拶をしようとしたのを、晏王が穏やかに止めた。やはり評判通りの人物だと感心しつつ、桑縁は体勢を戻す。


「宮城内で不穏な動きがあると景王からは聞いている」

「はい、実は……」


 桑縁はこれまでの経緯などを掻いつまんで彼に話した。晏王は難しい顔をして考え込んでいるようだ。


「それに関連することだが、私のほうでも景王と協力して調べていたことがある。今日はその報告をするためにやってきた。……少し前のことだ。鄭徳鎮ていとくちんで工房を営む磁器職人が殺された」

「…………はい?」


 鄭徳鎮ていとくちんといえば、磁器で有名な土地である。それは分かるのだが、どうして景王がそこの職人が殺されたことを語るのか。すぐに晏王が何を言わんとしているのか思い至った桑縁は、顔色を変える。


「もしかしてそれは、皇后娘々の犀角さいかく杯にまつわることですか?」

「その通り。これを見て欲しい」


 晏王は二枚の美しい図柄の紙を広げ、高雲は持っていた器――褐色の杯を桑縁たちの前に置いた。


「これ、鳳凰じゃないか!」


 明超が声をあげる。まさに紙に描かれた図柄は、美しい鳳凰だったのだ。


「これは私の記憶をもとに描かせた、犀角さいかく杯の図柄。父上が龍、母上が鳳凰。特別な宴のときにしか使われたことがないのだが、私を含め一部の者は、この杯にどのような絵が描かれていたのか、杯はどのような色であったかを知っている。もう片方の図柄は鄭徳鎮ていとくちんの工房より見つけたもの。翼を広げた姿といい、まるで二つは同じものを描いたように見えるだろう」


 晏王は磁器の杯を手に取ると、桑縁たちの前に差し出した。


曹州漆陶器什物鋪そうしゅうしっとうきじゅうもつほの話を聞いて、もしやと思った。それで各所の磁器の窯元で有名な場所を、可能な限り当たって調べさせたのだ」

「どうだ? この器の色は。犀角さいかくに似ていると思わぬか?」


 晏王の横で得意げな顔をして語る景王を、桑縁は渋い目で見つめる。どうだと言われて桑縁が答えられると思っているのだろうか?


「あの、二殿下……。僕のような貧乏人が犀角さいかくを見たことがあるとでも? いや……まさか、それって……」


 褐色の器の色は少しくすんでいるが、それでいて艶やかである。犀角さいかく杯を実際に見たことはないが、噂によれば赤い色をしていると聞いたこともある。それでも目の前にある器の赤色は、艶やかすぎて犀角さいかくというには厳しい気もするが……仮に皇后娘々に献上されたという犀角さいかく杯の話が本当であるというのなら、それは大切に保管されているはずだ。頻繁に目にするようなものでもないのだろう。


 ――ならばだ。


 多少現物と違う部分があっても、それらしく見えるなら案外気づかれない可能性もあるのでは?

 そんな考えがよぎる。


「どうやら気づいたようだな。まあここまで辿り着くことができたのは、お前のお陰であるのだがな」


 桑縁の表情を見た景王が、満足げに言った。


「二枚の図柄のうちの一枚は、死んだ磁器職人が器に描く前に練習として描いたもののようだ。図柄は燃やし、磁器は粉砕されてしまったが、奇跡的に一枚だけごみの中より見つかった」

「太子殿下。実際に注文された偽の犀角さいかく器は相手の手元に渡ったのでしょうか?」


 おそらくは、と晏王はうなずく。彼がそう言うからには何かしら根拠があるのだろう。


「殺された磁器職人は『とてつもなく大きな依頼が入ったから、近々大金が入りそうだ』と周囲に吹聴していたらしい。その金を元手に、もっと自分の窯を大きくするのだと言っていたのだとか。彼の仕事場の陶器は全て砕かれていたが、その中でもっとも多く見つかった色が、褐色だった」


 望み通りの色が出るように、何度も褐色の磁器を作り試していたのだろう、と景王は語った。さきほど晏王が手にしていたのは、職人が知人に理由は告げず預けていたものらしい。美味しい依頼と思う反面、どこか不安もあったのかもしれない。


「そして職人は殺された。つまり、偽の犀角さいかく杯を作らせたあと口封じをしたと、太子殿下と二殿下は思ってるということで合っているか?」

「さすがは天殿、その通りだ。二人から火事に纏わる仔細を聞いたあと、ピンときた。曹州漆陶器什物鋪そうしゅうしっとうきじゅうもつほは粗悪品などを安く売る店。いわば由緒ある窯や高級店とは真逆の店だ。そんな店に、偽の犀角さいかく杯が作れるものだろうか?」

