宦官は幽鬼と出会う

第1話:検屍

 明超に起こされたのは、卯正よりもずいぶんあとのことだった。そのとき桑縁は牀榻しょうとうに寝かされていたし、既に朝餉の手伝いや、洗濯なども明超が全て済ませてくれていた。


「本当はもっと寝かせてやりたかったんだが、あの爺のこともあるし、それに瑛月楼のこともあったからな」

「そうでした、瑛月楼に二殿下への取り次ぎを頼まないと……」

「もう頼んで来た」

「え!? いつ!?」

「俺が縮地法を使えるの、知ってるだろう。お前が寝てるあいだに、取り次ぎだけ頼んできたんだよ」


 確かに彼が縮地法を使えることは知っていたが、よもや桑縁が眠っているあいだにそこまでやってくれるとは思ってもいなかった。安堵のあまり倒れるように眠りについたあと、明超は桑縁のためにずいぶん色々なことをやってくれたらしい。


「すみません、何から何まで」

「気にするなよ。……それより、身体はなんともないか」

「はい、眠くないと言えば嘘になりますが、眠ったお陰で頭はずいぶんすっきりしました」

「そうか……それならよかった。ずいぶん色んなことがあったからな。少し心配していた」


 ふっと明超の表情が和らいで爽やかな笑顔が覗く。彼の目の前にいるのが自分ではなく、義鷹侠士の物語に出てくる女性たちであれば、いまの微笑み一つで彼のことを好きになってしまうことだろう。ボンヤリとそんなことを考えながら明超の顔を見ていると、急に顔を覗き込まれて息ができなくなってしまった。


「おい、大丈夫なのか?」

「ふぇ!?」


 我に返り、慌てて大丈夫だからと言おうとするが、動揺のあまりスカスカした言葉しか出てこない。


「顔が赤いぞ。熱でもあるのか?」


 明超の手が桑縁の頬に触れ――体温のない冷たい掌を心地よく感じる。それだけ頬が熱かったのか、死者である彼の手が冷たかったのか。しかし桑縁の心の中は温かいとか冷たいとか、そんなことどうでもよくて、明超の顔が目の前にあって、その瞳が自分を見つめていることで頭がいっぱいだった。


「へ、平気です! その、ちょっと考え事をしていただけで、全く問題ありません!」


 さすがに明超の顔を見てボンヤリしていたなどとは、恥ずかしくて言えたものではない。無理やり声を絞り出し、適当な言葉で『大丈夫だ』と押し切った。

 まずは朝餉を食べろとせかす明超に返事を返し、慌てて枝緑色の袍に着替えると、母の待つ階下へと一気に駆け下りた。


    *


 朝餉を食べ終え、身支度を調えたあとで桑縁は明超と共に水連棚へと向かうことにした。瑛月楼からの連絡は水連棚に言付けるよう、明超が伝えたのだそうだ。

 ならば迷うことはないと、二人で東角楼へ足を向けた。

 通りすがりに火事のあった場所を目で追ってみたが、昨日ほどの野次馬は既になく、いまは時折数人が足を止め、黒炭の山と化した曹州漆陶器什物鋪そうしゅうしっとうきじゅうもつほの跡地を眺める程度。脇には捕吏らしき人影もあり、周りの家々から当時の状況を聞き込んでいるようだった。


「あんなことがあっても、一晩経てば皆、興味を失ってしまうものなんですね」


 火事の跡を横目で見ながら通り過ぎる者も少なく、痛ましい出来事を悲しむ縁者も見当たらない。なんとも無常なものである。


「ん?」


 桑縁は黒炭の山を漁る小さな影に気づいた。ほとんど何も考えずに近寄ってみると、それは一匹の犬だった。野良犬なのか、身体は細く体も汚れている。けれど桑縁に気づいて振り返った犬は、咥えていた黒炭の板切れを口から落とし、二度三度信愛を込めたような鳴き声をあげて桑縁に近寄ってきた。ときめきを覚え、桑縁はその場に屈みこんで犬を手招きすると、嬉しそうに犬は喉を鳴らす。


「わあ、怖がらないんだ。賢いな。ええと……」


 咄嗟に何か持っていないかと体のあちこちを探ってみるが、あいにくと何も持ってはいない。近くに何か屋台が出ていないかときょろきょろと辺りを探していると、明超が隣に屈みこんだ。


