第4話:後宮・二

 それから寧賢妃への挨拶は恙なく終わり、渡すものを渡して桑縁たちは早々に芳和殿をあとにした。しかし、恵鳳殿に戻ったあとも桑縁の頭は明超のことで一杯だ。彼が連れていかれた理由は、厳しい懲罰を与えるためだろうと誰だって分かる。仮に彼が本当に幽鬼であるというのなら、懲罰に耐えうることも可能かもしれないが……。


(そうじゃない、そうじゃないんだ)


 そんなことは関係ない。頭を振って、浮かんだ考えを打ち消した。芳和殿に戻ろうにも、桑縁は皇后付きの侍女という設定であり、勝手に殿舎を離れることは許されぬ身。それでも何度か今すぐ彼の無事を確かめたいと悶々と繰り返しているうちにいつの間にか日は落ち夜になってしまった。


(皇后娘々はそんなこと一度もしたことがないのに……)


 桑縁も侍女とはいえ下っ端であり、間近で顔を見ることはまずないが、尊い身分であるにもかかわらず、娘々は思いのほか宮中の者たちに優しい。もちろん、罰を受けるものなどまずないし、罰を受けるような酷い仕事をするような者もいない。

 宿舎の布団の中でウジウジと悩み続けていた桑縁は、ふと思い立つ。


(そうだ。ここを抜け出すなら、いまがいいんじゃないか?)


 思い立つや否や、桑縁は宿舎の格子戸を押し開けて身を乗り出す。


「あっ……ととと……! うわっ!」


 ……が、自分が全く身軽ではないことを思い出し、体勢を崩してしまった。既に身体の半分以上が窓から出てしまったため、元の位置に身体を戻すこともできない。


「おっと。無茶なことするなよ」


 あわや窓から垂直に落ちた桑縁を抱き留めたのは、明超だった。桑縁は驚き、そのあとすぐに明超を睨みつける。怒りに任せて怒鳴ろうとした桑縁の唇に明超の指が押し当てられた。


「しっ。いくら一人部屋ったって、周りに誰もいないわけじゃない」


 囁いた明超は桑縁を抱えたまま軽やかに駆け上がる。屋根から屋根へと飛び渡り、月明かりの空の下に照らされた皇城の広さに、桑縁は息を飲んだ。白虎門と青龍門とを繋ぐ長い路。雄大に構える光慶殿。並び立つ鐘楼、それに皇城全体を囲む堅牢な城郭の輪郭。全て普段から知っているはずなのに鳥の視線から見ると、こうも異なって見えるものなのか。


(凄い! 凄い凄い凄い! 皇城の全体がこんなに見えるなんて……! 霊台の上からだってこんなに遠くまで見通せやしない!)


 いつも見ている光景なのに、初めて見る景色。月光で象られた見知らぬ世界に吸い込まれるように見入ってしまう。途中で「ちゃんと掴んでいないと落ちるぞ」と言われ慌てて明超の襟を掴み直し、地上と天上とを交互に見やる。

 やがて明超は一番高い望楼の上までやってくると、ふわりと屋根に降り立った。足がついたことを確認してから、桑縁をゆっくりと屋根に座らせる。


「昼間は驚かせて悪かったな」

「……僕が、どれだけ心配したと思っているんですか」


 普段と変わりなく話しかけた明超に対し、桑縁は憮然とした表情を向けた。


「そう言うな。でもこれで分かっただろう? 娘々は軽率に罰を与えたりしないし、周りにもそんな奴はいない。つまり紹玲の身体にあった痣の大半は、恵鳳殿ではなく寧賢妃のいる芳和殿側でついたものだ」

