幽鬼は渣男(ろくでなし)と出会う

第1話:二殿下には敵わない

 次の日、桑縁は後宮をあとにした。流行り病の疑いがあり、緊急措置として後宮を出ることになった、という筋書きだ。さすがに何の前触れもなく突然すぎやしないかとも思ったが、咎められることはなかった。


(もしかしたら皇后娘々は知ってたのかな……)


 さすがに完全に内密で動くことは難しいだろう。となると、景王は娘々にあらかじめこの話を通していたはずだ。


 ――正直に理由を話したかはさておいて。


    * * *


 後宮を出てすぐ迎えの馬車がやってきた。促され乗り込んだ馬車に揺られること二、三刻。降りたところは鮮やかに彩られた優美な楼閣――瑛月楼だった。


「二人ともご苦労だった。天殿にはずいぶんと苦労をかけ、すまなかったな」


 侍女の服から普段の服へと着替えを済ませたあと、桑縁と明超は景王に面会をした。開口一番、景王から発せられた言葉に相手が誰であるかも忘れて桑縁は睨みつけてしまった。


「二殿下……」

「そう睨むな。以前より寧賢妃の噂は私の耳にも入っていたゆえ、天殿に相談したのだ。お前が怒っていることは既に天殿から聞いている。私からもこの通り謝るから、勘弁してやって欲しい」


 景王がいきなり頭を下げ、慌てて桑縁はそれを押しとどめる。いくら幼馴染みと手彼はこの国の第二皇子なのだ。さすがに桑縁とて自分と彼の身分の違いがどれほどあるのか、よく理解している。


「止めてください。二殿下に頭を下げられたら、許さないなんて言えるわけないじゃないですか。そのことは既に納得済みですから、もうあんなこと天大侠にいさんにさせないでくださいよ。……仮にも義鷹侠士の孫なんですからね」

「分かっている、肝に銘じる」


 おどけながら「な?」と桑縁に片目を瞑る景王からは、反省の欠片も見当たらない。景王という人は、昔からこういう人なのだ。

 しかし、こういう人であるからこそ、気兼ねせず言い合えるともいう。


「短期間で後宮を出たり入ったりしていますが、娘々は二殿下の采配で僕たちが来たことをご存じなのですか?」

「まさか。後宮に何人の侍女や宮女がいると思っているのだ? いくら娘々がお優しくとも、殿舎にいる全ての者たちを覚えているわけはない」

「ということは、娘々に隠して侍女の振りをさせたってことですよね!? ばれたら怒られませんか!?」


 流れのままに後宮で働く羽目になってしまったが、冷静になってみて桑縁は青くなった。万が一このことがばれた場合、桑縁は刑罰を受ける羽目になるのではないか?

 流罪や杖刑ならまだ生きる望みはある。だが、もっと重い刑罰であったなら、桑縁などひとたまりもない。そうなればこの世にたった一人、母を残して死んでしまうことになる。


 ――そう考えた瞬間、目の前が真っ暗になった。首筋を流れる汗の冷たさに、とてつもなく愚かなことをしたと、後悔の波に飲まれそうになる。


「案ずるな。兄上からそれとなく、当たり障りなく娘々に話を通してもらっている。お前が見た天狗星てんこうせいのこともあるから、用心の意味も込めてな」

「ほ、本当ですか?」

「本当だ。いくら私だって、幼馴染みの命を危険に晒すような真似などしない。兄上はお前が夜に見たことを、とても真剣に受け止めていた。だからこそ、真意を悟られぬよう娘々に取りなしてくれたのだ」


 その言葉のお陰でなんとか気力を持ち直す。景王の言う『兄上』とは、長子である太子晏王のことだ。晏王と娘々は血のつながった親子である。景王が娘々に言うよりも、晏王が彼女に話した方がきっと効果があるだろう。


