第3話:誠の道

 白老人の長い話が終わったあと、桑縁は楽屋の外でむくれている明超を見つけ出した。東角楼の中でもとりわけ人気の高い劇場である水連棚の周りには、様々な屋台や店が道沿いに並んでいる。定番の焼餅しょうへい売りや雑貨店、それに麺を売る店など種類は多種多様だ。明超はそのうちの一つ――氷水を売る店の涼棚りょうほうの下で、砂糖氷雪と甘草氷雪を飲んでいた。


「お待たせしてすみません」


 明超の正面に座ると、給仕を呼びつけ桑縁も同じものを注文する。


「どのみち先を急いでるわけじゃないんだ。気にするな」


 清明といってもまだ肌寒い。それなのに敢えて屋外で氷水など飲もうというのだから、酔狂なものだ。運ばれてきた甘草氷雪を一口飲んだ桑縁は、


「寒っ!」


 と思わず叫び、震えるあまり椅子から転げ落ちてしまった。呆れた顔の明超が桑縁を見下ろしている。


「寒いなら無理して飲まなきゃいいのに……」

「つい天大侠にいさんが飲んでいるのを見たら、頼みたくなったんです。……っていうか、砂糖氷雪も氷水も夏の風物詩ですよね? なんでまだ寒い時期に、わざわざ店を出しているんですか」


 恥ずかしさも相まって思わず愚痴った桑縁の背後から「寒い季節だと雪が手に入りやすいでしょう?」と店主がにこやかに教えてくれた。言われてみれば、確かに相場の価格よりずいぶん安かったと納得する。


「そう、なんですか。確かに涼しいうちなら、簡単に雪を保存することができますよね、ははは……」


 店主の手前、これ以上愚痴ることもできず、注文した以上は食べなければ仕方ない。寒さを堪えながら桑縁は氷水を口に含む。寒くはあるが、すっきりした冷たさが心地よく、不思議と頭が冴えてくるような気がする。砂糖氷雪も慣れてしまえば寒い中で冷たいものを食べるのも……寒いがこれはこれでおいしいかもしれない。


「母さんはしばらく家には戻れませんからね……。しばらくのあいだは僕たちだけでなんとかしないと」

「そうだなあ」


 桑縁を狙う輩が家を狙っていると分かった以上、母をあの家に置いておくことはできない。だから引き続き母のことは、景王の屋敷で預かってもらうことした。水連棚の役者たちには礼を言って帰ってもらったが、徹底的にやられたうえに部下を捕らえられてしまったのだから、再び刺客たちが家を襲撃することは考えにくい。

 仮に襲撃されたとしても、明超がいるならば問題はないはずだ。


「そうだ。昼間は僕が早とちりをしたせいで、色々ご迷惑をおかけしてすみませんでした」


 感情のまま景王に掴みかかってしまったこと。景王にも謝罪したが、幼馴染みとはいえ本来は桑縁のような者が皇子に掴みかかるなど、許されることではない。あのときは頭に血が上って、冷静に考えることができなかった。明超が冷静に話してくれなければ、あのあと景王に殴りかかっていたかもしれない。


「俺は何もしていない。謝って二殿下にも許してもらえたんだろう? なら気にするな」

「でも……」

「二殿下だって、たった一人で自分を育て上げてくれた母君のことを、お前がどれほど大切にしているか理解しているはずだ。そうでなかったら後宮に俺たちを入れたあと、母君の安全など考えるわけがない。母君を保護して水連棚の奴らに協力を仰いだのも、俺たちが普段通り家に戻ったように見せかけたりしたのも、全部理解しての行動なんだから。お前は二殿下に感謝しておけばいいんだよ。俺たちだって二殿下の頼みを聞いてやったんだ、お互い様ってことさ」

「そう、ですかね……」

「生真面目すぎるのがお前のいいところでもあり、悪いところでもある。二殿下も言っていただろう?」


 生真面目すぎることは自分でも理解している。そして、それが良いようにも悪いようにも作用することを。


「そうですね、自分でも良くないとは思っているんですが、気を付けます」

「そこだそこ。駄目だなんて言っていないし、気を付けろとも言っていない。……ただ、悩みすぎも良くないと思っている。困ったときは、まず俺や二殿下、白爺でもいいから信頼のおける誰かに相談しろ」

