第2話:景王

 庚国には三人の皇子がいる。


 一人目は太子――晏王。洒落を好み、気さくで親しみやすく、人心を掴むことに長けている。にもかかわらず勤勉で実直な性格だ。ときには今上の代理で重要な政をこなすこともある。太子となってからというもの、さらにそれは顕著となって、即位の前から既に国民の評判もすこぶる良い。

 何度か遠目で、彼が政務を執り行う様子を目にしたことがあるが、それはまあ立派な仕事ぶりで『太子たるものかくあるべし』を体現したような男であった。それでいて桑縁のような、ギリギリ従八品の官吏まで含め、労いの酒を振る舞ってくれたりもするのだから、人気が高いのも大いうなずける。


 三人目の皇子である永王は、母である寧賢妃が皇帝の寵愛を一番に受けていると、市井では専らの噂である。三人目の皇子はそんな二人のあいだに生まれ、大切に育てられたときく。これもまた噂だが――寧賢妃は没落した貴族の生まれであり、当時は庚央府一番の妓女と評判だった彼女を皇上が見初め、周囲の反対を押し切って妃としたのだとか。妬む者も多ければ、夢見て憧れるものもいる。そして美しいと評判の寧賢妃の皇子だけに、彼の見た目もたいそう瑰麗かいれいである。

 皇城内を歩いていたときに、この皇子の輿と禁門前ですれ違ったことがあるのだが、なんと女を両手に抱いていた。権力があって美しい男は、何をしても許されるものだなあ……としみじみと思ったものだ。


 これら三人の皇子たちは――――――――――。


 否。もう一人、第二皇子の景王がいる。

 彼は皇子でありながら、恐ろしいほど存在感が薄い。見た目の印象も、まるで霧の中に立っているかのように朧げな印象しか残らない。城内においてすら、彼の噂は滅多に上らず、ときには存在すら忘れられることも多いほど。

 噂では、あまりの存在感の薄さを心配した、母である趙淑妃は彼のために化粧道具を一式そろえさせたとかなんとか。

 決して彼が無能なわけではない。しかし他の二人の印象が強すぎるせいなのか、彼の容姿が天才的に印象が薄いせいなのか。とにかく驚くほど話題に上らない男なのだ。


 繁華な御街のひときわ目立つ酒楼『瑛月楼』。

 庚国で一番と名高い酒楼であり一流の女たちが集う場所で、当然ながら常連の顧客は皆金持ちばかりである。影の薄い第二皇子こと景王は、この酒楼の一番の上客で、普段からこの妓楼を我が家のように使っているらしい。『女は大好きだが立場上色々拗れると大変なので火遊びはしない。代わりに女性の育成に力を入れ、未来の嫁のために投資する』のが彼の信条であるそうだ。影が薄いわりに主張はでかい。実際のところは『女は大好きだが、面倒事を恐れた結果、何もできず拗らせまくり、あらぬ方向に突き抜けて才能を開花させてしまった』という経緯が正しいだろう。

 しっかりしているのか、だらしないのかよく分からない男である。


「私のことをずいぶんとおこがってくれたようだが、気は済んだか?」


 紫の公服姿から風雅な貴人の装いに着替えた景王は、桑縁の説明に対し不満げな表情を見せる。彼は影の薄い男と言われることを最も気にしているのだ。

 ……噂が嫌というほど真実であるだけに。


おこがってなどおりません。二殿下の存在感が薄いのはいまに始まったことじゃありませんし」


 しかし彼の経営手腕は見事なもので、瑛月楼において彼が問われ意見した物事はすべからく経営を上向かせ、この場所を庚央府随一の酒楼に押し上げることに一役買っている。特に瑛月楼で働く者たちの教育には男女問わず力を入れており、文字の読み書きや料理はもちろんのこと、楽器や歌の技術に関しても皇城から招待を受ける者が少なからずいるほどだ。