「やるなら紙の食べ物にしてやるんだな」

「へ……? それって……」

「冥府に銭を送るなら、紙銭を燃やすだろう? だから食べ物をやりたいなら、食べ物の形の紙を燃やすのがいい」


 遠回しな明超の言葉を反芻して、桑縁は戸惑いながら彼に問う。


「えっと、それってつまり……」

「その犬は俺とおんなじ。幽鬼ってことさ」

「ああ……そういう……」


 愛想がよくて人懐っこいこの犬が。いったいどのような事件に遭遇し、死んでしまったのか。それを考えると胸が締め付けられる。桑縁はもう一度その犬をじっと見つめてから立ち上がった。


    * * *


 東角楼の劇場はどこも大盛況。その中でもひときわ賑やかで人々が列を成しているのが水連棚。その水連棚の人気役者たちが、よもや昨夜黒ずくめの扮装で桑縁の家に押しかけたなど、誰が知るだろうか。

 ましてや……水連棚の座長こと白老人が、人気の演目に登場する天明超の弟分である藩明であり、裏社会で暗躍する白角狐ばっかくこという渾名を持つなど、誰一人知る由もないだろう。


「昨晩は……いえ、今朝は本当にお騒がせしました。座頭の元にご案内します」


 二人を出迎えたのは、水連棚で一番人気の役者――沈青海しんせいかいだ。一番人気というからには、当然彼が最も得意とする役どころは義鷹侠士 天明超である。細身ながら引き締まった体つきと、それでいて知性を感じさせる端正な顔立ち。かつては明超と旅をしたという白老人が選んだだけあって、彼は確かに明超と似た雰囲気を纏っている。彼の着ている稽古用の短褐たんかつ[*短い丈の質素な服]は『義鷹侠士』の衣装とは全く異なる粗雑な作りの服であったが、その姿でさえ彼の輝きは失われることはない。


(この人が本物の義鷹侠士だって言ったら、信じてしまうかもしれないな)


 なんて不謹慎なことも考えてしまう。


「私たち水連棚の役者のほとんどは孤児で、座頭に拾われ育てられました。座頭は私たちが生きてゆけるようにとたくさんのことを教え、居場所を作ってくださいました。どれほど感謝してもし切れません」

「ふうん。あの爺、なかなか立派な心掛けじゃないか」


 青海は明超に目を向け、微笑んだ。


「――かつて座頭も幼い頃に義鷹侠士に救われ育てられたそうです。義鷹侠士と仲間たちに守られた自分にできることは、自分のような孤児を義鷹侠士の代わりに大勢助けること、そして彼らにも義鷹侠士の伝説を語り聞かせ、後世まで伝えていくことが自分の生涯の使命なのだと、いつも仰っていました」


 彼の言葉に明超が困っているのを見透かしたのか、慌てて青海は「すみません、お孫さんにこんなことを話しても困ってしまいますよね」と付け加えた。敢えて自分から切り出すことで、相手に有無を言わせぬようにしているのだ。さすがは役者だ、と桑縁は内心で舌を巻く。


「ですが、座頭が義鷹侠士にもう一度逢いたいと、ずっと思っていたのは本当です。そろそろ上寿じょうじゅ[*百歳]も間近に迫り、いつ何が起きてもおかしくはありません。私たちにできることは、可能な限り座頭の願いに寄り添って差し上げることだけなんです」


 だから、ご迷惑をかけてすみませんがご容赦ください、と青海は言った。明超は彼の話を聞いているあいだ、口を真一文字に引き結んだまま。俯いて歩く彼の目には微かに迷いの光が揺れているように見えた。


「秦公子、ようこそ。それに、天兄も」


 天兄と呼ばれピクリと明超は眉間に皺を寄せる。桑縁はそれを見なかったことにしたが、あれだけ否定されても白老人は彼を天兄と呼ぶことを止める気はないようだ。きっと、彼はまだ信じているのだ。明超が義鷹侠士その人であると。


「それで、わざわざ俺たちを呼びつけた理由は何なんだ? 桑縁が必要としている、と言ったな。はっきり説明してもらおうか」

「なに、騙そうという魂胆ではないのだから、落ち着きなさい。秦公子は昨日帰り、火事に遭遇しましたな?」

「それがどうした」

「お二人はあのあとすぐに曹州漆陶器什物鋪そうしゅうしっとうきじゅうもつほを離れてしまいましたが、火が消え皆が立ち去ったあと、物陰から様子を窺っていた男がいたことは知らなかったでしょう?」


