第4話:天文台・一
次の日、桑縁と明超は朝餉を食べてから家を出立した。もちろん、天文台に忍び込むためである。
「朝餉もたっぷり食べて、こんなのんきに歩いている俺たちが、これから天文台に忍び込もうとしているなんて、誰も気づかないだろうさ」
などとのんきなことを言って明超は笑う。しかし、実際に緊張感の欠片もなく、誰から見てもやはりこれから忍び込む人間には見えないだろう。
庚央府と皇城を囲む三重の城壁のうち、最も巨大な城郭の北東に、天文台は建造されている。高さ百尺の霊台の上には
「司天監の職務は暦の製作、正しく時を測ること、正しく時を報せること、それに星辰を観測し吉凶を占い、正しく皇上に奏上すること。どれも疎かにはできない、重要な役目です」
木陰に身を隠し、天文台の様子を窺いながら桑縁は語る。明超は複雑な表情で、
「つまり結局、何なんだ」
とだけ言った。
「僕が言いたいのは……漏刻は朝夕関係なく続けられるわけで、つまり
「ああ、だから夜が明けたあとを狙ってやってきた、ってわけだな」
「そういうことです」
桑縁はうなずく。
毎日のように天文台に通っていたのだから、この建物のことなど手に取るように分かる。だからいつどこに人がいるのかは全て把握しているし、焦っても仕方がない。だからのんびりとやってきた――というわけだ。
「それで、お前が行きたいのはどこなんだ?」
「城壁を超え霊台の先にある紫星殿と、紫星殿に隣接する書閣の二か所。書閣には過去の観測帳が所蔵されています」
明超はうなずく。
「分かった。気を付けることはあるか?」
「見つからないように僕を霊台の向こうに運んでください。それから、僕が調べものをしているあいだ、誰かが来ないか見張っていて欲しいです」
「任せろ。……しっかり捕まっているんだぞ」
言うや否や、明超は桑縁を膝から抱え上げる。あまりの素早さにすぐ反応することができず、慌てて明超にしがみ付く。これでもう大丈夫と明超に視線を向けると――不敵な微笑みを浮かべている。見た目だけでいえばこの上なく美男であるはずなのだが、こういうときの彼はいつだって悪戯な少年の表情そっくりだ。そして自分がいま、どのような態勢でいるかを考えて……恥ずかしさで耳が熱くなる。
「……なに笑ってるんですか」
「いいや? 何も?」
どう見ても笑っている!
そう訴えたい気持ちで一杯だったが、そんな問答で時間を取っている余裕はない。腹立たしい気持ちを抑え、明超から顔を背けて「お願いします」と膨れっ面で言い捨てるしかなかったのだった。
「行くぞ」
浮遊感を感じた次の瞬間には、天文台の外壁を走っていた。滑るように翔けて
二度三度と、壁を足掛かりに素早く壁を駆け上がった明超は、音もたてずに天文台の壁を飛び越える。できるだけいまの光景を記憶に収めたいと思っていたが、風を切る勢いの強さで、反射的に目を瞑ってしまった。再び目を開いたときに明超の背中越しに見えたのは、霊台の煉瓦壁。地面に足の先がついたかと思えばすぐさま建物の影に滑り込むようにして身を隠す。
(凄い、なんて身軽さと的確な動きなんだろう……!)