「はい、ありがとうございます」


 深々と頭を下げた桑縁に、明超は溜め息をつく。


「礼を言うときもお前は堅苦しいな……。まあいいや。気にしすぎるなよ」


 そう言って、わしわしと桑縁の頭をかき混ぜたあと、鳥の巣のようになった頭を見て「よし!」と満足そうにうなずいた。


「そうだ。さっき白先生に聞きましたよ」

「何をだ? どうせロクなことじゃないだろう」


 さあどうでしょう、と桑縁は笑う。実際白老人から聞いた話――明超が話の途中で楽屋から逃げ出した話の続きは、確かに彼にとってはあまり喜ばしくないものだろう。


「天大侠にいさんにいたく惚れ込んだ貴族のお嬢様は、天大侠にいさんたちの泊まる客棧きゃくせんに忍び込んできたそうですね」

「……悪夢だ。二度と思い出したくない」


 眉間に皺が寄っている。よほど嫌だと思っているのか、口元を尖らせ、目は明後日の方向を睨みつけている。そんな彼の表情が可笑しくて、つい話の続きを語りたくなってしまう。


「それからお嬢様が天大侠にいさんの布団の中に入ろうとして、拒絶したら今度は大声で泣きわめいて……客棧きゃくせんは大わらわになったとか」

「それだけじゃない。あの女、客棧きゃくせんの店主を買収していて、泣き声を聞きつけるや否や俺のことを県令に突き出そうとしたんだからな!」

「災難でしたね……」


 しかも、災難はそれだけでは終わらなかった。次の日の朝にはこのことが街中の噂になっていて、明超が貴族の令嬢に夜這いをかけて襲おうとした――ということになっていたらしい。

 濡れ衣もいいところだ。


「あの女、自分の思い通りにならないからって、今度は俺を陥れようとしたんだよ。思い出すだに腹が立つし、二度と顔も見たくない」

「たくさんの女性と浮き名を流した……という伝承は、このことが遠因になっているのかもしれませんね」

「とんだ風評被害だよ! お陰でこっちは女が近寄って来るたびに、あのときのことが思い出されるんだからな。冗談じゃない」

「少なくとも、講史や劇の中でこの話が扱われることがなくて、本当によかったです……」

「全くだよ」


 大きく溜め息をついた明超の表情があまりにも表情豊か過ぎて、思わず桑縁は噴き出してしまった。


「……笑うな」

「ははは……いえ、御免なさい。虚構の部分と虚構の元になった部分の落差が激しすぎて、つい可笑しくて……」

「実際の俺は、小説ほど素晴らしい英雄でも立派な人間でもないだろう? 幻滅したか?」


 急に明超がそんなことを言ったので、桑縁は驚いた。


「どうして幻滅する必要があるんです?」

「だって、お前は義鷹侠士の物語が大好きじゃないか」


 不貞腐れたような明超の声。なんとなく彼の言わんとすることが分かった気がして――桑縁は柔らかく笑った。


「そりゃあ義鷹侠士の物語は大好きですし、物語に登場する義鷹侠士は本当に素晴らしい侠客です。でも、お話と違う部分があるからといって、天大侠にいさんが立派でないことにはならないでしょう?」

「それって何が違うんだ?」

「天大侠にいさんだって物語と寸分違わぬ腕前をお持ちですし、燃え落ちる店の中でさえも、僕を助けるために突入してくれた、勇気を持っています」


 あのときは無茶をしてしまったが、いますぐにも燃え落ちそうな店の中に飛び込むことなど、本来ならば不可能な話。にもかかわらず、彼は迷わず桑縁を追いかけてきてくれた。それがどれほど危険なことであるか、どれほど勇気がいることだったか、桑縁にだって分かっている。

 たとえ物語とそっくり同じでなかったとしても、彼は紛れもなく桑縁が心から憧れた、義侠の勇士 天明超そのものなのだ。


「ええと、だから、つまり……義鷹侠士の物語も当然大好きですが、真っ黒なボサボサ頭で現れた、お菓子を食べるのが好きな天大侠にいさんも一人の人間として、僕は好きだってことです」

「……」


 ぽかんと口をあけた明超は、驚いたように桑縁を見つめている。そのあと、ぱくぱくと何度か口を開いては閉じ、最終的にやっぱり閉じた。なんだか居心地の悪そうな彼の表情に不安を覚える。