「そうですか……太子殿下が……。よかった」


 ようやく首が繋がったような気がして、桑縁はへなへなと床に手をつき、へたりこむ。本当に命がないと思ったのだ。


「兄上もゆくゆくは天子となる御方。ご自分の身の回りも決して安心できるとは言い難い。それは娘々とて同じこと。『どうか母上のことを守って欲しい』と言っていたぞ」

「も、勿体ないお言葉です」


 景王に相談したあの夜の出来事が、よもや太子にまで届いているとは思わなかった。景王の言伝とはいえ太子から直々に言葉を賜って、驚き、恐縮して頭を地面に擦り付けた。


 ようやく気持ちを落ち着けて、桑縁は卓子の上に置かれた湯円たんゆえん[*餡入り白玉みたいなもの]の椀に手を伸ばす。高雲が淹れてくれた茶は既に冷たくなっている。


「ところで……二殿下は寧賢妃が紹玲さんを殺したのだと、お考えなのですか?」


 明超に頼み込んでまで、芳和殿における懲罰の具合を調べたのは、それなりの思惑があってのこと。その理由を考えれば、おのずと紹玲の件に辿り着く。


「そうとまでは言っておらん。ただ何かしら、関係があるとは考えている。だいいち、拳で殴るのは女性らしくないと言ったのは、桑縁お前だぞ」


 そういえばそうだった。しかし、実際のところ寧賢妃は明超に罰を与えたのだから、その前提は崩れるのではないだろうか。


「桑縁。俺の顔を見てみろよ」


 明超に言われ、桑縁は彼の顔を注視する。――幾多の戦いをくぐり抜けた義鷹侠士だが、意外にも傷跡のない綺麗な顔だ。物語の中でも義鷹侠士は滅多に傷を負う描写がなかったこと、それが彼の強さを如実に物語っている。


「あ……!」

「気づいたか?」


 彼の言わんとすることを察して、桑縁は頷く。


「はい。……その、天大侠にいさんの顔には全く傷がありません。寧賢妃の罰を受けたにもかかわらず、です」

「だろ? あいつらバレることを恐れているのか、顔には傷をつけないんだ。まあ聞いた話じゃ、手を上げることもあるらしいんだけどな。それでもやっぱり、手のひらだってよ。俺も杖刑は受けたし他の奴らに蹴られもしたが、殴るような奴はいなかった。まぁ、殴るほど気骨のあるような奴がいなかったんだよな。もしかしたら紹玲を殴ったのは特別な理由があったのかもしれないし、寧賢妃じゃなかったのかもしれない」

「分からないんじゃあ、罰を受け損ってことじゃないですか!」

「そうでもないぞ。実はな……芳和殿の女官と、宦官にも殴られた跡があったんだよ」

「はい!? でも、天大侠にいさんは平気だったんですよね?」


 先ほど聞いた話はいったい何だったのか。寧賢妃も宦官たちも殴っていない、しかし宦官や女官たちには殴られた跡がある。


「少なくとも、芳和殿に関わりのある奴がやったんだろうな。でも、それとなく聞いても誰も言おうとしない。ちょっと話を出せば青くなって逃げ出しちまう」


 微かに……けれど確かに、誰かの影が見え隠れしている。なのにそれが誰であるのか分からない。実にもどかしくて気持ち悪いものだ。


「お二方にはこれを見ていただきたく」


 それまで静かに景王の脇に控えていた高雲が、二人に歩み寄る。どうやら清央が彼に何か伝えたようだ。

 高雲はおもむろに卓子の上に紙を広げ、そして二人に促した。


「これは二殿下がお調べになった、皇后娘々に関係する貴重な品々の一覧です」


 二人で覗き込んでみると、確かに黄金の杯やら銀の皿、宝石の数々や異国の絨毯など……様々な物の名が並んでいる。


「失くすとしたら、どれだと思う?」

「どれだと言われても……」


 貧乏人には黄金や銀の食器など縁のない話。ちょっと上等な酒楼であれば銀の食器くらいは出してくれるかもしれないが。


「自然に失くすものについては分かりません。盗まれそうな価値で言うなら全部貴重ですしどれも当てはまるでしょう」

「全然参考にならんな」


 むっとして景王を見ると、とたんに景王は態度を変えて「頼りにしてるぞ」などと言う。どの口が言うのだと言いたかったが、いまは品物探しに集中したい。


「そうですね……敢えて絞るなら、銀食器、犀角さいかく杯、魔除けの効果がある宝石……などは盗む価値でいうなら多種多様です」

「盗む価値?」

「天大侠にいさんは……じゃない、お爺様が皇帝陛下にお仕えしていたのなら、ご存じではないですか? 銀食器は毒に反応して黒くなるので、高貴な身分の方には欠かせない品物です。同様に犀角さいかくには蠱毒やちん毒を検出して無効化させるといわれているため、大変貴重な代物です。それに翡翠は強力な魔除けの効果があると言い伝えられていますから、呪詛などを恐れる方々にはかなり重宝されると思います」