塀を乗り越えるという大胆な行動にもかかわらず、無駄な動きが一切無い。しかも桑縁を抱えたままで――だ。
さすがは義鷹侠士というべきなのか。自分がいま、憧れの義鷹侠士と共にいることを改めて実感し、心の中で密かに感動に震えた。もちろん当人に言うことはしない。言ったらきっと引かれるに決まっている。
見あげた先の霊台は、大きくて高い。一人では絶対に超えられない、強固な
(一人では何もできない。けれど……)
不意にしがみ付く両手の片方を放し、手を伸ばしてみたくなる。
生真面目な顔で明超が言ったあの言葉。
『力ならここに、天明超がいる』
誰かの力を借りることで、一人では成し得なかったことに、こんなにも簡単に手が届きそうだ。泣き寝入りするしかなかったあのとき、力が欲しいとどれほど願ったことか。結果的にやってきたのは自分自身の力ではなく、助けてくれる誰かの力。それでも、一人ではなく二人なら叶うのだ。
(貸してくれた力に見合うだけのことを、僕もやり遂げ、天
どうしようもなく湧き上がってくる高揚感と、風の音を打ち消すほど胸の中で鳴り響く鼓動を感じながら、桑縁は心の中で誓いを立てた。
*
「よし。誰にも気づかれていないはずだ。人が来ないうちにさっさと済ませろよ」
紫星殿の扁額が掛けられた扉を通り抜け建物の中に入ったあと、ようやく明超は足を止めて桑縁を静かに下ろした。
「ありがとうございます!」
明超に礼を言って、桑縁は件の卓子がある場所へと走り出す。しかし、すぐ隣の部屋に
「う~ん……さすがにあれからずいぶん経っているから、あるわけないか……」
予想はしていたが、前に卓子の上にあった、たくさんの紙束や冊子は、全て綺麗に卓子の上から消えている。おそらく既に片付けられたあとなのだろう。
ないものはない、と気持ちを切り替え、桑縁は書閣へと足を向ける。その後ろからは明超が後を追う。
「駄目だったか?」
「ここは予想済みです」
時間さえあれば、どのような冊子が置かれていたのか、ある程度まで思い出すことは不可能ではない。だから、あとは穏便にことを済ませられるようさっさと次の目的を果たす方がいいのだ。
書閣の中には、観測帳が収蔵されている。庚国が始まってからいまに至るまで――歴々の司天監たちの観測記録の全てがあると言っても過言ではない。その中には桑縁の祖父の記録や、桑縁の記録も含まれているのだ。
開いた扉から漏れる光を頼りにして、書棚の一角に目を凝らす。
「けほっ」
薄明かりの中に塵が浮かび上がる。手入れもさしてされていないのだから、埃っぽくて当然だ。吸い込まぬように袖で鼻と口元を押さえながら、その中の一冊抜き取った。
『庚永十一年――』
表紙に書かれた文字は、紛れもなく桑縁の書いたものだ。霊台郎になってから
(あのとき、僕が描いた星図も観測記録も、林保章正が書いた星辰の命運も、二つはちゃんと対応していたはずなんだ)
しかし、観測帳を捲り始めた桑縁の手は何度も止まり、何度も戻ってを繰り返した。
「どういうことなんだ――!?」
「どうした、桑縁」
思わず漏らした声が只事ではないと察し、明超が駆け寄った。桑縁は「待って」と小さく言うと、扉の向こうに飛び出して、光の下で内容をもう一度確認する。
「おかしい……これは、僕の書いた観測記録じゃない……! どういうことだ!?」
驚いたことに、桑縁が書いていた記録の一部が、全く記憶の無い、別の記録に差し替えられているのだ。焦って何度も確認しているうちに、紙を捲る指に痛みが走った。
「あ痛っ……!」
指先に滲む血を見た桑縁は、愕然とその場に立ち尽くす。
「おい、大丈夫なのか……? 顔が真っ青だぞ」
桑縁が落とした冊子を拾い上げ、心配そうに明超が覗き込む。桑縁は未だ衝撃から立ち直ることができず、明超にやっとの思いで視線だけ向けた。
「分かった……」
「何が?」
震える手をなんとか押さえ、桑縁は冊子の側面を明超に見せる。
「僕が天
「何のためにそんなことをするんだ?」
「それは、まだ……。でも、ここまでするのは、何かしらの意味があるのだと思います」
驚きの方が大きすぎて、すぐに頭が働かない。汗水たらして真面目に書いた記録が、別の誰かが書いた記録にすり替わってしまったのだから。
初めに桑縁が書閣を調べようとしたのは、あのとき置かれていた観測記録に何か意味があったのか、それを調べたいと思った。一番最初にこの冊子を取ったのは、それが一番の目的だったわけではなく――単に自分が追い出されたあいだ、誰が観測帳をつけているのか気になったからだ。しかし思いがけず別の問題を発見してしまったことで、頭がぐちゃぐちゃになって混乱してしまった。
「なら、正しい観測記録はもう存在しないのか?」
「僕が個人的に家でつけた記録なら、あります」
桑縁は迷った。何をいま、すべきなのかということを。もしも……いや、ほぼ確実に過去の記録も差し替えられている可能性がある。しかし、それを一つ一つ探し出し、差異を確認していくのか?