「ちょ、ちょっと待ってください!」


 明超の言葉に桑縁は驚いた。なぜなら、彼の言った言葉は……。


「それって、元からわざと寧賢妃から罰を受けて確かめる手はずだったんですか!?」


 しまった、という顔をした明超を見て確信した。

 どうして敢えて下位の宦官であったのか。いまならその意味が理解できる。もし、明超がわざと寧賢妃の怒りが向くようにして、罰を受けさせるように仕向けた場合、下手に品位が高くては躊躇されてしまうかもしれない。しかし下っ端であれば彼女は面白いほど怒りを宦官や宮女たちにぶつけられる。そういうことなのだ。


「手はずを整えたのは二殿下ですから、当然このことはご存じ……いや、最初から二人で相談して決めていたんですね!」

「そう怒らないでくれ。悪かったよ。……初めから娘々と寧賢妃の二人を探るつもりだったんだ。ほら、紹玲は娘々の元で働く前は寧賢妃のところにいただろう? お前はとても杖刑に耐えられる体じゃないし、俺は元から死んでいるからどれだけ打たれても平気だしさ」

「そうじゃありません!」


 怒った桑縁に明超がぎょっとする。


「死んだからどんなことされてもいいなんてわけ、無いじゃないですか! 僕があのとき、何もできなくてどれほど悔しくて、悲しかったと思っているんです! 僕は……僕は……っ」

「お、おい、泣くなよ……」


 言われて気づいた。頬を生暖かいものが滑り落ち、膝を濡らしてゆく。さりとて溢れる感情を抑えることもできずに、桑縁は涙を流すまましゃくりあげた。


「本当に、心配したんですっ……! 僕は何もできなくて、申し訳なくて、悔しくて! ずっとずっとついさっきも、そのことを考えていて、ようやく決意して芳和殿に行こうと……ううっ」


 気づいたら様々な感情が溢れて止まらなくなっていた。怒りはしたが本当のところ、一番怒りたかったのは情けない自分自身に対してだった。


「僕は、天大侠にいさんよりずっと楽な生活をしていて……。あんな酷いことをされているなんて知らなくて……。助けてあげられなくて、御免なさい……」


 ずっと彼に言いたかった、謝罪の言葉が溢れ出る。

 本当はそれだけではない。

 彼なら平気だとか、死んでいるから大丈夫などとか、己の冷たくて言い訳がましい考えに嫌悪を感じていた。彼を心配している、それなのに酷いことばかり考えて、自分を納得させようとしている己が許せなかったのだ。己の浅ましさに気づき、それでとにかく彼の無事を確かめ、謝りたかった。

 だから、明超に怒るのは筋違いであるということも理解している。


「ああ……ああもう、悪かった、悪かった。頼むから許してくれ、この通りだ」


 そんなことを考えていると、明超に抱き寄せられ桑縁は内心驚いた――が、突然のことで何も言葉を返せなかった。子供をあやすように、背に回された手が心地よい鼓動を刻む。幼い頃に、祖父や母がそうしてくれたときのように。彼の手に温かさはないけれど、大きくて優しい。


「頼むから泣かないでくれ。泣かれたら、どうしていいか分からなくなっちまう」


 頭上から聞こえる明超の声は困り果てている。誰かに泣かれることに慣れていないのだ。うろたえながらも懸命に桑縁を宥めようとする、彼の不器用な優しさが面映ゆい。


「もう、泣いてません。……びっくりして涙が引っ込みましたから」

「びっくり?」

「いえ、何でもないです……」


 気まずさと恥ずかしさと、少しばかりの可笑しさを慌てて不機嫌な表情で隠し、桑縁は視線を背けた。


「ならいいんだけど。お前が謝ることなんて、何もないさ。……俺はお前よりずっと強いんだから、当然だろ?」

「でも……」


 明超の言うことは、半分は正しい。明超は強く、桑縁は弱い。彼が言うように同じ罰でもひ弱な自分が杖刑を受けようものなら……程度によっては命を落とすことだってあったかもしれない。

 しかし、桑縁はそれでも言葉を続けた。


「確かに天大侠にいさんは僕よりずっと強いです。ですが、たとえ相手が強かったとしても、誰かにつらいことを押し付けたいとは思いません。友人が痛めつけられているのを、黙って見ているのは嫌です。弱い人間が、それでも誰かを助けたいと思ったらおかしいですか?」