 白老人が声を掛けると、緞子で隠れた向こうから体格の良い役者が、何かを担いでやってきた。縄で体をしっかりと縛られ頭から麻袋を被せられている。無脚の撲頭こそ被ってはいないが、覚えのある丸襟の広袖を身に着けたこの男は、おそらくは宦官に違いない。気が弱いのか、抵抗する様子もなく、担がれたまま時折あわあわと足をばたつかせる。宦官を担いだ役者は桑縁たちの前に男を正座させ、白老人が男の袋を外す。袋の中から現れたのは、案の定とても気の弱そうな男だった。


「ど、どうか、命ばかりはお助けを……」

「誰も取って食いやしねえよ。……俺はな。爺は知らん」


 明超の言葉に安堵し、次の言葉にヒッと声を上げた宦官は、蒼白な顔で震えている。


「場合によっては命を助けてやってもいいぞ。なあ、いいよな?」


 嫌とは言わせぬ口調で明超は白老人の方に視線を向ける。明超に話しかけられたのが嬉しくて堪らない様子の白老人は、勿体つけながら「もちろん。天兄が望むのなら」などと言っている。白老人が頬染め照れていたのと、明らかに明超の眉間にしわが寄ったことは見なかったことにして、桑縁は宦官に注意を向けた。


「答えろ。お前は火事の跡にやってきたそうだが、どうしてだ?」

「い、い、妹を……妹を探していたんです……」

「妹? なんで妹があの場所にいると思ったんだ?」

「そ、それは……」


 急に男が言い淀む。すかさず明超は男の襟を掴み、引き寄せ、そして睨んだ。凄みの利いた低い声音は、普段の彼を知っている桑縁でさえも多少は慄いてしまう。


「天大侠にいさん、待って。僕に任せてもらえませんか」


 慌てて桑縁は明超を止めた。桑縁の申し出に明超は訝し気な表情を見せたが、


「分かった。賢いお前のことだ、何かしら考えがあるんだろう」


 と言って、渋々ながら譲ってくれた。

 桑縁は改めて宦官に向き直る。袖の中から曹州漆陶器什物鋪そうしゅうしっとうきじゅうもつほで見つけた紙を取り出すと、男の前に広げて見せた。


「僕は司天霊台郎の秦桑縁と申します」


 桑縁は襟元から一枚の紙を取り出すと、男に見せる。


「これは、亡くなった女性の右手の甲にあった痣を描いたものです。もしや見覚えはありませんか?」


 紙を見るなり、悲鳴のような男の声が響く。彼の顔は真っ青で、明らかに動揺している。やがてわっと地面に伏せ、彼は泣き出した。

 どうやら桑縁の予想は当たったようだ。


 ――しかし、彼が泣き伏す姿を見ては、良かったとはとても思えない。


 暫く泣き続けようやく落ち着いたあと、男は珊林さんりんと名乗った。


「幼い頃から妹の首には、その形にそっくりの痣があり、ずっと妹は痣を気にしていたのです。大人になっても消えることは無く……妃賓にお仕えするときに目立つからと、彼女はよく白粉で痕を隠していました。ですが、まさかこのような形で妹の消息が分かるなんて……」


    *


 一度は泣き止んだ珊林だったが、妹のことを思い出し再び号泣し始めてしまった。しかし彼の身内が亡くなっているのだから、泣くなとはとても言えない。


「妹さんはおそらく何かしらの事件に巻き込まれたのだと思います。何か心当たりはありませんか?」

「心当たりは……ええ。大いにあります。先日、妹に助けて欲しいと相談されました」


 それでもしばらく泣き続け、ようやく落ち着いた珊林は、目を真っ赤にしながらぽつぽつと語り始めた。幼いころに別々の家に引き取られた珊林と紹玲は、大人になって後宮で再び再会したという。


「紹玲は以前賢妃様にお仕えしておりましたが、つい少し前から縁あって皇后娘々にお仕えすることになったのです。それなのに、三月と経たぬうちにこのようなことになってしまって……」


 聞けば皇后娘々に仕える宮女は、真珠の花鈿かでんをしている者が多いらしい。曰く、珊林も紹玲が娘々に仕えるようになったあとで彼女から聞いたそうだ。


「それで――何を助けてくれって言ったんだ? お前の妹は」


 痺れを切らした明超が割り込んだ。珊林は明超を見るとまたヒイッと声を上げ、慌てて桑縁の背後に隠れてしまった。


(僕を壁代わりにしないで欲しいんだけど……)


 よほど初めの印象が悪かったとみえる。


「い、妹は、紹玲は『大切なものを無くしてしまった。死んでも探せと殴られて、でも見つからない。お金を貸して欲しい』と……。それで、私は用意できるだけのお金を紹玲に渡しました。でも、何をどうするのか、誰に言われたのかは教えてもらえず……」

「それならどうして曹州漆陶器什物鋪そうしゅうしっとうきじゅうもつほに行ったんだ?」

「紹玲と別れたあと、帯に紙が挟まっていることに気づきました。そのときはよく分かっていなかったのですが……次の日、紹玲が戻っていないことを知り、それで……心配で後宮をこっそり抜け出してきたんです」


 珊林はそう言うと、懐から一枚の紙片を取り出して見せた。紙には確かに、『曹州漆陶器什物鋪そうしゅうしっとうきじゅうもつほ』と書いてある。


「まさか、曹州漆陶器什物鋪そうしゅうしっとうきじゅうもつほが燃えているなんて思いもよりませんでした。でも、名前が書いてあった以上何かあるのだろうと……」

「それで、火事の現場の様子を窺っていたってことか」

「はい……」


 そこまで言うと、珊林はがっくりと肩を落として項垂れた。彼の言葉からは、それなりに妹との仲は良かったようであるし、彼女のことを本当に心配していなければ、皇城を出て曹州漆陶器什物鋪そうしゅうしっとうきじゅうもつほまで行ったりしなかっただろう。


「いったいどうして妹は、死ななければならなかったのでしょう。私はその理由を知る術すらないのでしょうか?」

「……」


 桑縁は白老人に向かって振り返る。


「白先生は色々な情報網をお持ちなんですよね。昨日の火事で見つかった遺体はまだ処分されてはいないはず。……どうにかして確認することはできませんか?」

「おい、お前まさか……」


 驚いて口をはさんだのは明超だった。桑縁は迷いなく明超を見、そしてはっきりと言った。


「もう一度死体を調べることができたら、絶対に何か新しいことが分かると思うんです」

「そう言うと思って、既に火事の遺体は手配してありますよ」


 あのとき間髪入れず、にこやかな白老人から飛び出した言葉には驚いた。「だから秦公子が必要としているもの、と言ったでしょう?」と平然とした顔で言ったのは、さすがは裏社会を仕切る白角会ばっかくかいの主、白角狐ばっかくこといったところだろうか。彼は昨日のうちに庚央府に掛け合って、死体を一時的に借りることに成功したようだ。いったいどのような手段を講じたのかは分からない。


    * * *


 桑縁はいま、閉ざされた部屋の前で珊林と並んで木箱に腰かけている。いわゆる――お預けを食らった形である。

 初めから明超と共に死体から手掛かりを探る覚悟だった。そうでなければ、自分からわざわざ『遺体を確認したい』など言うわけがない。白老人のお陰で遺体を見る手はずは整っていたが、しかし明超に絶対に駄目だと断られ、結局部屋の外で彼が出てくるのを待つことになってしまったのだ。ボンヤリと待つ性分でもないため、ボンヤリと待つ性分でもないため、珊林とポツポツ言葉を交わしているうちに、彼が管勾往来国信所かんこうおうらいこくしんしょの職務を務めていることを知ったそんな彼が一人で皇城を飛び出して、燃え落ちた曹州漆陶器什物鋪そうしゅうしっとうきじゅうもつほの様子を窺っていたのだから、やはりよほどの事情があったのだ。


「待たせたな」


 半時辰[*一時間]ほどして明超が部屋から出てきた。あまりいい顔をしていないのは、やはり黒焦げの死体を嫌というほど観察してきたからだろう。


「すみません、天大侠にいさんにばかり嫌なことをさせてしまいました」


 頭を下げた桑縁の額を、人差し指で明超は小突く。指の腹でそのまま頭を押し上げられ、指の向こう側から明超のふて腐れた顔が覗いている。


「俺は別に、慣れたもんだからいいんだよ。お前は違うだろう」


 確かに火事のときは本当に夢中だったし、まだ生きているかもしれないという気持ちもあったので恐れも何もなかったが、黒焦げ……となるとわけが違う。明超が心配する気持ちも分からないでもない。


「それで、お願いしたことは調べていただけましたか?」

「ああ。……まず、部屋にあった遺体は店主と謎の女の、合計二人」

「えっ、もう一人……天大侠にいさんが斬ったあの男は!? もしくは、腕は!?」

「腕は無かったし、死体も無かった。生きていたのか死んでいたのか、あの時は確認する余裕も無かったな。どちらにしても、腕なり死体なり、取り引きして回収したんだろう。一人でどうこうできる雰囲気でもなかったし、白爺の取り引きより早くか……あるいは天秤にかけたのか。どっちにしても大物が背後にいる証拠さ」


 それは必然的に、桑縁を襲った者たちの背後にいる存在は大物だということだ。改めて背筋に冷たいものが流れ落ちる感覚を味わいながら、しかし桑縁は明超に続きを促した。


「初めに検屍の写しを見せてもらったが、ほとんどお前が言った通り。俺が見た印象でもだいたい同じだ。店主の傷は前から一突き、逃げようとしたところを後ろから斬られて、そのままうつ伏せに倒れて死んだ。遺体は燃えたが、床に大量の血の跡が残っていたことからも、間違いはないだろう」

「紹玲さんのほうは?」

「短剣のようなもので腹に一突き。それと背中の傷は長剣。つまり前からと後ろから、別々の刃物を使ったことになる」

「つまり……少なくとも二人以上の人物が、紹玲さんの死に関わっている可能性があるってことですか?」


 たぶんな、と明超は付け加える。


「俺はその道の専門でも何でもないから、正しいかは分からない。それからお前が知りたがっていたこと。左側の歯が一本、欠けていた。骨折は腕と足の一か所ずつ。くっついてないし、多分殺されたときに折られたんだろうな」

「やっぱり……」

「知ってたのか?」

「はい。……あの火事のときに、紹玲さんの顔がひどく腫れていたし、痣もあちこちにあったので。いずれにしても、足を骨折しているのなら彼女は着替えることはできないでしょう。曹州漆陶器什物鋪そうしゅうしっとうきじゅうもつほの様子を考慮するなら、紹玲さんは店に来る前に、既に殺されてたのではないかと思っています」


 なんとも痛ましいことである。

 先ほどから珊林は真っ青な顔のまま、今にも倒れてしまいそうに見える。焦燥した表情で、立っているのもやっとの様子。桑縁は白老人に断って彼を傍の椅子に座らせると、彼のために水を汲んできた。


「妹は……紹玲は、数日前顔を腫らして……いったいどうしたのかと尋ねたら、『殴られて歯が欠けた』と……まさか、そいつらに紹玲は殺されたのでは……」

「無関係とは言えません。顔を殴るほどの粗暴な人物であれば、それ以上の暴行を加える可能性は大いにあるでしょうし、足も腕も骨折すると思います」


 あの店で不自然な女の死体があったときから、おそらく証拠隠滅のために死体をあの場に置いたのだろうとは予測していた。

 店主と、あの店で絵柄つきの陶器を注文した女性の二人が死んだのだ。死体を運んだのも火をつけたのも只者ではない。燃え盛る火の中で気配を殺し、店の中を探っていた桑縁を殺そうとした。――そして、彼らは以前桑縁を襲った刺客とおそらく同じ者たちではないかと明超は言っている。


(きっと何かしら大きなことが絡んでいるんだ。でも、なぜ僕が狙われているのか分からない……)


 それが分かりさえすれば、何かしら今回の件にしろ突破口になるような気がするのだが。


「私が……私があのとき、紹玲を皇城から連れ出していたら……」

「妹さんは逃げたいとは言わなかったんですか?」


 静かに珊林は首を振る。


「妹はまだ後宮に未練があるようで……『これは私が悪かったのよ。この件がうまく行ったら、きっと認めてもらえるから』と言って聞かなくて……」

「……なんか、ろくでなしの男にしがみ付いた女みたいだな……」


 確かにその通りだが身も蓋もない。桑縁は無言で明超の脇腹を思い切り肘で突いてやった。蛙のような呻き声が上がったが、聞こえぬふりで桑縁は珊林に目線を向けた。


「そうだ。あの……これは妹さんに関係するものではありませんか?」

「こ、この特徴的な鳥の絵は! まさか……」


 かぶりつくような勢いで紙に見入っている珊林の様子を窺いながら、桑縁は尋ねる。


「もしかして……妹さんの絵、なんですか?」


 暫しの沈黙。そしてわずかに震えながら、珊林はうなずく。


「ずいぶん独特の感性を持った絵だな」

「絵の腕前だけは子供の頃から変わらずでして……」


 明超がまだ怖いのか、話しかけられた途端に体を跳ね上げて、珊林は桑縁の背後に身を隠す。念のためにと思って店で見つけた紙を見せてみたのだが、あの特徴的な絵のお陰ですぐに彼の妹の物だと気づいてくれて助かった。しかし同時に、それはあの図柄を注文したのが紹玲であり、彼女は曹州漆陶器什物鋪そうしゅうしっとうきじゅうもつほの一件に、少なからず関係していたことになる。死人が二人も出たわけであるし、その場には偽装工作をする刺客の姿もあった。