仮に差し替えられたとして、その意味を見つけ出すことは可能なのか、どれほど時間をかければ見つけられるのか。果たしてそれは効率の良い方法なのか?
「桑縁、西廂房を歩いている奴がいる。じきにこちらに向かってくるはずだ。決断をするなら急げ」
紫星殿へ近づく足音を感じたのか、明超が低い声で囁いた。切羽詰まった口調ではないから、おそらくまだ余裕はあるはずだ。
「……っ!」
覚悟を決めた瞬間に頭に浮かんでいたモヤモヤは全て霧散した。頭の中にあった黒い霧が晴れ、その中から一筋の答えを選び出す。桑縁は書棚に駆け寄ると何冊か冊子の表紙を見定め、そして明超に駆け寄った。
「すみません、行きましょう!」
「何も持たなくてよかったのか?」
西廂房と反対側に速足で歩きながら、桑縁は首を振る。
「万が一にも観測帳がなくなっていることに気づかれたら、それこそ大ごとです。大事なことは頭にたたき込みましたので、いったんはそれで十分です」
「分かった。行きと同じように壁を飛び越えるからしっかり捕まっているんだぞ」
「あ……! まってください!」
明超が桑縁を抱えようとしたときだ。視界に入ったものに気づいて、桑縁は明超の腕を引いた。霊台の下に見える人影を指差して、明超に意志を示す。
指差した先にいるのは従者を連れた身なりのいい男――第三皇子の永王だ。そしてもう一人は――。
(
完全に油断していた。一番会いたくなかった人物を見てしまい、桑縁の足は震えた。
「おい、大丈夫か? 真っ青じゃないか」
心配そうに覗き込む明超に、なんとかうなずき返すも足が竦んで動かない。
「あいつらが何を話しているのか、知りたいんだろ? いいよ。俺が調べてくるから、そこの茂みの中で待ってな。……見つかるんじゃないぞ」
言うや否や桑縁を
「はあ……」
しばらく深呼吸をして、
「誰かいるのかね」
背後から聞こえた声に桑縁は息が止まりそうになった。がちがちになりながら振り返ると、そこには見慣れた人物がいる。
「李司天
「おや、桑縁じゃないか。暫くは内廷勤めになると聞いていたけれど……」
多少の驚きを見せながらも、李司天
が、なんと理由をでっち上げたらいいものか。目を泳がせながら理由を探していると、李司天
「
その言葉に驚いて、桑縁は李司天
*
明超のことは気になるが、いまここで『連れがいる』とも言いづらい。きっと彼ならば大丈夫、今はそう信じるより他にない。手を引かれるままに、入ってきた門とは別の門へと歩みを進める。
(なんだか、懐かしいな……)
既に五十を超えている李司天
「あの……どうして何も聞かないんですか?」
「話したいことがあれば、話しなさい。言いたくなければ、何も聞かないよ」
彼の声音は穏やかで優しく、いつもと同じはずなのに、なんだかとても心が安らいだ。
「そうそう」
李司天
「気を付けなさい。君が本を届けに来てくれた日、
「!」
驚いて桑縁は声が出なかった。李司天
「大丈夫。あの日は人も少なかったし、私も君のことは話していない。ただ、どこで知られるか分からないから……いや、勘づいている可能性もある。だから十分に気を付けるんだよ」
ここまで李司天
「どうして、助けてくださったんですか?」
「どうしてだろうね。君の真面目さと真っ直ぐさが羨ましかったから、かな」
李司天
「私は君のお爺様が
いまは恥ずかしくてそんなこと、とても言えやしないよ、と彼はまた笑った。