 ただ、三人の皇子の中では一番影が薄いことだけは、やはり否めない。


「あれだけ僕と何度も劇場に通っていたのに、いまのいままで誰一人とて二殿下の正体に気づいた人はいないじゃありませんか。あまつさえ後宮にだって……」

「黙れ!」


 桑縁たちのやり取りを見ていた明超は、既にやや引き気味だ。


「桑縁……こいつは皇子の一人なんだろう? 言いたい放題言っていいのか?」

「他の人の目があるときは駄目ですが、二殿下と僕とは幼馴染みなので」


 当時祖父が提挙ていきょ司天監だったこともあり、景王は祖父に天文の教えを請うたのだ。彼は目立たぬ容姿と裏腹に頭が非常に良く、幼い頃より学に勤しんでいた。やがて星辰の神秘に興味を持った景王は、天文台をたびたび訪れるようになった。そこで、幼い桑縁と出会ったのだ。祖父が亡くなってからも互いの趣味を通じて会うことも多く、こうしていまも腐れ縁が続いている。本来は没落した桑縁など皇子と気軽に口を利ける立場ではないはずなのだが……景王の存在感の薄さも相まって、普段より二人が皇城で話していても、誰一人気に留める者もいない。


「私のことはその辺でいいだろう。それより――彼のことを教えて欲しいな」

「あっ……天大侠にいさんですか?」

「そう。なんでも彼の剣技は義鷹侠士のものによく似ているそうじゃないか」

「それは、どこで誰に聞いたんですか?」


 言葉の意味を瞬時に解し、桑縁は声音を低くする。明超が剣を抜いたのは昨晩ただ一度、謎の刺客が襲ってきたときだけ。先ほどの騒動でも剣を抜く前に桑縁が止めたし、漏室ろうしつの一件でも彼は小石しか使ってはいない。


「昨日の昼間からずっと跡をつけていたのは、あんたの後ろに控えている男だったな」

「えっ!? 昼間から!?」


 驚いて景王を見ると「その通りだ」と笑顔で肯定されてしまった。景王の後ろに控えていた侍衛が進み出て一礼する。


「お前がおう司天監に殴られたと耳にした。それで用心のために高雲を見張りにつけたんだ。そうしたら、漏室ろうしつではお前に殴りかかろうとした司天学生を吹っ飛ばし、あまつさえ十数人いた刺客を一瞬で切り伏せたというじゃないか。……いったい何者なんだ?」

「ええと、彼は」


 果たして、彼は幽鬼で義鷹侠士 天明超なんです――と、言っていいものなのだろうか?

 明超がどう答えるか見守っていると、彼自身も答え方に悩んでいるようだ。義鷹侠士とはなんの関係もないことを主張すべきか、しかし義鷹侠士によく似た剣技であるということまで気づかれているので、完全な無関係を装うのは怪しまれるかもしれない。景王は幼馴染みで気心も知れた仲ではあるが、明超の都合もあるだろう。


「彼は、天明超のお孫さんです。幼い頃から義鷹侠士の剣技を一子相伝で伝えられ、いまでは三代目義鷹侠士 天明超を名乗っています。義鷹侠士の墓で会ったのが縁で友人になりました」

「ちょっと待て。義鷹侠士だって!? 本当か!? いやっ、確かに浮き名を流した女の数は星の数ほどいるとは聞いていたが、それなら彼の孫の一人や二人いてもおかしくはないな」


 いねえよ、と毒づいた明超の脇腹を小突きながら、桑縁はしたり顔でうなずく。


「そう。『あの』義鷹侠士です。……ですよね?」


 さりげなく目くばせをすると、意図に気づいた明超は慌てて「そう、そう」とうなずき返した。


「なるほど、義鷹侠士の孫であれば納得がいく。是非とも祖父上のことを今度じっくりと聞かせてもらいたいものだ。というかずるいな! なんで私にそのことを教えないんだ! 私だって、義鷹侠士の孫と知り合いになりたい!」

「ずるいって……、僕が二殿下にホイホイ会いにいけるわけないでしょう。殿下にとって造作もないことでも、僕は肩身の狭い立場なんですから。……って、ちょっと待って。殴られただけで、なんで見張りまでつける必要があるんですか?」

「それはな。お前を司天監に推したのは、私だからだよ」

「えっ!?」


 寝耳に水の話であったが、確かに状元で及第したとはいえ、いきなり司天監に任官されたのは妙だと思ってはいた。しかし第二皇子が手を回していたというのなら、ある程度納得がいく。それに桑縁たちが投獄されたあと、景王が台獄に現れるまでも早かった。