「……」


 急に明超が黙り込んだので、桑縁は彼の顔をまじまじと見つめる。目と目があった瞬間に、弾かれるように明超が顔を背けた。


「……ない」

「はい?」

「おかしく、ない……。多分……」


 妙に歯切れの悪い明超の言葉。そっぽを向いてはいるが、彼がなんだか困っているような、迷っているような……そんなふうに見えた。


「あの、天大侠にいさん?」

「……なんでも、ない」


 ボソボソと口ごもりながら言った、明超の言葉が耳に残った。


    *


 それから二人でしばらく夜空を見上げながら、情報を交換した。桑縁は恵鳳殿のこと、娘々のこと。明超は寧賢妃のことや宦官仲間から聞いた情報や、他愛のない出来事など……有用なものもあれば、関係のないことまで様々だ。


「珊林には会えた。芳和殿の管轄じゃないが、俺たちに協力してくれるそうだ。……昼間、宦官たちに連れて行かれて懲罰を受けたときも、あいつが何かと手を回してくれたお陰で助かったよ」

「そうですか……」


 内緒にされていたことは腹立たしいが、珊林と再会できたことは喜ばしい。


「それで、怪我のほうは本当に大丈夫なんですか?」

「問題ない。治そうと思えばすぐ治せるが、怪しまれるからそのままにしてるんだ。既に二殿下も確認して、念のため証拠として記録に残してもらっている」

「じゃあ、紹玲さんが娘々のもとにやってきたのは、寧賢妃から受けた怪我が原因だったんですか?」

「そこなんだよなぁ」


 なぜか明超は首をひねる。


「寧賢妃の性格が悪いことは周知の事実として、粗相をした宮女に対し罰を与えたとして、いちいち移動させたりなんかするか? 言い方は悪いが、たくさんの宮女が働く後宮にとっての宮女一人なんて正直どうでもいい話で、追い出すほうがずっと楽なはずだ」

「そうですね……。確かにその通りです」


 妃賓一人ではなく、それは桑縁とて同じこと。この皇城にあっての頂点は皇帝であり、臣下は国を支える礎である。重要なのは国であり皇帝であって、支える煉瓦はいくらでも替えが利く。立場の低いものならなおさらだ。妃賓ならいざ知らず、宮女一人を妃賓による罰が原因で移動させる、というのは些か妙だ。

 ただ、これは宮女側の立場からであって、妃賓が移動をさせようと動いた場合はまた別だろう。


「例えば寧賢妃様が執拗に彼女に懲罰を加えていた、それを問題視した可能性は?」

「無いとも言い切れない。ただ、俺があそこで見る限り、気分にムラはあるがその程度であって、程度は違えど執拗というほどでもないんだよな。確かに罰は受けさせられたが、それだって痣だらけになったり骨が折れるほどじゃない」

「それも含めて、寧賢妃様の出方を試していたんですか?」


 彼はどれだけ自分の知らぬところで、己の身体を傷つけて寧賢妃から受ける罰の程度を調べていたのか。昼間の一度だけではないことに気づいた桑縁は、明超を睨みつけた。


「違っ……落ち着け! そんなに何度もやったら怪しまれるだろう? 一番大きい罰は今回が初めてで、あとは他の奴らの様子を観察していただけだ」

「一番大きな、ってことは、絶対他にやってるでしょう」

「お前なあ……どの口が言うんだよ。怪しい奴がいたのに、火事の中に突っ込んだ奴が」

「そ、そうですけど……」


 それを言われると桑縁も強く言いづらい。しかし桑縁と明超の行いが明確に異なっているのは――彼が己の身体が傷つくことを承知の上で寧賢妃に罰せられたことだ。


「承諾した二殿下も悪いですが、軽々しく自分の体を傷つけないでください。貴方が幽鬼なのか生きているのか、それは脇に置いて……天大侠にいさんがわざと誰かから傷を受けたり懲罰を受けるのは我慢できません」