「ははあ、思い出した。確かに毒見のとき、陛下が使っていたな」


 いまの発言は、まるで彼が皇上の側にいたことがあるような……明超の孫としてかなりギリギリの発言だ。桑縁は景王に気づかれぬよう、明超の脇腹を小突いてたしなめた。


「あとは……そうですね。敢えて盗むとしたらこの世に二つと無いような代物。名前だけで判断はつきませんが、例えば皇帝陛下から贈られた品物であったり、あるいは貴重な宝であったり」

「どれもこれもありそうな話だが、惜しむらくは私でさえも確かめる術がないことだな」


 景王が溜め息をつく。

 つまりは、あれこれ想像したとて何も結論はでないということだ。


「そうだ、二殿下!」


 閃き、桑縁は立ち上がる。


「大事な手掛かりを忘れていました。紹玲さんの絵です!」

「絵? あの下手糞な絵か?」

「ええまあ、個性的というか……芸術的というか……」


 その通りなのだが、曹州漆陶器什物鋪そうしゅうしっとうきじゅうもつほの火事で、服装を変え別人として死んでいた彼女のことを思うと『下手』と言うのは気が引けた。……が、内心では明超と同意見である。個性的を超越して、未知の領域に達した絵なのだ、あれは。


「ともかく! あのとき珊林さんは、紹玲さんの絵を『鳥』って言ったんです! つまり、あの店で彼女は鳥の絵を入れた何かを作らせたかったんだと思います」

「鳥! もしも娘々の物であるならば、それは『鳳凰』の絵であったかもしれぬということか!」

「そういうことです!」


 幼馴染みだけあって、考えていることの伝達が早い。


「お待ちください。鳳凰の描かれたものといえば……」


 高雲が青い顔で景王に話しかけた。


「うむ。……あれだな。緑洲ろくしゅうの王が娘々と陛下に贈った『犀角さいかく杯』」


 砂漠の中には美しい湖があり、そこには豊かな国があるという。その国の名が緑洲ろくしゅうであり、緑洲ろくしゅうの王が皇上に謁見した際に、献上された特別な杯なのだそうだ。皇上は龍、皇后は鳳凰。それぞれの姿が美しく描かれた、この世に二つと無い代物。


 ――盗む価値のある物。

 ――この世に二つとないものであること。



 いきなり両方の条件を満たす物が見つかってしまった。


「……いや、待ってください。二殿下」

「どうした、桑縁」

「もしそうなら……紹玲さんが失くしたものが犀角さいかく杯であるというのなら……。僕たちがわざわざ後宮に忍び込む必要は無かったんじゃないですか!? だって、鳥ってことが思い出せさえすれば、二殿下が書き出したあの一覧から見つけることができたでしょう?」


 桑縁は愕然とした。

 わざわざ侍女の格好までして、侍女の仕事までして、紹玲の情報を探ったというのに、実はその前に彼女が『鳥を描いていた』ことにさえ気づくことができたら、わざわざそのようなことをしなくともよかったのだ。


「凄い無駄なことをしたような気がする……」


 がっくりと項垂れ、桑縁は卓子に突っ伏す。徒労感が押し寄せて全てが嫌になる。


「そんなに落ち込むなよ。たとえ目星がついたとしても、紹玲にいったい何があったのか、それを探す必要はあっただろう? それに、紹玲を殺した奴はお前の命を狙っている可能性があるんだからな」

「そういえば、すっかり忘れてました」

「お前はな……。他人のことには懸命になるくせに、自分のことになるとすぐ忘れちまう」


 しっかりしろよ、と明超の指が桑縁の額を小突いた。


「でも、あれから一度も刺客は来なかったんですよ? 火事のときだって、僕が目的だったわけじゃありませんし」

「そりゃ、俺がいるから手が出せないに決まってるだろ」


 言われてみればその通りだ。刺客たちは一度、十数人で襲い掛かったにもかかわらず明超に傷一つつけることもなく敗れ去っている。あの後どうなったかは分からないが、刺客の死体を野ざらしにしたまま桑縁と明超は桑縁の家に向かったのだ。