「あの……気を悪くされましたか?」

「いや、その……」


 歯切れの悪い、明超の言葉。


「俺も、お前に言いたかったことがある。……後宮で俺が寧賢妃に罰を受けていたときは、事前に報せず、すまなかった」

「それは、もうちゃんと話してもらったことですし、お互い無茶はしないということで済んだことでしょう?」

「そうかもしれない。ただ、俺がお前に、ちゃんと言いたかったんだ。……泣くほど心配されて、正直に言うと……凄く嬉しかったからさ」

「はい?」


 ぷいと明超はそっぽを向く。


「可笑しいだろう。俺は幼い頃から負け知らずだったから、俺のことを心配する奴なんていなかった。自分自身が気づかないほど、ずっとずっとそうだった。お前に死ぬほど心配されて、泣かれて、そのことに初めて気づいたんだ」


 桑縁には、明超の言うことが分かる気がした。桑縁自身も義鷹侠士の物語を見ていて、彼はとても強い人間で、負け知らずであり、最後の最後まで意志を貫くような人物だと思っていたからだ。けれど実際の彼は、滅法強いこと以外はどこにでもいるような、気のいいお調子者の青年だった。


「もしかして……白先生に自分こそが本当の義鷹侠士だと明かさないのも、いまある自分の生き方を優先させたいからですか?」

「お前の言う通りだ。以前の俺は名が知られ過ぎていたし、命を懸けて当たり前のような生活をずっと送っていた。仲間といるのは楽しかったけど、同時に責任も重く苦しかった。死んだあとまで、そんな重荷を背負いたくはないだろう?」


 義鷹侠士らしからぬ――いや、人としてごく当たり前の感情ではないだろうか。誰しも弱音を吐きたいこともある。明超はその立場ゆえに死ぬまでずっと、重荷を背負ったまま生きてきたのだ。桑縁は彼が生きていた頃の姿を知ることは無いが、おそらく本当の彼はいまのように、だらけたりのんびりしたり、誰かを茶化したり……ごく普通の青年と同じようなことがしたかったに違いない。


「偉そうに聞こえるかもしれませんが……天大侠にいさんの気持ちは、僕にも少し分かります。英雄であるからには相応の責務と重荷を背負うもの。全うできたのは仲間と、天大侠にいさんの強い信念があったから。違いますか? それでも、やはり一人の人間としてはそれ以外の……人目を憚らず羽目をはずしてみたり、騒いだりしたかったんですよね」

「その通りなんだが、お前はときどき見てきたようにものを言うな……。察しすぎて怖いくらいだ」

「……あの」


 心配をしたのに、なぜ怖がられなければならないのか。しかし、それでも言いたいことは言わずにはいられないのが桑縁の性格だ。


「冗談だ、冗談。お前のそういう察しがいいところも、俺のことを理解してくれることもありがたいと思ってる」

「なら、怖いついでに忠言と思って聞いてください。……白先生は、現在生きている、たった一人の天大侠にいさんの仲間です。御歳九十を既に超え、生きておられるのが奇跡であるほど稀有な存在です。失ってから後悔しても遅いでしょう。思うところはあると思いますが、お互いのために、自分が誰であるのか本当に秘密にしたままでいいのか、よく考えてください」


 明超は無言で桑縁の話を聞いていた。彼の複雑な表情から読み取ることができるのは、真面目に聞いているような、困っているような……あるいは、追い詰められているような。


「理解は、している。ただ……まだ決心がつかないんだ。お前の言うことはもっともだと思っている」

「早くしろ、とは言いません。よく考えてください」

「分かってる。ちゃんと考えるよ。……多分」


 敢えてつけた『多分』の言葉に桑縁は眉を跳ね上げた。


「本当ですか? なんか疑わしいような……」


 そんな桑縁を見て、慌てて明超が取り繕う。


「本当だ、本当だよ。真剣に受け止めてるって。俺を義鷹侠士だと知ったうえで泣くほど心配してくれるのも、説教たれてくれるのも、甘やかしてくれるのも、お前だけなんだからな」

「天大侠にいさんは僕の家族であり友人です。心配するのは当たり前のこと、そうでしょう?」


 家族というのは言い過ぎかもしれないが、既に明超が我が家に居座るようになってそれなりに日が経っている。後宮にいるあいだは互いに別々であったが、家族と言っても差し支えない程度に明超は桑縁の生活の中に馴染んでしまっているのだ。