 困った顔で明超は桑縁を見ている。彼が困るのも無理はない。そして自分も無茶を言っているのだと理解はしている。


「はぁ……善処する。ただ、絶対の約束はできない。仕方のない時だってあるからな」

「それは、理解しています」


 不意に明超の手が桑縁の頭に触れ、まるで水の中に手を差し入れるように頭をかき混ぜられた。結った髪はすっかりボサボサだ。


「うわっ、何するんですか!」

「ただし、お前も守れ」

「何をですか?」

「お前も自分を囮にしたり、危険なことはするんじゃないぞ」

「善処します」

「……」


 同じ言葉で返した桑縁を、明超が睨む。しかし自分がそう言ったのだから、桑縁だって同じ言葉で孵しても問題はないだろう。


「お前には敵わん」

「そうですか?」

「そういうところだよ」


 呆れたような、諦めたような明超の口調。かつての彼は同じ言葉を仲間たちに言ったのだろうか。


(少なくとも宦官姿で忍び込むことは……多分無かっただろうな)


 自分が侍女であることは不本意だが、いまこうして義鷹侠士と共に同じことを調べている。そう思うと不思議と顔が綻んで胸が熱くなった。


「何笑ってるんだ?」

「いいえ、何でも。……あっ、見てください! 空がこんなに近いなんて……」


 声を弾ませ、桑縁は夜空を指差した。家の櫓から見るよりもずっと高く、さながら天文台から見あげたように空が近い。もっとよく見ようと首を伸ばしていたら、明超に危ないぞと諫められた。


「天大侠にいさんは知っていますか? 夜空は季節によって姿を変えますが、その中において変わらずに在り続ける星も存在します」

「北辰のことか?」


 細められた目に微笑み返し、桑縁は再び空を仰ぐ。


「北辰もです。それから……北辰を中心とした三つの区画は『三垣さんえん』と呼ばれていて、北辰と同じように空を見上げればいつでもその姿を見ることができるんです」

「知らなかったな」

「そりゃあ、普通の人は夜空の星の一つ一つに、決められた場所があるなんて知らないでしょうから。その中の一つである紫微垣しびえんの中には、天皇大帝や五帝内座など、いわゆる天子の居所に纏わる星官が多いんです。それで……」


 きっと難しいことばかり言っているから、面白くないだろうと思って明超の顔を見ると、思いのほか彼は桑縁の語る様子を穏やかに見ていた。


「いえ、小難しいことは止めましょう。こうして二人で夜空を見られただけで、幸せです。願わくば――今度は食事でもしながら、同じ空をゆっくりと見あげたいです」

「同感だな」


 明超が笑う。

 観測帳をつけることはできなかったが、素晴らしい眺めで――二度と見ることのできない場所から星空を見ることができた。眼下に広がる、皇城とその向こうに見える景色の雄大さに胸が一杯だ。


「……天大侠にいさん

「なんだ?」

「僕はまだ、何も調べられていないので。明日からはもう少し紹玲さんについて聞いてみようと思います。幸い面倒を見てくれる人は良い方なので」

「そうか。……だが無理はするな」

「分かってます。天大侠にいさんみたいに僕は強くないですから」

「怒るなって」

「怒ってません」


 明らかに拗ねた声の桑縁に苦笑しながらも、「じゃ、恵鳳殿まで送ってく」と明超は言った。


    * * *


 恵鳳殿に来てから、さらに数日が過ぎた。

 紹玲に関わりのありそうな情報を集め、ときには悟られぬよう話題を誘導して桑縁が得た情報は少なくはない。

 一つは、恵鳳殿での彼女の態度の変遷。恵鳳殿にやってきた彼女と話した宮女によると、彼女は宮女としての有能さを買われ、寧賢妃の後押しで恵鳳殿に入ったらしい。――当然これは、彼女が自ら語った話である。