「殺された紹玲は、なぜかそんな店に偽物の杯を依頼したってことは……。『大切なものを無くしてしまった。死んでも探せと殴られて、でも見つからない』って言ったんだったな。――だが紹玲が依頼をしたのは曹州漆陶器什物鋪そうしゅうしっとうきじゅうもつほのはずだ。それなのに、どうして庚央府から遠く離れた鄭徳鎮ていとくちんにも依頼が行ってるんだ?」

「そこなのだ、そこ」


 首を傾げる明超に、したり顔の景王がうなずく。桑縁には景王の言いたいことが粗方分かってはいるのだが、よもや桑縁たちが後宮に行っているあいだにそこに思い至って調べているとは思いもよらなかった。


「死んだ紹玲さんは、ひどい暴行を受けた跡がありました。足も腕も骨折して、動けない状態になるほどです。おそらく『死んでも探せ』と言った人物は紹玲さんに娘々の犀角杯を盗み出すように命じて――にもかかわらず、彼女はそれを失くしてしまった、と二殿下は推測したのですよね? 彼女は、失くしたものの替わりをこしらえて誤魔化したい一心で、庚央府内で急ぎの依頼を引き受けてくれそうな店を当たった……というところでしょうか」

「そう。……まあ、それも桑縁と天殿の二人が後宮に入って、娘々と寧賢妃の様子を探ってくれなければ推測も立てられなかったのだがな」

「……」


 本当は『その節はずいぶんと肝を冷やされました』と言ってやりたかったのだが、母を守ってもらった手前あまり辛辣なことは言いづらい。渋々言葉を飲み込んで、話を続けることにした。


「確かに筋は通っています。可能性としては限りなく高いでしょう。ですが、何の確証もなく『これを真である』と決めてしまって、よいのでしょうか。実際に娘々に確認して、杯が盗まれていたのでしょうか?」


 景王の話はとても説得力があった。しかし、仮定は仮定であり、真実かどうかはまだ分からない。なにせ桑縁たちが論じているのは、市井の民のことではなく、庚国の皇后のことなのだから。


「桑縁の言うことは正しい。実のところ、いまの話は確たる証拠と呼べるものが無いのだ。無論、磁器職人の持っていた図柄は有力な証拠の一つにはなるはず。しかし、それでもまだ足りないといえよう」

「それなのだが」


 それまで桑縁たちの話に耳を傾けていた晏王が口を開く。その彼の言葉を補うように、高雲が「実はそのことですが」と切り出した。

 決定打に乏しいことは景王も晏王も理解しているようだ。それを補うように、高雲が景王のあとに言葉を続けた。


「太子殿下が内密に、皇后娘々の犀角さいかく杯を確認していただく手はずとなっております」


 どうやら彼らも、太子も、可能な限り穏便に確認する方法を模索していたらしい。ひとまず確認する方法があることが分かり、桑縁は安堵した。


「そうでしたか。そこで本物かどうか確認さえできれば、残す謎は犯人のことだけですね」


 太子が動いてくれるのならば心強い。彼も自分の母である皇后娘々が危険だと分かっているからこそ、こうして骨を折ってくれているのだ。仮に桑縁がもし同じことを言ったなら、すぐに腰斬刑になってしまうかもしれない。


「ってことは……話を戻すが、桑縁を狙った刺客は『死んでも探せ』と言った犯人と関わりのある人物、の可能性が高くなったってことか。二殿下は俺たちが後宮に行っているあいだに、一味の一人を捕まえたんだったな。何か情報は吐いたのか?」

「それが……」


 明超が尋ねると、なぜか景王が、ふっと視線を背けた。見るからに彼は気まずそうな表情をしている。


「殺されてしまったのです……」


 そんな気まずそうな景王に代わり、高雲がおずおずと告げた。この景王という男は、思いのほか頭は切れるのだが言いづらいことは有耶無耶にする悪い癖がある。そんなとき、いつだって彼の替わりに言いづらいことを告げるのは高雲の役目なのだ。


「いや……殺されたってどういうことなんですか!?」


    * * *


 おかしい。

 不可解すぎる。

 先ほどからぐるぐると考えが堂々巡りしている。


『獄舎に繋ぎ、厳重に警戒していたはずでしたが……何者かによって殺されてしまったのです』


 悔しそうに高雲は言った。ようやく掴んだ手掛かりだ。景王や高雲も並々ならぬ警戒を敷いていたはず。それなのに殺されてしまったというのは、いったいどういうことなのだろうか。