 家族で友人。

 何度かその言葉を小さく繰り返したあと、


「…………うん。家族で友人か。悪くないね」


 いつぞや沐浴のときに言った言葉と同じ言葉で、明超は綻んだ。


    * * *


 水連棚に挨拶をして、二人は劇場をあとにした。

 金烏は既に傾きかけており、夜にはほど遠いものの空の色は朱に変わりつつある。大道では演舞や蹴鞠など様々な出し物が人々の注目を集めており、なかには期間限定の興行なども行われているようで、巨大な天幕と即席の舞台が人々の頭越しに見えた。隙間から覗けば楽師の奏でる音色に合わせて、金銀の華やかな装飾を施した踊り子たちが美しく舞い、人々を釘付けにしている。反対に演奏している楽師は控えめな黒い衣装をまとい、手も顔も薄い布で覆っているため、指の細さから辛うじて女性であると分かる程度。華やかな踊り子たちとはまるで正反対だ。


(なんだろう……とても見事な演奏だけど、微かに音律が乱れているような……)


 何とは言えないが、その美しい旋律は微かに桑縁の心に引っ掛かりを残した。


「すごい人気だな」

「きっと西域から旅興行に来ているんでしょうね」

「なるほどなあ。踊りとはいえ、なかなかの動きをしている」


 言い寄る女性に嫌悪感を丸出しにした明超とは思えぬ言葉を受けて、意外そうに桑縁は彼を見た。


「もしかして、ああいうの好きなんですか?」

「馬鹿いえ。俺は動きを褒めただけだ」


 むっとした表情で不機嫌そうに言い捨てた明超は「さっさと行くぞ」と桑縁の腕を引く。


「ああ、引っ張らないでくださいよ……」


 足早な八尺の男の歩幅について行けず、ほとんど小走りで後を追う。この後の行く先は決めていないが、桑縁には立ち寄りたい場所があるのだ。


「天大侠にいさん、ちょっと待ってください」


 明超を呼び止めたのは、曹州漆陶器什物鋪そうしゅうしっとうきじゅうもつほの焼け跡。既に足を止める者もなく、焼けた柱には『近々取り壊すため、みだりに手を触れぬよう』と張り紙がしてあった。


「おい。まさかお前……、また何か調べようっていうのか?」

「違いますよ。ええと……」


 懐から紙を取り出しながら桑縁は辺りを見回す。――先日見かけた、犬の幽鬼を探しているのだ。

 そんな桑縁の呼びかけに答えたのか、犬の鳴き声が聞こえてきた。あっと思ったときには桑縁の膝先に先日見たばかりの幽鬼の犬が尻尾を振って立っている。

 桑縁は犬の前に膝をつき、犬に向かって手招きをする。嬉しそうに喉を鳴らす姿に目を細めながら、桑縁は片手を懐に入れた。


「よしよし。今日はお前に食べ物を持ってきたよ」


 そう言って、取り出した紙の食べ物を犬の前に出して見せる。この犬が既に死んでいること、普通の食べ物を渡せないことを知って、紙の食べ物を用意していたのだ。


『……』


 犬はキョトンとした顔で尻尾を振り続けている。紙の食べ物は鼻先に広げているのだが、なぜか一向に食べる気配はない。


「どうやら腹が空いているんじゃないみたいだな」

「犬なのに!?」


 否、たとえ犬であっても幽鬼であってもだ。鼻先に食べ物があって、意味が分からないという顔をする犬がいるのだろうか?


「おい、なんで俺をそんな目で見るんだよ」

「いえ……」


 なにせ人の姿をした幽鬼ですら、食べる必要があるかも分からないのに、毎日生きた人間より食事は食べるし菓子も食う。それなのに、犬が食べ物を見て何も反応しないというのは心外だ。


「お前、失礼なこと考えてるだろ。……きっとこの犬は食べ物よりももっと執着している何かがあるんだよ。だから、食べ物にあまり反応を見せないんだ」

「もっと執着している何か? 食べ物よりも?」

「色んな人間がいるように、犬もそれぞれってことだ。まあ、犬だから人ほど厄介なことはないだろうが……。食べ物は時間が経てば食べたいと思うかもしれないし、また会いにくればいいだろ」

「それもそうですね」


 明超の言う通りだ。仮にいまは食べずとも、時間がたてば気も変わるかもしれない。そう思い直し、桑縁はいったんこの犬に食べてもらうことは諦め、焼け跡から立ち去ることにした。