 しかし、外面は良いが推されるほど有能とは言えず、偉そうな態度が目立つばかりで、ときおり「いまのうちに私についておけば、今後いい思いができるって約束するわ」などと吹聴していたそうだ。その根拠を問うたものの、彼女は「秘密だ」と言って根拠を語ることはなかったようだ。


「そのときは何の冗談だと思ったけど……いま思えば、彼女にはなにか後ろ盾があったのかも」


 紹玲と同室であるという、宮女の金珈きんかと片付けをした際に彼女のことを尋ねたところ、金珈きんかも紹玲のことを好ましく思ってはいなかった。


「なんだか妙に偉そうっていうか……あんまり好きにはなれなかったわ。あの子が来てからやたら物が無くなるし、ここだけの話、彼女が盗んだんじゃないかってちょっと噂になっていたのよね」

「盗んだって……何を盗まれたんです?」

「大したものじゃないんだけどね、簪とか、器とか、小銭とか……。娘々にお出しするための端が消えたときはさすがに大騒ぎになったわよ」

「それって、見つかったんですか?」

「見つからなかったわ。それで紹玲の部屋も探すことになったけど、結局何も見つからず仕舞い。うまいこと逃げたわねって皆で言ってたのよ」


 そこまでしても見つからないのなら、彼女が盗んだわけではないのでは――?


 桑縁はそう思ったが、既に紹玲は亡く憤慨する金珈きんかを宥めるのは簡単なことではない。先の言動から鑑みれば、彼女に対する周りの印象は是非も無しといったところ。

 それでも、兄である珊林にとってはたった一人の妹なのだ。彼がこのような妹の話を耳にしたらさぞ悲しむことだろう。桑縁は彼のことを思うと、悲しくなった。


 ――ただし、彼女が行方不明になる数日間は様子が異なっていたらしい。


 その日は娘々が留守であったため、桑縁を含めた侍女たち全員で殿舎の片付けを行っていた。安旦は彼女の隣の部屋だったこともあり、それとなく尋ねた桑縁に詳しくその日のことを話してくれた。


「なんか……真っ青で震えて何もできない状態だったのよね。いなくなる前の日は特にそれが酷くてさ。偉い頬を腫らしてたしさ。何があったのって皆で聞いたんだけど」

「何かあったんですか?」

「結局話してくれなかったから、分からないのよ。でもただ事じゃない様子で……仕事なんかまともにできない状態だから、宿舎で休んでなさいって休ませたのよね。そうしたらいつの間にか部屋から姿が消えてて……」


 おそらく彼女が珊林に言った「殺される」という件と関係しているのだろう。行方不明になる数日間に何かあったことだけは間違いない。


「紹玲さんの部屋はもう片付けてしまったんですか?」

「違う違う。紹玲の部屋はまだ彼女のいたままよ。もしかしたら戻ってくるかもしれないしね」


 しかし彼女の働きぶりは良いとは言えず『それなら真面目なアンタのほうが助かるわ』と言って安旦は笑った。


「そうだ。もしも犬がきたら悪いんだけど追い払っておいてくれる?」

「犬ですか? 娘々で飼っているとか?」


 桑縁は見たことがないが、犬や猫を飼っている妃賓や皇子たちはいると聞く。少なくとも二殿下は飼っていないそうだ。


「違う違う。妃賓が飼うような上等な奴じゃなくて、汚れた短毛の犬。誰かが隠れて餌をやってるみたいでさ、ときどき入り込んできちゃうのよ。可愛いけど泥まみれで汚いから自由に歩かせるわけにはいかないでしょ? 頼んだわよ」


 頼んだわよ、と安旦は念を押し桑縁の背中を叩いた。


 片付けを終えた桑縁は、菓子のおすそ分けを抱えて宿舎へと戻ってきた。どうやら娘々は太子に会っていたらしく、これは太子から宮女たちへの労いなのだそうだ。娘々だけでなく、太子の評判が噂に違わず確かなものなのであると、侍女になって知ることになるとは思わなかった。