「……天大侠にいさんは、どう思いますか」


 鬱々とした気持ちを抱えながら、明超に尋ねる。互いに同じことをずっと考えていたようで、瑛月楼を出てから先ほどまで二人とも黙りっぱなしだったのだ。


「そうだな。二殿下や高雲が手を抜くはずがない。きっと本当に厳重な警戒態勢を敷いていたはずだ」

「それなら、どうして……っ」


 たまらず掴みかかった桑縁を振りほどくわけでもなく――見つめる明超の瞳は、水を打ったように静けさを湛えている。普段はのらりくらりとした態度を崩さぬ男。けれどいまは普段のそれと明らかに異なっていた。射抜くような鋭い視線、獲物を狩る直前の鷹の顔。

 急速に明超の顔が近づいて、桑縁は思わず掴んだ襟を離そうとした。しかし、身体が離れるより早く明超の手が背中に回され、もっと近づいた。動揺と驚きのあまり声をあげそうになった瞬間に、耳元を明超の唇が掠める。


「しっ――そのままで」


 聞こえるか聞こえないかのギリギリの声。すんでのところで叫びかけた声を、桑縁は飲み込んだ。ここまで用心するからには、おそらく明超は周囲を相当警戒している。気配の有無については一切分からない桑縁だけに、ここは大人しく明超に従ったほうが得策だと考えた。


「いいか。高雲は有能な侍衛だ。二殿下だって馬鹿じゃない。第二皇子が捕まえて牢にぶち込んだ相手を、易々と殺すことができる存在は、誰だと思う?」


 桑縁以外には聞こえぬほどの小さな声。しかし、その言葉だけで桑縁には続きの言葉が分かってしまった。


 ――該当する人物なんて、数えるほどしかいないじゃないか……!


 寧賢妃の元にいた女官や宦官たちの顔にあったという、殴られた痕。同仮に明超が言うように、あの痣が寧賢妃の仕業ではなかったのなら。

 それと同じように、紹玲の顔にも歯が折れるほどひどく殴られた痕があった。顔だけではない、腕も足も骨折した状態であったのだ。

 もしもそれが……芳和殿の宦官や女官たちの所業ではないのだとしたら。

 それができるのは一体誰なのか?

 景王と並ぶ権力を持っている者。

 芳和殿に関わりのある者。

 太子こと晏王は景王からある程度の事情を聞いており、母である皇后のことを案じ景王に協力的だ。よほど拗れた事情が無ければ、彼がこの一件に関わっている可能性は低いだろう。

 長公主は栄慧帝の妹であるが長らく患っており、いまは離れた皇家の避暑地である園林で静かに暮らしていると聞く。あくまで噂程度であり、直接景王に尋ねたことはない。郡主は他国に嫁いだはずであるし、郡王もいまは離れた土地に冊封されている。桑縁の動向を探ったり、刺客を差し向けたり……獄舎に侵入して景王が捕らえた刺客を殺すことができるのだとしたら、相当強い力を持っていることになるだろう。


 ――第三皇子の永王か、あるいは長公主、郡主、郡王、それとも宰相やそれに等しい存在か。いずれであっても、あまりいい気持ちにはなれない。


 そんなことを悶々と考えながら歩いていると、いま自分がどこに向かっているのかふと分からなくなって明超に顔を向けた。


「そういえば天大侠にいさん。僕たちどこに向かっているんでしたっけ?」

「どこって……水連棚だろ。二殿下に見せたあの名前を、白爺にも探してもらうって……言ったのはお前だぞ?」

「そういえば、そうでした」


 調べごとなら、水連棚のほうが調査能力は優れているだろうと、桑縁が明超に言ったのだ。先ほどの衝撃が大きすぎて、すっかり頭から飛んでしまった。


「お前……大丈夫か?」


 立ち止まり、明超は桑縁の額に掌を押し当てる。己の掌より一回り大きい彼の掌はひんやりとして冷たい。――血の通わぬ掌。


「だ、大丈夫です。先ほどのことをちょっと、考えていたので……」

「あまり悩みすぎるなよ。本当にお前は真面目過ぎるんだからな。自分のことじゃないのにしょい込み過ぎるなよ」

「……」


 額から掌が離れ、ぽんと頭に載せられる。その後の行動をある程度予想した桑縁は、ぐしゃぐしゃと頭をかき混ぜられて『やっぱり……』と内心思った。

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