第3話:後宮・一
普段の見慣れた光景が、これほど違って見えるのは初めてのこと。これから己が飛び込むであろう場所のことを思うと頭が痛い。
景王の馬車に紛れ皇城に入った桑縁たちは、宦官姿の景王と共に娘々の住まう恵鳳殿へと向かっている。もはや引き返せる段階は過ぎ、あとはどうなるか桑縁にも予想がつかない。
「二人は入ったことが無いだろうが、皇后娘々が日々お過ごしになる殿舎は恵鳳殿、私の母である蓉淑妃は
車帷を片手で上げ外の様子を見、景王が言った。彼は宦官の中でも高位の装いをしている。侍女姿の自分を思い出し、桑縁は少し切なくなってしまった。
後宮の侍女の衣装と言われ、真っ先に浮かんだのはヒラヒラした華やかな襦裙と艶やかな化粧だった。それを着ろと言われた暁には、酒楼の窓から飛び降りようかと思ったものだが、幸か不幸か――桑縁に用意された侍女の衣装は円領の長袍で、そこまで普段とは大きく変わらない。髪型さえ我慢すればまだ耐えることができる。生きるか死ぬか、ギリギリの妥協点でどうにか自分を納得させた形だ。
「似合うじゃないか。美しい母君によく似ているぞ」
向かいに座る明超の目が笑っている。肩も震えているし、声を出して笑いたいのを堪えているのが嫌というほど伝わってくる。無脚の
「天
「そう不貞腐れるなよ。俺は褒めているんだ」
「侍女の格好を褒められて喜ぶとでも!? だいたい、どうして僕が侍女で
「どこに八尺の侍女がいるんだよ。バレるに決まっているだろう」
「……」
そんなこと分かっている。分かっているが……一人だけ貧乏くじを引いた気がして納得がいかなかっただけなのだ。
「でもなあ――」
急に明超は意地悪な微笑みを浮かべ、そして桑縁にぐいと近づいた。
『いつものお前も、悪くないと思うぞ?』
桑縁にしか聞こえないよう、耳元に唇を寄せ小さな声で。明超の吐息が耳にかかり、桑縁は驚いてひっくり返りそうになってしまった。慌てて後ずさろうにもここは馬車の中。
「~~~~~~~~っ!!」
「ははは、可愛いな」
真っ赤になって声も出ない桑縁を、腹を抱えて明超が笑っている。
絶対にからかっている!
そう思うと悔しくて地団太を踏みたくなってしまう。
「二人とも、仲のいいところ悪いのだが、馬車の中で暴れてくれるな。外から見たら怪しいだろう」
呆れた景王の声で我に返り、慌てて元の場所に腰を下ろす。いまのはほとんど全部、明超のせいだ。ジロリと彼を一瞥すると、苦笑いをしながら頭を掻いている。
「まあ……なんだ、侍女だと何かのときに動きづらい。お前が思うように動けないときは、俺が影から手を貸してやる。だから、そんなに拗ねるなよ」
気まずい空気を取り繕うようにそう言うと、明超は
「さすがは天殿、どのような武器も扱うことができるのだな」
横から景王が興味津々で見ているが、全くの他人事。後宮に紛れ込むというとんでもない計画を御膳立てした張本人であるにもかかわらず、いい気なものだ。
(他人事だと思って……)
明らかにこの状況を一番楽しんでいる景王を恨めしい目で見ながら、桑縁はまた一つ溜め息をついた。
* * *
皇城には毎日通っているため、最低限のことは理解している。皇城のことについては、まあ多少は分かる。
しかし、後宮のこととなれば話が違う。妃賓が住まう後宮に立ち入ることができるのは宦官や宮女など、ごく一部の者たちだけ――さらに言えば、あろうことか桑縁がいるのは皇后娘々の住まう恵鳳殿だ。男である桑縁が立ち入るなどもってのほか、万に一つでも桑縁が男であるとばれてしまったら、ここと次第によっては死罪を賜ることになるかもしれない。
桑縁が侍女として後宮に潜り込んでから、はや数日が過ぎていった。一緒に後宮に入った明超は恵鳳殿とは別の殿舎に配置されたらしい。身軽な彼は、時おり人目を忍んで桑縁のもとへ連絡を取るためにやってくる。本来なら新人が一人部屋などありえない話だが、景王の計らいで小部屋を桑縁一人で使わせてもらっているため、話をするのに不都合はない。
あとから知ったことだが、彼は宦官の中でもかなり低い階級だった。――なぜそうしたのかは分からないが、おそらく何か理由があるのだろう。
空を仰げば雲一つない清々しい青が広がっている。きっと今夜は星が良く見えるに違いない。
(毎晩夜空を記録していたのにな……)
よもや後宮にぶち込まれたことで日課が途絶えてしまうなど、誰が予想しただろうか。早いところ、目的を達成してここから脱出しなければ――。
「ちょっと
「ひゃ、ひゃい!?