「それで、夕餉はどうする? どこかの店で食って帰るか?」


 桑縁は二度ほど目を瞬いて、にっこりと笑みを作った。


「天大侠にいさんは忘れていませんか? うちは貧乏なんですよ?」


 そもそも自らを幽鬼と称するこの男は、その割に人並み以上によく喰らう。夕餉を店で食べる気が無いと見るや、訝しげな顔で桑縁を見た。


「ならどうするんだ?」

「もちろん、恵んでもらうんですよ」


 これは桑縁の処世術なのである。


    * * *


 狭い自宅ではあるが、使用人もおらず自分と母の二人なら丁度いいものだ。

 その母は景王の元で保護されており、桑縁の横には八尺の男が一人。桑縁や明超、それに母の身代わりを務めていた役者たちは既に水連棚に戻ってしまったため、実質この家には明超と桑縁の二人だけということになる。


「凄いな。これ全部お前が作ったのか……?」


 卓子の上に並べられた料理の数々に、明超が感嘆の声をあげた。香ばしい香り漂う土芝丹どしたん[*里芋の埋め焼き]、韮と柳の葉を茹でた柳葉韮りゅうようきゅう、野菜だけを包んだ湯餅とうへい。彩りは緑ばかりだが、味にはそれなりの自信がある。どれも全て、桑縁が腕によりをかけて作ったものだ。


「どうです? まあまなものでしょう?」

「まあまあなんてモンじゃないさ! 大したもんだ!」


 冷めないうちにどうぞ、と促すなり明超は料理に箸を伸ばす。死んでいるくせに食い意地のはったこの男は、「うまい」の一言も言わず一心不乱に桑縁の作った夕餉を口に運んでいる。


「うまい」


 桑縁がようやく料理に箸をつけた頃、明超が言った。口には韮の切れ端をつけたまま、どうやら食べることに夢中で言葉を発することも忘れていたらしい。


「母が厨師として働いていたこともあって、僕も邸店で働きながら科挙の勉強をしていたんです」

「それであんな気軽に、余り物の野菜を分けてもらえたのか」


 家に帰る道すがら、桑縁は邸店に立ち寄り、余り物の野菜などを少しずつ分けてもらった。立ち寄ったのは読書人が集まることで有名な店だ。桑縁はそこで数年間、厨師見習い兼給仕を務めていた。


「もともと母から料理を教わっていたこともあり、ずいぶんと重宝していただきましたから。……ただ、さすがに肉までは分けてもらえなかったので、野菜料理ばかりになってしまいましたけど」

「そんなの、全然構わないさ。母君の料理もおいしかったが、お前の料理も同じくらいおいしい」


 そう言った明超の顔は満ち足りている。よほど料理に満足したとみえる。ぺろりと口の端を舐めたあと、再びまだ残っている皿を手に取った。


「店主さんは住み込みでも構わないと言ってくださったんですが、母を一人にするわけにはいかなかったので、通いにしてもらいました。そのときも余り物の野菜やまかないを持たせてくれたんです。僕は店にやってくる読書人たちの話を聞きながら勉強をして、夜は家の櫓で星明かりを頼りに勉強を続けました」

「蛍じゃないんだな」

蛍窓雪案けいそうせつあん、ですか? 蛍も星も空にいるときは似ているかもしれませんね」


 ふっと頬を緩ませて、格子窓の縁に手をかける。窓越しに見える空には、既に長庚ちょうこうが輝く。完全に暗くなるまで、そう時間はかからないだろう。


「誠は天の道なり。之れを誠にするは、人の道なり[*中庸]」

「なんだ、それ?」


 口元を拭いながら明超が尋ねた。桑縁にとっては当たり前のような言葉であるが……明超には聞きなれぬ言葉かもしれない。


「中庸の一篇にある有名な言葉です。『誠とは天の道理である。誠であろうと努める心こそが、人の道理である』そんな感じの意味でしょうか」

「お前を体現したような言葉だな」

「そうだと嬉しいです。この言葉は僕が祖父から教わった大切な言葉であり、義鷹侠士の言葉の次に、一番好きな言葉ですから」


 義鷹侠士、の言葉を聞いて一瞬明超の表情が引きつる――がすぐにそれは苦笑へと変わり、最後には笑顔になった。


「お前本当に……いや、大したもんだよ」


 誠であろうとすることの難しさを、司天監に任官されてから嫌というほど思い知った。そうしようとするたびに、殴られ、殴られそうになり、命を狙われる――。それでも口を噤むことをしないのは、人の道を歩んでいきたいと願うからだ。