 黒幕が一撃で倒れた彼らの姿を見たら、どのように思ったことだろうか。


「確かにその通りですね。あの強さを目の当たりにして天大侠にいさんとやりあおうなんて人、いるわけがありません」

「だろ? 相手が強ければ強いほど、相手の強さが分かるってもんだ」


 得意げな顔で明超は胸を張る。……その仕草がそこはかとなく子供っぽい。本人が気づいていないだけに余計可笑しくて、桑縁は口の中で笑いをかみ殺した。


「でも、それだと、結局刺客を放った相手には辿り着けないのではないですか?」

「そこなのだ、そこ。……桑縁。お前のことを狙う者たちがいて、天殿を恐れている。そしてお前は天殿と常に行動をしている。……さて、彼らが次に狙うとしたら誰だと思う?」


 次の瞬間、桑縁は真っ青になって、景王に掴みかかっていた。両手で襟を掴み修羅のような形相で彼を睨みつける。


「まさか、まさか……! 二殿下は僕たちを後宮にやって、わざと母さんを一人にして囮にしたのですか!?」


 女で一つで幼い桑縁を育て上げてくれた母は、桑縁にとって自分よりも大切な存在だ。彼女に何かあろうものなら、たとえ皇子であっても許しはしない。

 慌てた高雲が桑縁を引き剥がそうと桑縁の肩に手をかけたのだが、景王は「よい、平気だ」と言って彼を止める。明超に至っては思いのほか冷静で、高雲のことも、桑縁のことも、止めようとはしなかった。


「落ち着け、桑縁。二殿下はお前の幼馴染みなんだろう? 当然母君にだって世話になっているはずだ。そんな母君を二殿下が囮にすると思うか?」

「で、でも……」


 母が危ない、そう思って頭に血が上ってしまった。しかしよくよく考えれば、幼き日の景王は桑縁の家で寝起きしたこともあるし、母の食事も食べた仲である。そんな彼が母を囮にするとは……よほど血も涙もない男でなければしないはずだ。

 ……と思う。

 多分。


「本当に二殿下が母君を囮にしていたら、俺が二殿下の首を飛ばしてやるから安心しろ」

「は、はい……? はあ……」


 明超の言葉にどう答えたものか分からなかったが、どうにか頭が冷えたことには違いない。


「お前ら、酷いことを言うな。……天殿の言う通り、お前の母君は私の屋敷で保護している。というのも、二人が不在の折に母君が狙われることは明白だったからだ。現にお前たちが水連棚に行っているときだって、留守のあいだは私の部下が絶えず母君の側についていたんだぞ」

「えっ!?」


 驚く桑縁を、呆れた顔の明超が見ている。

 既に明超は、景王が動いていたことに気づいていたようだ。


「お前は、頭は良い割に変な所だけ鈍感だな……」

「そ、そんなこと言われても、僕は命を狙われたことなんて、いままでありませんでしたから……」


 苦い顔で景王に見られたが、落ちぶれ貴族の貧乏人と、この国の第二皇子とでは環境が全く違う。桑縁のことにしろ、母のことにしろ、景王がいち早く気づいたのは、やはり彼が常に命を狙われる存在――皇子であるからなのだ。


「それで、母さんは無事なんですね」

「当然だ。なんなら私の屋敷で張り切って料理を振る舞ってくれている」

「……」


 母も母で、いまの状況を理解していないらしい。


「じゃあ、僕たちの家はいま、無人ということですね?」

「それも違う」

「はい?」


 では家はいったいどのような状態なのか?

 その答えはすぐに明かされた。


「出てきていいぞ」


 景王の合図で隣の部屋から出てきたのは、水連棚の役者だった。その中には沈青海もいる。


「白先生! いったいどうしたんです!?」

「やあ、秦公子。天兄と秦公子が留守のあいだ、うちの役者たちが母君と秦公子のふりをしていたんだよ」


 明超に面差しの似ている青海であれば、彼に成り済ますこともそう難しくはないだろう。その隣には気さくな女性と細身で小柄の、頼りない雰囲気の青年がいる。


(じゃあ隣にいるのが僕ってこと……?)