「まあ座れ。説明はする。せっかく庚央府一の妓楼に来たんだから楽しんでいけ。どうせお前はには縁もないところだろう? 料理もおいしいぞ?」


 明超と顔を見合わせ、二人は再び椅子に腰を下ろす。景王が手を叩くと扉の向こうから華やかな襦裙を纏う女たちが様々な料理を持って入ってきた。


「さて、先ほどの話だが……。桑縁、お前が状元で及第したとき、任官先をどこにするかという話になった。お前は確か翰林天文院を希望していたな」


 翰林天文院とは、司天監と同様に天文を観測する役目を持った官署のことだ。観測方法は司天監と変わらないが、異なっているのは翰林天文院は天子直属の組織であるということ。


「はい。祖父が死に、叔父があのような形で左遷されたあとでは、すぐに司天監に行くのは無理だと思ったんです。それで、科挙を状元で及第すれば翰林天文院ならあるいはと思いまして」


 左遷された叔父が、愚かであっただけで大罪人でなかったことが唯一の救い。それでも一度切れた縁を繋ぐのは難しい――そう思って、いつかは行きたいが、すぐは無理だろうと桑縁は考えていた。


「たまたま霊台郎がしばらくのあいだ空席になっていたので、それを利用してお前をぶち込んだ。理由は薄々気づいていると思うが、現在の司天監では不正が蔓延している。それを調べて欲しいと思っていたんだ」

「あ……もしかして」


 それはまさに桑縁がおう司天監に殴られた理由にほかならない。


「既に心当たりがあるようだな?」

「ええ。……その、僕が書いた観測記録とは全く違う内容を、おう司天監は奏上しました。林保章正ほしょうせいの書いたものも同じです。おそらくは偽の観測結果をあらかじめ用意してあるのでしょう。そのことについて問いただしたところ、殴られました」


 さほど変わらぬ夜空を毎日毎時間、丹念に記録するということは、想像以上に骨の折れること。だから、おう司天監に限らずとも適当なことを書いてお茶を濁したり、都合の悪い、言いづらい結果は口を噤んでしまう者も決して少なくはない。当然、バレたら大変なことになるのだが。


「なるほど、やはりな」


 景王は腕を組む。いくら何でも司天監に入れられたのは運が良すぎると思ってはいたが、思惑があって入れられたのだとは考えつかなかった。


「ですが、先に言ってくれても、よかったんじゃないですか? 知らずに一人で勇み足をした僕は殴られ損です。おまけに運悪く漏室ろうしつでの一件に首を突っ込んだら司天学生に恨まれた上に、殺人の犯人だなんて……」

「それは運が悪かった、とは思うが。殺人の件は妙だと思うぞ」


 それまで黙って二人の話を聞いていた明超が口を挟んだ。


「何がですか?」

「お前に多少なり恨みを持っていた、司天学生とやらが殺された。……刺客の件もあったんだ。お前の身柄を拘束するために誰かが仕組んだんじゃないのか?」

「まさか……」


 そう言いかけて、ありえる話だと気づく。昨晩は明超のお陰で命拾いをした。しかし、もし桑縁が獄舎に入れられたままであれば桑縁を殺そうとした誰かは簡単に桑縁の動きを封じることができるのだ。


「天殿の言うことは正しい。だからこそ、私は急いでお前たちを牢から出すように手配したんだ。命を狙われる心当たりは? やはりおう司天監か?」

「確かにおう司天監には恨まれていますが、彼は凄腕の刺客を雇えるほど大物ではないと思います……もし殺す気なら、殴った時に僕に逃げる余裕など与えずそのまま殴り殺していたでしょう。理由なんかいくらでも後からつけられますし」

「それは一理あるな」


 おう司天監は確かに嫌な奴だが、そこまで権力のある男ではない。いまの地位についたのもそう昔ではないし、どちらかといえば小者の部類に入るだろう。


「ふむ。……御史台ぎょしだいを動かした者を探っていけば糸口が掴めるかもしれないな。そちらは私が調べさせておこう。あまり案ずるな」

「ありがとうございます、二殿下。……ただ、二殿下の危惧する司天監の不正ですが……翰林天文院も加担していると思います」

「どういうことだ?」

「二殿下もご存じではないですか? 天子に奏上する観測結果は、禁門が開いたあと翰林天文院の観測結果と照らし合わせ、双方相違がないか確認をするんです。つまり、いままで問題なくおう司天監の奏上内容が通っていたということ。不正を防ぐために考えられた仕組みが機能していないということは、則ち翰林天文院も、司天監のやっていることを知っているのだと思います」