「よう、お帰り」

「うわっ!」


 扉を開け中に入ろうとすると、部屋の中に誰かいる。驚きすぐさま駆け出そうとすると、有無を言わさず腕を掴まれて部屋の中に引き込まれた。恐怖で悲鳴をあげそうになった瞬間、その人物は桑縁の前に姿を現した。


「待て待て、俺だよ。明超だ」


 唇に人差し指をあて『しぃ』と言ったその人物は、紛れもなく明超だ。ようやく目の前の人物の正体を理解した桑縁は、ほっと胸を撫でおろす。


「脅かさないでください、賊でも入ったのかと……」

「入ったところで、お前の部屋には何もないだろう」

「……そうですけど」


 それが部屋に忍び込んだ者の言い草か、と思うと腹が立つ。笑う明超には微塵も悪びれた様子はなく、悪戯に成功した少年のような無邪気ささえあった。


「不貞腐れるなよ。こうして人目を忍んでお前に会いに来たんだぞ」

「言い方……。いえ、よく白昼堂々と入れましたね」

「珊林に協力してもらったんだ。あいつはあれで内侍押班だからな」


 内侍押班というのは、なかなか高い品位の宦官である。景王ほどではないとはいえ、後宮においては明超よりずっと上の立場なのだ。


「ははは……」


 笑ったところで先ほどから二人とも、ずっと立っていたことに気づく。 桑縁は抱えたままだった菓子を彼の前に差し出した。


「食べます? 太子殿下からいただいた菓子ですから、座ってゆっくり食べてください」


 言うや否や、明超の手が菓子の包みに伸ばされる。その動きがあまりにも素早くて桑縁は苦笑した。椅子を明超に勧め、自らも席に着く。


「そのあいだに、僕が聞き込んだことを話します」


 桑縁は他の宮女や安旦から聞いた話を掻いつまんで明超に説明した。彼女が他の宮女たちに話していた意味ありげな会話、それに疾走の少し前に彼女が異常なほど怯えていたこと。


「うん、おいしかった」


 開口一番、満足そうに唇を舐めた明超を見ながら、ちゃんと話を聞いていたのか?という疑問の視線を投げかける。


「ちゃんと聞いてましたか?」

「聞いてた、聞いてたよ。それにしても、紹玲の後ろ盾っていったい何なんだろうな」

「彼女の言い方が本当であれば……少なくとも宮女の生活よりも、良くなるはずだったのでしょう。ただ、その後で真っ青になっていたというのは――その話が何かでふいになってしまった、とか。『殺される』と、彼女が兄の珊林さんに相談していたことから考えると……何かしらの取り引きでもしていたのではないでしょうか」

「ふむ。辻褄が合うな。……実は俺も少し気になることを聞いたんだ」

「気になること、ですか?」


 そうだ、と明超はうなずいた。


「紹玲は犬が好きで、芳和殿に忍び込んだ犬に隠れてよく餌をやっていたらしい」

「あっ、犬の話。実は僕もさっき安旦さんから丁度聞いたところなんです。犬が来たら追い払えって。……もしかしたら紹玲さんに懐いていたのかもしれません。彼女が恵鳳殿に移ったのをきっかけに、犬もこちらに来るようになったのでしょう」


 桑縁の言葉に明超はしばらく考え込んだあと、ようやく口を開いた。


「俺たちで調べられることはこのくらいか。……そろそろ俺たちの後宮調査も終わりかもしれないな」

「そうですね。今夜のうちに二殿下に連絡を取って、そのように計らってもらうのがいいかもしれません」


 格子窓を開け、振り返った明超は「なら夜に俺が二殿下の所に行ってくる」と窓枠に脚をかける。


「菓子ご馳走さん。じゃあな」


 明超の身体が窓の向こうに飛び出した次の瞬間に、彼の姿は消えていた。

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