 他人から見た自分はこうなのか、と思うと少々気落ちする。……しかし、彼らが桑縁不在のあいだ桑縁の振りをしていたということは、彼らは命を懸けて桑縁の代わりを務めてくれていたこと。一言二言文句を言いたかったが、そのことを考えて桑縁は黙ることにした。


「水連棚こと白角会ばっかくかいには常日頃より世話になっている。天殿と桑縁に後宮に行ってもらったのは偶然ではあったのだが、母君を保護する折に囮作戦を思い立ってな。水連棚の面々は元より桑縁とも面識があり、雰囲気を似せるのも容易い。だから彼らの力を借りることにしたのだ」

「確かに白先生をはじめとして水連棚の方々の実力は存じています。刺客たちはそれなりの腕前ですが、大丈夫だったんですか?」

「もちろん彼らだけではなく、私の侍衛たちもいたので問題は無い。天殿が常にいては囮にならぬので、用事があるふりをして囮の母君と囮の桑縁の二人だけにする時間をつくり、刺客が罠にかかるのを待っていた」

「……二殿下は影が薄いというから、大した実力がないのかと思っていたが、大したもんだ。なかなかの策士じゃないか」

「影が薄いは余計だ」


 景王の話を聞いて、感心したように明超が言う。実際、景王は策士なのだ。無能だ存在が薄いなどという世間の評判は、彼が敢えてそうさせている部分もある。

 ただ一つ、他の二人に比べて地味だということだけは、真実であるが。


「もっと褒めて構わないぞ? まあ、そんなわけで無事に資格をおびき寄せ、なんとか一人捕らえることに成功した。いまは目下、拷問中だ」

「うっ……」


 拷問などという言葉がサラリと出てくるのも彼が皇子であるがゆえ。どのような恐ろしいことが行われているのかは想像したくはない。


「ともかく……、母の安全を確保してくださって、ありがとうございます。二殿下が気づいてくださらなかったら、母は危険に晒されていたことでしょう。それから、さっきは掴みかかって申し訳ありませんでした」


 本来は皇子に取るべき行動ではなかった。相手次第では殺されたとて文句は言えない所業であったのだ。


「いや、勿体つけた私の言い方が悪かった。お前が母君をなにより大切にしていると知っていながら……私こそすまなかったな」

「二殿下……」

「私だって母君に求婚したことのある身だぞ? 彼女の身を危険に晒すことなど、できようはずもない」

「……そんなこと、ありましたね」

「五つの頃だがな。しかし、年月を経ても相変わらず母君は美しい」


 この皇子の色ボケは、五歳の頃から変わらない。母の料理と美貌に惚れ込んだ幼い景王は、桑縁の母に求婚したのだ。あのときの出来事は、いまでも母の持ちネタのようになっている。当人が知ることはないだろうが。


「……母さんは、駄目ですからね」


 念には念を入れ、景王にくぎを刺す。


「チッ」

「……」


 どこまでが本気なのか、分からない男である。


    *


「そうだ。これはお前たちが不在のあいだ、私が代わりに記録していた観測帳だ。……代理ですまぬが、勘弁してくれ」


 別れ際、景王が桑縁に観測帳を渡してきた。この観測帳は桑縁が寝床の下にいつも入れてあるものであり、幼い頃からいまも変わらずそうしているから、景王が知っていても不思議ではない。


「まさか、二殿下が自ら――!?」


 それでも、わざわざその観測帳を見つけ出し、桑縁の替わりに景王自ら記録を付けてくれたことに桑縁は驚いた。


「私とてお前の祖父上に観測の仕方を習ったのだぞ。それくらい、造作もないこと」


 ぱらぱらと中身を捲ってみると、不在のあいだの星の配置や動きはしっかり記録されている。太白が何を犯したか。月に近づいたのはどの星か。それらはいま、どの場所にあるか。


「本当だ……全部、合っています!」

「お前、全部覚えてるのか……」


 感動に打ち震える桑縁の横で、明超は驚き半分、困惑半分の表情をしているが、伊達に毎日観測を続けているわけではない。


「二殿下、ありがとうございます!」

「無理を聞いてもらったのだから、当然のこと。……久しぶりにお前の祖父上のことを思い出した。いずれまた、星の話を共にしよう」


 かつて祖父と景王の三人で見あげた夜空を思い出し、桑縁は目頭を熱くした。

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