突然背後から声をかけられた桑縁は、驚きのあまり二、三歩飛びのいた。ただ声を掛けられただけならここまで驚かないが、いきなり首根っこを掴まれたのだ。もし男であるとばれたら……などということを考えていたばかりに、『もしやばれたのでは』という恐怖も相まっていっそう警戒してしまった。
桑桑、というのは、ここでの桑縁の偽名だ。安旦はまだ侍女仕事に慣れぬ桑縁の世話役を務めている。男の桑縁よりも一回り体格がよく、侍女の格好ではあるが、姐御肌で負けん気が強く、こうと決めたら譲らない。娘々の信頼もあるし、面倒見もいいのだが、彼女の気迫にはどうしても気後れしてしまう。
「アンタって本当に気が小さいわよね。そんなんじゃ娘々の侍女は務まらないわよ。はい、これアンタのぶん」
そう言って桑縁に差し出したのは、綺麗な手巾に載せられた一本の
「えっと、わ、私のぶんですか?」
「他に誰がいるの。
昭都都知、というのは景王のこと。『昭』は彼の姓をもじったらしいが、全然分からないしどうでもいい。ただ、宦官としての彼の地位がとても高いことだけは間違いはない。彼は桑縁の様子見がてら、時折菓子などを差し入れてくれるようだ。
「ありがとうございます」
恐る恐る
「おいしいです。昭都都知は私たちのような侍女にまで気遣ってくださって、とても優しい方ですね」
「普段キリキリ詰めてるから、帳尻合わせみたいなもんよ。偉いくせに、本当にケチなんだから。この前も妃賓が人気の歩揺や飾りを買い占めたことに、文句を言ってきたらしいわ」
「ははは……」
後宮に来てから聞いた程度だが、宦官としての景王は、恐ろしいほど金の収支に細かく煩く倹約家で、上には有能で重宝されるが下には煙たがられているそうだ。女性との出会いを求め宦官として入ったはずなのに認められるのは仕事ばかり、口うるさいせいで侍女や宮女、妃賓たちにはすこぶる評判が悪い。聞いていると気の毒になってしまう。
「さ、食べたら行くわよ」
「行くって、どこにですか?」
聞き返す桑縁に、安旦は脇に置いていた
「もうそろそろ清明節でしょう? だから娘々が青団を寧賢妃様にお届けしなさいって。私たちは荷物持ちってこと。アンタはこれ持って」
そう言うと桑縁の手に
恵鳳殿を出た桑縁たちは、長く続く塀沿いに列を成しながら、女官たちとともに寧賢妃の殿舎へと向かう。当人が不在なのは、やはり互いの仲はさほどよくないからということだろうか。気にはなるが、さすがに新米にそのような複雑な事情を彼女たちは語らない。
「いいこと? 寧賢妃様はいま、あまり機嫌が良くないらしいのよ……。だから、絶対余計なことはしない、言わない、大人しくしていなさい」
「はい。あの、寧賢妃様に何かあったのでしょうか?」
「何って言うほどじゃないけど……。近頃は皇上から距離を置かれていて、虫の居所が悪いみたい」
「寧賢妃様は、美しい方で評判だと聞いておりますが」
「そりゃあ、お綺麗でいらっしゃるわ。でも、性格が、ねえ……」
「……」
その後の言葉は、言わずとも察せられる。
こっそり安旦が教えてくれたが、寧賢妃はその美しさとは裏腹に、性格のほうは褒められたものではないらしい。とにかく気分屋で、気に入らないことがあれば、物を投げ、すぐに宮女を罵倒する。そのせいで寧賢妃に仕える女官たちは入れ替わりが特別激しく、いびりに堪えかね、夜中に後宮を抜け出して里に帰ってしまった宮女も少なくはないという噂だ。もちろん、それはただの噂であって表向きは『宮女の規律の厳しさに耐えかねて逃げた』などということになっているらしい。
「寧賢妃様は、弱い人間がお好きだから……桑桑は絶対に寧賢妃様と目を合わせたら駄目よ」
あの安旦が、真剣な顔で桑縁に言ったのだから驚くしかない。しかし、寧賢妃の殿舎――芳和殿の宦官や宮女たちは、特別怪我をする者が多いという話を聞いて、安旦が桑縁のことを心配した理由がよく分かった。表向きは人が減ったせいで負担が増えたから怪我人が出た、と寧賢妃は言っているようだが、それが理由でないことは誰から見ても一目瞭然だ。
「隠していても、良い評判も悪い評判も隠し切れないものよね。陛下も思うところがあるからこそ、最近は寧賢妃様の元へ行かないのよ」
だからね、絶対に寧賢妃様の前では頭を下げて一言も語らずに帰るのよ、と安旦はもう一度桑縁に言い聞かせた。
寧賢妃の殿舎――芳和殿の前までやってきた桑縁たちは凍り付いた。門をくぐってすぐのところに一人の宦官が跪いている。その前には、煌びやかな冠をいただき披帛を纏わせた、ひときわ美しい女性が立っている。美しいのは身なりだけではなく顔立ちも美しい。既に加冠を迎えた皇子がいるとは思えぬ若さと美貌。十中八九、この殿舎の主である寧賢妃に違いない。そして彼女の周りには、桑縁たちのような侍女や宮女、それに数人の宦官たちも一緒だ。門前でこのような騒ぎが起きていることにも驚いたが、桑縁がなにより驚いたのは跪いている宦官の顔だった。
(天
そう。寧賢妃の前に跪く宦官は他でもない明超だったのだ。普段のような勇ましい姿ではなく、首を垂れ寧賢妃に許しを請うている。驚き慌てて桑縁は二人の前に駆け出しそうになった――が、動き出す寸前に足元で小石が爆ぜ、ギリギリ思いとどまった。咄嗟に目線で明超を追い、一瞬だけ彼と視線が合う。
どうやら動くな、と言っている。
「連れていきなさい」
寧賢妃の一言で、明超は宦官たちに腕をがっちりと掴まれたまま、いずこかに消えていった。
「さ、行くわよ」
ぶるりと小さく身震いをして、安旦が桑縁の袖を引く。明超のことは心配だが――いまの自分にできることは何も無い。後ろ髪惹かれる思いで、明超が連れていかれた方向を何度も振り返りながら桑縁は安旦の後ろをついて行った。
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