「だから、当時は真面目に職務を果たしていたとは言えなかったし、君のお爺様を困らせてしまったこともあるかもしれない。……でも、君のお爺様が……秦司天監が亡くなったときは本当に後悔したんだ。私は、彼のことが眩しくて羨ましくて、妬ましくて……でも本当に憧れていたんだとようやく気づいたんだ。その彼が、あんな亡くなりかたをしてしまった。どうして生きているうちに、もっと彼と話をしなかったのだろう、もっと真面目に仕事をすべきだった」
以前より祖父の話をしてくれることがあった彼だったが、そのような思いを秘めていたなど、露ほども知らなかった。彼の口から溢れ出る言葉の一つ一つが、本当は桑縁ではなく祖父への謝罪であるのだと、伝わってくる。桑縁にできることは、彼が心の内を気が済むまで語らせるだけ。黙ったまま、静かに李司天
「……君の真っすぐで勤勉なところは、お爺様にとても良く似ている。だからかな、なんだかほうっておけないんだ。すまないね、君にこんなことを話してしまって」
「いいえ、お爺様の最期は僕にとっても忘れられない出来事でした。李司天
この言葉は本当だ。祖父のことを知っている彼が、祖父のことをどう思ってくれているか。それが後悔だったとしても、桑縁は嬉しかった。
「さあ。これから門衛を呼びつけるから、その隙に外に出るといい」
李司天
「大丈夫かな……」
心配のあまり彼の姿を目で追ってしまう。
「心配ならさっさと門を通ることだ」
いつの間にか隣に立っていた明超に、桑縁は驚いた。
「天
「お前が移動を始めた頃に、俺も戻ってきたんだよ。せっかく爺さんが、お前のために門衛を除けてくれたんだ。急いで外に出ようぜ」
彼の言うことももっともだ。桑縁はうなずくと天文台の城門へと向かう。明超もあとにつづき、すぐに二人とも門の外へと出ることができた。
外には豪華な馬車が停めてある。御者台の上にいつぞや桑縁を弾きかけた輿についていた従者がいるのを見留め、桑縁は驚いて明超の後ろに隠れた。どうやら永王を待つのに疲れ、ウトウトしているようだ。
(あの日、爆走してきた輿の中にいたのは……三殿下だったんだ……)
あのときは、輿が誰のものか分からなかったし、どうでもいいと思っていた。しかしこうして予想もしないところから輿の主が分かるとは、なんとも不思議なものだ。
「あの第三皇子、とんでもないやつだな」
帰りの道すがら、さきほどの
「とんでもないって?」
「お前はおかしいと思わないのか? なんで第三皇子が天文台に来るのかって」
「……二殿下は幼少の頃から星に興味がおありで、熱心に祖父のもとへ通うほどだったので……」
「……二殿下は何の参考にもならないな。いいか、永王が天文台に来た理由は何だと思う? 懇ろな女といい雰囲気になるために、霊台から星を見せてやりたい、だってさ」
「うわあ、なんですかそれ」
思わず嫌悪を露わにして桑縁は言ってしまった。
「ふざけてるだろ? しかも一人じゃないんだぞ。日ごと順番に呼ぶから良いように宜しくってさ。それでもあいつら、最高の待遇でお迎えしましょう、とか言ってて……呆れ果てて聞く気も失せたし、そこまでしか聞かなかった」
「いえ、変なことを調べていただいてすみませんでした……」
真面目に天文に取り組む皇子もいれば、女を連れ込むために星を観る皇子もいる。分かっているのは……永王はとてつもなく愚かであるということ。
(やっぱり顔がいいだけじゃだめだよな……)
そう納得せざるを得ない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます