第2話:瑛月楼

 ――高雲から聞いたことだが景王は白角会ばっかくかいと懇意にしており、ときには内々の調査を頼むこともあるそうだ。よくよく考えてみれば、景王は水連棚の常連客であるし、白老人とも面識があるのだから、それくらい驚くようなことでもない。


    *


「受け取らなくてよかったんですか?」


 瑛月楼への道すがら、高雲の用意した馬車の中で桑縁は尋ねた。

 去り際に白老人が明超に何かを差し出した。明超の目がにわかに見開かれたのを見て、桑縁も白老人の掌を見た――それは義鷹侠士が前庚国の皇帝に仕える証として賜ったという、伝説の令牌と、彼の愛剣の一本『飛翔剣』だった。


「天兄にいつか帰そうと思っていたんじゃ」


 かつての前庚国で皇帝の侍衛であった彼は、皇城のいかなる場所も誰にもとがめられず、自由に出入りする権利を与えられていたといい、それがその令牌ということらしい。本では皇帝の寝所に敵が乱入し、絶体絶命の危機を何度か迎える場面があった。そのときも令牌を携えた義鷹侠士が颯爽と現れて何度も皇帝の窮地を救ったものだ。

 桑縁とて何度も何度も、本が擦り切れ暗記するほどには義鷹侠士の物語を読んでいる。空気を読んで言葉にこそ出さなかったのだが、物語に登場した伝説の令牌を目の当たりにして、興奮を抑えきれなかったことは否めない。


 そして剣に至ってはかつて明超が愛用していた二本の名剣のうち、折れて行方不明になっていた剣だった。白老人は苦労して闇取引されていた剣の柄の部分を取り戻し、名匠に依頼してかつての姿と同じように鋳直させたのだという。そこにどれほどの努力と苦労と執念があったのか、想像に難くない。

 それでも、白老人が差し出した義鷹侠士の証ともいえる令牌と剣のいずれも明超は「俺には重すぎる代物だ」と言って頑なに受け取ろうとはしなかった。

 青海たちの白老人に対する想い、そして白老人の明超に対する想いを聞いていただけに、桑縁は余計に驚いた。明超ですら迷う表情を見せていたのに。


「でも、あれでは白先生が気の毒ではありませんか?」


 すかさず明超は御者台にいる高雲との距離を目視で測り、桑縁だけに聞こえる声でぼそりと言った。


「受け取ってどうするんだよ……。老い先短い老人の憂いを、綺麗に拭い去ってやろうっていうのか?」


 切なさと寂しさの籠もった言葉。

 その言葉でなんとなく理解した。明超は、彼の心残りを完全に取りたくはなかったのだ。白老人が長年抱いてきた目的を達成したならば、安堵のあまり冥府に旅立ってしまうかもしれないと考えたのだろう。

 あるいは、まだ決意が固まっていなかったのかもしれない。


「でも、それはちょっと、ずるいんじゃないですか? 自分は死んでいるのに?」

「ほっとけ。死んだ身でそんなもの、どう受け取っていいか分からねえよ。それにあんなモン持ってるのを皇族の奴らに見つかってみろ。絶対に面倒なことになる」


 あんなモン、とは令牌と天翔剣のことだ。頬杖をついたまま、ふんと鼻を鳴らした明超は不貞腐れたように視線を逸らす。桑縁は知っている。図星だから彼は不貞腐れているのだと。

 ただ、面倒なことになるというのは当たっている。ただでさえ常人を超えた明超の強さは、それだけでも人目を引く。伝説の令牌を持ち歩こうものなら、さらに人目を引くことだろう。義鷹侠士の伝説は市井の民のみならず皇族、貴族にも絶大な人気を誇る。救国の士である英雄の子孫を手元に置くことができたなら、それだけで多数の支持を得たも同然だ。とりわけ権力を欲する者にとっては、利用しない手はないと考えるに違いない。


 ……正確には子孫ではないが。

 ともあれ義鷹侠士の作品を愛する景王が、明超を『義鷹侠士の孫』と知ってもそうしないのは、計らずも彼が純粋に義鷹侠士と作品を愛しているからに他ならないのだ。


(しかしまあ……)


 伝説の令牌はまだともかくとして、鋳直したかつての愛剣は……確かに重すぎるなあ……と思わずにはいられない。白老人の義鷹侠士への強烈な思慕が分かる桑縁だからこそ――少しばかり明超に同情してしまうのだ。


    * * *


 桑縁たちは瑛月楼の一室に通された。昨日の部屋とは別の部屋だ。不思議に思ってしげしげと部屋の中の物を観察していると、屏風の向こうから「こっちだ」と声が聞こえてくる。


「昨日と違う部屋なので、罠ではないかと思いましたよ」

「お前は、本当に遠慮しないな……」


 私でなかったら今頃台獄だいごくに逆戻りだぞ、と景王は苦笑した。


「それより、いや、それどころじゃないんです。聞いてください――」


 しかし景王の言葉を完全に無視して桑縁は彼の元に走り寄る。昨晩の出来事を、せめて彼には伝えなければ。


 ――候一星を彗星が犯し、臣下は謀反を企てる。


 古来より天狗星てんこうせいは不吉な星であり、どこを流れるかによって何が起こるのかは変わってくる。桑縁が目撃した天狗星てんこうせいは、その中でも飛び切り不吉なものの一つだったのだ。臣下が謀反を企てる――ここから予想しうることは、そう多くはない。


「なるほど、それは……とても奏上などできぬだろうなあ。朝議で話題にだそうものなら大混乱になるやもしれぬ」


 納得したように景王は酒をあおるとうなずいた。明超は星や皇城のことには疎いため、二人の話に黙って耳を傾けている。


「あまり期待はしていませんが、今朝のおう司天監の奏上はどのような内容だったんですか?」


 暫し「そうだなあ」と景王は考え、静かに首を振る。


「これといって印象に残らない、当たり障りのない内容だったな。……あ、客星がどっかに滞在しているから、ナントカとか言ってたな」


 その言葉を聞いた瞬間、桑縁はカッとなって景王に食ってかかる。


「え! なんですかそれ!? 僕が客星のことを言ったときは無視した上に殴られたのに!?」

「知るか。おおかたお前が言ったものとは違う客星だったのではないか?」

「あっ……」


 景王に言われ、なるほどと思う。同じ客星であったとしても、場所が違えば意味も変わる。だとすると、桑縁があれほど言った客星を無視したのは、おう司天監にとってどうでもいい星だったから。そして今回、客星のことを奏上したのは、彼にとって何かしら意味があるからなのだ。

 ならば、今回の奏上内容もまた嘘っぱちなのではないか。そんな考えがよぎる。胃が痛くなった桑縁に比べ景王は案外動揺もせずゆったりと構えている。


「星辰がそう告げたとて、全てがそうなるという話ではないだろう。このことはいったん我々の中に留め置くとして……お前が犯人だと疑われていた司天学生の三人が殺された件」

「何か進展があったんですか?」


 命を狙われたりなんだりで、すっかりと忘れていた。景王が来てくれなかったら、桑縁たちは今頃まだ台獄にいたかもしれない。


「あるといえばある。ないといえばない」

「どっちなんですか」

「司天学生を拘束していたのは、劉宰相だ。彼はあの日、禁門が開かなかった責を問うために漏室ろうしつまで衛士を引き連れていったのだから当然だ。そして、桑縁。お前を捕らえるように指示を出したのも劉宰相。しかし、宰相含め漏室ろうしつにいた全員がお前を殴ろうとした司天学生を目撃している。よって、この一連の手続きの中におかしな点は何一つなかった」


 言われてみれば確かにそうだ。劉宰相は漏室ろうしつでの一件を全て見ているのだから、不本意ながら桑縁が真っ先に疑われるのも、御史台ぎょしだいが動くのが早かったのも、当然のことと言える。


「なら――司天学生が殺された状況はどうだったんだ? 俺たちは奴らがどこで、どんな状態で殺されたのかも知らないんだ」

「ふむ。それもそうだな。高雲、頼む」


 景王は一歩下がって三人の様子を見守っていた高雲を呼びつけ、当時の状況を説明するように命じた。


漏室ろうしつで酒盛りをして開門を遅らせた司天学生は、いったん都堂に連れていかれ事情説明と厳重に注意を受けました。話によれば当面謹慎することと決まっていたそうです」


 高雲の話によれば、そのあと彼らはそれぞれに自宅へと帰ったが、早朝までのあいだに三人とも殺されてしまったらしい。


「三人とも場所はバラバラですが死亡した時間はそう大差なく、一人は酒楼、一人は水路、もう一人は道の真ん中で、一人で全ての犯行を実行することはかなり難しいと思われます。夜でも比較的人が多かった場所のこともあり、発見は早く――にもかかわらず誰一人犯行を目撃はしていません」

「敢えて犯行方法を言わなかったのは……明らかに殺しと分かる手口だったこと、それから素人の仕業には見えない、と考えていいのか?」


 高雲はわずかに目を見開き「さすがは三代目義鷹侠士、その通りです」と頭を下げた。


「それなら桑縁の命を狙った奴らと同じ一門の可能性が、一段と高くなるな」

「天大侠にいさん、それはさすがに早計過ぎやしませんか?」


 明超の言葉に慌てて桑縁は言葉を挟んだ。腕が立つもの全てが同じ組織に属しているわけでもないだろう。それこそ白角狐ばっかくこの一門だってそれなりに腕が立つはずだ。さらに彼らは桑縁を殺しに来た相手と同じように黒い装束に身を包んでいた。似た実力に似た見た目、などというのは割と多いと思うのだ。


「三人とも司天学生で同じ場所で騒動を起こしてるんだ。しかも殺されたのはその日なんだぞ。お前が狙われたことと、あいつらが殺されたこと、全く関係ない、なんてわけないだろう?」

「そうですけど……」


 皇城内のことはそれなりに知っているつもりだが、さすがに刺客の有無まで知るはずもない。


「何も『そうに違いない』って言ったわけじゃないんだ。可能性が高くなるって話。とはいえ、司天学生が殺された件については、お前が実行することは不可能であることが証明されたんだから、それでいいだろう」

「確かに僕が実行することは不可能かもしれませんが、天大侠にいさんなら縮地……あ痛っ」


 余計なことは言うなとばかりに、明超の手が桑縁の頭上に落ちてきた。今回は本当に痛かったので、続けようとした言葉は驚き途切れてしまった。


『黙ってろ』


 明超の言葉が聞こえた気がした。確かに――敢えて明超が縮地法が使えること、そして頑張れば別々の場所にいる三人を一人で殺すことが可能であると伝えることは、あまり意味のないことだ。明超はそれを分かっていて、桑縁に言わせなかったということ。なので、無意味に話をこじれさせることは無用だと納得して、仕方なく黙ることにした。


「納得いかぬのも無理はない。私とて同じこと。しかし相手が劉宰相というのは……少々面倒なのだ」

「面倒? なんでだ?」

「ああ、天殿は知らないのだな。劉宰相の娘は寧枢密使の長子に嫁いでいる。寧枢密使は永王の叔父であり寧賢妃の兄であり……つまるところ、兄上と私は、あまり彼らとは関係が良くないのだ」


 景王は困ったように溜め息をつき、軽く首を振る。


「でも、皇位を継承するのは太子殿下なんだろう?」


 明超の言葉はもっともだが、だからこそ難しいこともままあるものだ。彼になんと説明すべきか迷っていると、横から高雲が口を開いた。


「そうであっても、同じ皇子だからこそ難しいものなのです。兄弟同士の仲が良かったとしても、臣下がそうとは限りません。自分に利がある存在が天子になれば、おのずと己に利益が還ってくるのですから」

「なるほどなあ、権力ってのは恐ろしいもんだ」


 とみに皇帝ともなれば、庚国一つ全てを掌握できる力であるのだから当然だろう。明超は納得したように頷くと、もう一度景王を見た。


「それより――二殿下にはもう一つ相談がある。曹州漆陶器什物鋪そうしゅうしっとうきじゅうもつほの火事の件で、話しておきたいことがあるんだ」


 明超は景王に、曹州漆陶器什物鋪そうしゅうしっとうきじゅうもつほに纏わること――主に珊林と紹玲のことを掻い摘んで話した。そして、火事の現場に現れた、桑縁を襲った黒衣の男。男の動きは依然桑縁を襲った奴らに似ているということ。

 一通りの話を聞き終えた景王は、心なしか口元に笑みを浮かべている。


曹州漆陶器什物鋪そうしゅうしっとうきじゅうもつほの火事。皇后娘々に仕える宮女の死体。そして宮女が依頼したと思われる謎の器。謎が謎を呼び、なんだか面白いことになってきたではないか」

「面白くありませんよ。由々しいことです」


 思わず景王に桑縁は突っ込んだ。

 人が死んで面白いことなど何もないのだから。

 そんな桑縁に景王は苦笑しながら「分かっている、分かっている」と言い添えた。


「生真面目すぎるのがお前の良いところでもあり、悪いところでもあるぞ。その宮女は、大切なものを無くしてしまった。死んでも探せと殴られた、と言っていたのだったな」

「つまり皇后娘々の大切なもの、ということでしょうか?」

「ちょ、ちょっと! 待ってください!」


 二人の話があまり宜しくない方向に向きかけているのを察して、慌てて桑縁は二人の会話に割り込んだ。


「まず、殴るなら普通拳で殴るでしょう。宮中の女性、しかも高貴な方がそのようなことをするのは少々難しいかと……特に皇后娘々ともなれば、黄金の簪から、お召しになっている服に至るまで相当な重量です。掌で叩くことは可能かもしれませんが、殴るのは無理があると思います」

「そうだな。桑縁の言う通りだ。……そもそも、皇后娘々は『死んでも探せ』などと言うような御方ではないし、ましてや殴るなど到底ありえん話だ」


 急いで組み立てた推論ではあったが、取りあえず景王が納得したので胸を撫でおろす。確証もないうちに変な方向に話が進んでいくことだけは避けておきたい。

 景王は口の端を上げる。


 急いで組み立てた推論ではあったが、とりあえず景王が納得したので胸を撫でおろす。確証もないうちに変な方向に話が進んで行くことだけは避けておきたい。

 景王は口の端を上げる。


「ならば我々の手で調べるしかないようだな」


 そのとき、桑縁は嫌な予感を感じた。この男は、影薄く人畜無害そうに見えて実はとてもタチが悪いのだ。長い付き合いだけに、桑縁は景王の良いところも悪いところもよく知っている――が、明超はそうではない。


「二殿下が後宮にツテを持っているのか?」

「天大侠にいさん、違います。ツテとかではなく……この人の趣味です」

「趣味!?」


 影の薄い第二皇子には、悪癖がある。後宮で暮らしていた頃は、しょっちゅう宮女に声をかけていたのだが、全く相手にされなかった。加冠してからは宦官の振りをして後宮を歩き回っていたのだが、やはり誰にも相手にされることはなかった。これには彼の神経質な性格も災い……ある意味幸いしていたのかもしれない。

 本来なら、ばれたら一大事であるのだが、瑛月楼で彼が育てた妓女や給仕たちの評判が皇上の耳まで届き、後宮の規律徹底や妃賓宮女たちの学力の底上げを条件に内侍を纏める役目に就かせてもらえることになったと聞いている。


「宮女の誰にも相手にされないことが功を奏して、……じゃない、特に瑛月楼の目を瞠る教育態度が評価されて、陛下公認で都都知を務めているんです。あ、もちろん二殿下であることは対外的には秘密ですけど、化粧をしても地味なので誰も二殿下だと気づきませんし、相手にもしません。こう見えて金にも相当煩いので、金銭面・教育面と多方面に優秀だと評判なんだそうです」

「相手にされていないわけではない。私に節度があるだけだ。あと、こう見えては余計だ」

「本当に節度がある人は女性に会いたいがために、宦官の振りをしてまで後宮に行こうとはしませんが」


 とはいえ、女ばかりの後宮に出入りしているのに、何一つ事件の起こらない男というのも大した才能ではある。


「くそっ、露出の多い衣装を着させるぞ!」

「バレそうな服装を選んでどうするんですか、本末転倒でしょう!」

「はいはい、お二方ともいい加減にしてください。日が暮れます」


 最終的には高雲が止めに入ったことにより、景王との言い合いは中断された。明超に至っては途中から呆れ果て、離れた場所で菓子をつまんでいる始末。これでは本末転倒だと慌てて桑縁は話を戻すことにした。


「それで、娘々の宮殿に行って何を調べろと?」


 桑縁の言葉に我に返ると、景王は咳払いをする。


「既に紹玲の行方が分からないことは把握している。お前は紹玲の穴を埋めるために配置された侍女という筋書きだ。もちろん手続きなどは済ませてやるから安心しろ。……娘々の大切な物が何であるか、それに紹玲の身に何が起こったのか、宮女たちにそれとなく聞いてもらいたい」


 果たして男の自分にどこまで可能なのか、甚だ疑問に思う。


「少なくともその情報を知り得るとしたら、二殿下や太子殿下のような方々でしょう? それに、娘々の大切なものと決まったわけでもないですよね?」

「まあ、それも一理あるな」

「………………なら、後宮に行かなくてもいいですよね?」


 したり顔でいそいそと用意を進めていくものだから、つい勢いに飲まれそうになる自分が恨めしい。目的の半分くらいは無駄であることが判明したからには、一刻も早くこの計画を無かったことにしたかった。


「いや。誰かの大切な物の件はいったん脇に置くことにする。しかし、紹玲の情報は同じ宮女や侍女のほうが聞き出しやすいだろう。それに……珊林とやらのことも心配だ。天殿には桑縁のことを見張ってもらいつつ、彼の安全も確認して欲しい」

「……」


 そう言われてしまっては、嫌とは言えない桑縁だった。


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