 翰林天文院と司天監。何故同じような官署が二つあるのかといえば、まさに観測結果の不正を防ぐために他ならない。

 にもかかわらず、鴎司天監の奏上内容は偽りだった。つまり、予め翰林天文院も内容を知らなければ、不正は起こりえないということなのだ。このことが露見すれば関係した者たちは間違いなく処分されるだろう。


「翰林天文院の長はさい梅功ばいこうという男で、真面目であると聞いていたが……言われてみればその通りだ。結局、どちらにお前を入れても、結果は変わらなかったかもしれないな」


 大きく溜め息をついた景王を、桑縁は不満げに見る。


(それにしても……)


 久方ぶりに景王に会ったと思ったら、知らぬうちに掌で転がされていた。幼馴染みではあるが、先に何か言ってくれてもよかったのではないか。


「台獄からはいったん解放されたとはいえ、隙あらば御史台ぎょしだいはお前たちを狙うだろう。ことが落ち着くまで、しばらく司天監の職務は休むように。手続きは私がうまく取り計らっておく。落ち着いたら必ず職務に戻す。もしも連絡を取りたい時は瑛月楼を頼れ」


    *


 司天学生の件はいったん景王に預けることにして、瑛月楼を出てきた桑縁だったが、よもや自分の知らぬうちに、大事に巻き込まれていたとは思いもよらなかった。


「もしも知っていたら、迂闊におう司天監に噛みついたりしなかったのになあ」

「賢いお前が深追いしすぎることを危惧したんだと思うぞ、あの二殿下は」

「僕は……」


 言いかけた桑縁の鼻先に明超の指がつきつけられる。


「義鷹侠士のように正義を貫く。――言うことは立派だが、死んだら元も子もない。死んだあと後悔したって遅いんだぞ」


 桑縁は彼からそんな言葉が出るとは思っていなかったので驚いた。いまの言葉は――まるで彼自身に後悔があるような口ぶりだったからだ。


「自分の行動には自分で責任を持つとは言ったが、お前に欠けてるのは自分の力量を推し量ることと、足りないものを補うこと。それに、自分を過信しすぎないことだ。変に頭が良いから無茶なことでも平然とやろうとする。危なっかしくて見てられん」

「自分でも無謀なことをしてしまうことは、分かっています。でも……」


 ふわりと何かが頭に載せられる。見あげると少し不貞腐れた顔をした明超が桑縁の頭に手を載せていた。


「いいか。お前に足りないもの、そのうちの一つは力だ。力ならここに、天明超がいる。だから、もっと俺を利用しろ。……そのために来たんだからな」

「……天大侠にいさん


 慌てて顔を背けたのは、照れ隠しだったのだろうか。


「何でもない。そういえばずいぶんとあの二殿下と仲がいいんだな。幼馴染みったって子供の頃の話だろう? その割にはずいぶん腹を割って話せるように思えたが……」

「ああ、僕と二殿下は、義鷹侠士の同志なんです」

「はぁ!?」

「祖父の影響ですっかり二人とも義鷹侠士の物語に夢中になってしまって……。それで、よく二人で劇場に行ったり、講談師の話を聞きに行ったりしました。小さい頃は義鷹侠士ごっこをする仲でしたね。……僕はだいたい敵か二番手でしたけど」


 祖父が亡くなり、貧しい暮らしになってからは桑縁から彼を誘うようなことは無くなった。大人になるにつれて身分の差を実感したし、なにより趣味に金をかける余裕もなかったのだ。


「祖父が死んだあと叔父に家を奪われ、貧しくなっても二殿下はたびたび僕を劇場に連れ出してくれました。二人で演目の感想について語り合ったり、書肆しょしに本を買いに行ったり……」

「本人だって言わなくてよかったぜ……」

「まあ、幽鬼だなんて言ったら、どういう反応をしたかはちょっと想像つかないですけど。ところで……」


 桑縁は足を止める。実は先ほどから聞きたくてうずうずしていたことがあったのだ。


「浮き名を流した女は数知れないんじゃなかったんですか――!?」


 尋ねた途端、ずっこけた明超が藁の中に頭から突っ込んでしまった。

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