「そんなことありません。いつだって挫けそうになるし、余計なことを言ったせいで逆恨みされたこともありました。それもひとえに、自分に力が足りないせいです。でも、でも、僕なんかより天大侠にいさんのほうが、この言葉の意味を知らずして既に『誠』を成しています。僕には……」


 力があったら。

 義鷹侠士のような力があったのなら。

 何度もそう思ったことか。あるのは口だけ達者で力のない自分自身だけだった。己の不甲斐なさに涙が滲み、思わず俯いた。


「――前にも言っただろう」


 顎を掴まれ、ぐいと持ち上げられる。驚いた桑縁の目に映ったのは、少し不貞腐れている明超の顔だった。


「力ならここに、天明超がいる。だから、もっと俺を利用しろ。……そのために来たんだからな」

「……」


 驚きのあまり声も出ず、呆然と明超の顔を見つめる。お礼を言うべきなのか、憎まれ口を叩くべきなのか。何を言うべきかと迷っていると、先に明超の方が折れて顔を背けてしまった。


「……いいか、二度も言わせるなよ」

「ふふっ、あはは……」


 照れ隠しの言葉が可笑しくて、言葉を言うより先に桑縁は噴き出してしまった。


「お前なあ……俺がせっかくお前のことを思って……」

「分かってます、天大侠にいさんは僕を助けるために来てくれたんですよね。だから、遠慮せずもっと頼れって言っている――ですよね?」

「そうだよ。分かってるくせに笑うなんて、酷い奴だ!」

「はは、御免なさい。言葉を探して迷っているうちに出遅れてしまいました。天大侠にいさんには感謝しています。不器用な僕には、天大侠にいさんをうまく利用することは難しいです。でも天大侠にいさんと一緒なら、できないこともできるって信じています。……あ、そういえば」

「どうした?」


 突然言葉を切った桑縁に明超が尋ねる。


「いえ……天大侠にいさんと一緒にやりたいことがあったんです。僕が命を狙われた理由をずっと考えていたんですが……。天文台に答えがあるような気がするんです」


 明超と初めて会った日、桑縁は李司天冬官正とうかんせいに『春宮秘蔵画』を渡すため、天文台を訪れた。刺客に狙われたのはその日の夜。


「刺客に襲われた日の前後、自分がどのような行動をとったのか一つ一つ考えてみました。おう司天監に殴られたこと、天大侠にいさんに出会ったこと、漏室ろうしつで司天学生たちや丹挈壺正けっこせいの一件に立ち会ったこと。天文台に行って李司天冬官正とうかんせいに会ったこと、それに天文台で卓子の上に置かれた記録帳をぶちまけたこと。資料整理の際に見つかった秘閣の書類を届けたこと……普段と違うことといえば、これくらいです」


 以前も同じようなことを考えたが、そのときは結論が出なかった。しかし、改めて考え、理由として根拠の薄いものを排除したあとに残ったのはごくわずかなものだけ。


「その中で命を狙われる可能性があるものは、他に人の目が介在していない部分……書棚の整理と、天文台で卓子の上にあったものに手を触れてしまったこと」

「そのうえでお前が天文台に行きたいと言うことは、つまり卓子の上に積み上げられていた天文の記録の中に答えがあるから、そう思ったんだな?」

「はい。その、僕一人では気づかれないように天文台に入ることは難しいです。だから、天大侠にいさんに手伝って欲しくて……駄目でしょうか?」


 桑縁がやろうとしていることは『天文台に忍び込みたい』ということ。誠であるように努めると言った矢先に忍び込むのは穏やかではないが、誠であることを努力した結果であれば、きっと天も許してくれるに違いない。


「駄目なわけないさ。でも、そうだなあ……さっきお前は俺のことを笑ったから……」


 明超は視線の端を卓子に向ける。そこには、作り過ぎてしまったからと除けておいた手付かずの湯餅とうへいの椀があった。


「もう一皿、食べてもいいか?」

「……どうぞ」


 上機嫌で席に戻ると、明超は湯餅とうへいの椀を素早く手に取る。普段から良く食べるとはいえ、今日ほどがむしゃらに食べることは無い。


(よっぽど料理が気に入ってくれたのかな……)


 少年のように夢中で湯餅とうへいを頬張る明超の横顔を見ながら、桑縁は目を細めた。


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