 あの火事にはもっと大きな秘密が隠されているはずだ。

 だが、そのことについてこれ以上話すのは、妹を喪った珊林が気の毒だと思った。


「それで、珊林さんはこれからどうされるんですか? もし、妹さんを追って曹州漆陶器什物鋪そうしゅうしっとうきじゅうもつほまでやってきたのが知られたら、貴方の身も危ないのでは? どこかに身を隠した方がいいのではないでしょうか」


 しかし、桑縁の言葉に珊林は首を振る。


「いいえ、私はこのまま皇城に戻ります。他にあてもありませんし……。もしも私がどこかで死んだ時は、必ず貴方たちに手掛かりを残せるようにします」

「それって……」


 既に彼は死ぬ覚悟を決めているのだ。生きているのに、既に生きるのを諦めたような彼の言葉。桑縁にはそれがとても辛かった。

 しかし、妹を亡くし、気落ちしている彼にかける言葉など何もない。先ほど初めて会ったばかりの桑縁が、どうして彼に「生きろ」と引き留めることができるだろうか。


「まだ死ぬと決まったわけではありません。皇城に戻るなら、何も見つからなかった、知らなかったふりをしておくのがよいと思います。僕は妹さんを殺した犯人の一味になぜか命を狙われているようなのです。だから、彼らと再びまみえる機会もあるはずですし、何か手掛かりを掴める可能性だってあります。ですからどうか、あまり早まったことはしないでくださいね」


 桑縁が命を狙われていたことに彼は驚いたようだったが、深くは問わずうなずいた。


「私にできることは少ないですが、貴方がたの力になれることがあれば、いつでも仰ってください。喜んで協力します」


 珊林は紹玲の遺体のことを白老人に頼み、そして水連棚をあとにした。というのも、おそらく紹玲の遺体は『紹玲』として処理されないだろうからだ。いまこうして水連棚に彼女の遺体があることも、白角会ばっかくかいの力で一時的に借り受けているだけに過ぎない。おそらくこのあと、遺体は誰とも分からぬ謎の人物として扱われるに違いないのだ――そうでなければ、あの火事の現場に、全く異なる格好で彼女の死体を置いたりはしない。犯人は紹玲という女の存在を消すために、あのような手段をとったのだから。


「帰しちゃってよかったんですか?」

「仕方ないだろう。無理やり引き留められるかよ」


 不貞腐れたような明超の声。桑縁には分かっている。彼は不貞腐れているのではなく、珊林のことを心配しているのだ。


「天大侠にいさんって、案外優しいですよね」

「案外は余計だ」


 口では脅すようなことを言っても、彼は一度も珊林に暴力を振ったりしなかった。最初は明超のことを止めたけれど、明超は桑縁が止めるのを分かっていて、敢えて乱暴な態度をとってみせたのだ。珊林が、桑縁に心を開きやすくなるように。


「あと、案外頭もいいし」

「案外は余計だ」


 年の功というやつなのだろうか。桑縁は様々な書物を暗記して、星図も頭に焼き付けているが、彼のような実際の体験や経験に基づいた行動をとることはできない。同じように誰かの性格を利用したとしても、桑縁が自分を囮にして火事の中に入ったことと、桑縁のために明超が珊林に対して怖い顔をすることでは、全く性質が異なっている。おどけていても、がさつな振りをしていても、彼はいつだって行動の奥でちゃんとその先を見据えて行動しているのだ。


「やっぱり義鷹侠士なんだなあ……」


 思わず零した言葉に明超がピクリと反応する。


「ん? 何だって?」

「何でもないです」

「いま、義鷹侠士って聞こえたが?」

「何でもありません。気のせいです」

「……」


 明超がジロリと桑縁に視線を向けた。何か言おうとして口を開きかけた矢先に――。


「秦公子と天大人をお迎えに参りました」


 どうやら、高雲が迎えにきたようだ。

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