第5話:星詠み

 家に戻り夕餉を終えたあと、桑縁は明超を誘って櫓の上に登った。

 というのも、明超に渡したいものがあったからだ。彼にはずいぶん迷惑を掛けてしまったし、義理堅いところにも甘えてしまった。せっかくいい店を紹介しようと思っていたのに、自分の突拍子もない行動でその機会をふいにしてしまったのだ。少しくらいは今日助けてもらったことに感謝もしたい。

 桑縁は甘味の入った箱を取り出して、明超の前に広げた。中には棗の饅頭や餡入りの団子などが詰められている。あの火事で一帯が大騒ぎになってしまい、休憩どころではなくなってしまった。店を閉めようとしている茶舗の店主を拝み倒して、急いで菓子だけ詰めて貰ったのだ。


「よかったら食べてください。火事の件が無ければ休憩するはずだった店の菓子です」


 そう言って椀を取り出すと、今度は茶をその中に注ぐ。しげしげと椀の中の茶を覗き込んだ明超は、


「薄いな。あと、これは本当に茶なのか?」


 と言った。有名になってからの彼は、著名な人物や富豪に招かれることも多かっただろう。桑縁の出した茶などは名ばかりであり、しょうがを混ぜて水増ししているようなものだから、出る所に出れば邪道だなんだと言われてしまう代物だ。まずもってして薄い薄くない以前に本物の茶とすら言い難いのである。


「ははは……貧乏人なのでそこは勘弁してください……」

「別に、何でも構わねぇよ」


 敷き詰められた菓子を明超に勧め、自らもその中の一つをつまみ上げ口に運ぶ。


「天大侠にいさんは菓子を食べたことはあるんですか?」


 桑縁に倣ってひょいと手近な団子を口に頬張った明超は、二つ目を間髪入れずに放り込みながら顎に手を当てる。


「さあ……記憶に無いなぁ」


 ……どうやら甘いものは嫌いではないようだ。ほっと安堵しながら、櫓に登った本来の目的を思い出す。


「天大侠にいさんの口に合えばいいんですが」

「悪くないね。いや、うまいな。生きてた頃に知っていたら、丸くなるまで食べていたかもしれないな」

「さすがに義鷹侠士の伝説が消えてしまうので、丸くなるのは勘弁してください……」

「冗談だよ、冗談。周りの奴らは酒ばっかり、料理をご馳走になることはあったが、なぜか菓子とか甘いものは一切無くて、水か酒だったんだよな」


 なぜそうだったのか。桑縁にはなんとなくその理由が分かったような気がした。


「多分……皆さん豪傑ぞろいで、とても菓子なんか食べるように見えなかったんでしょうね……」

「そうだなあ。店で食べ物を食うにしても、洒落た店なんか行かなかったし……坊ちゃんみたいな知り合いもいなかったからな」

「それってつまり、僕が坊ちゃんってことですか?」


 思わず茶化されたような気がして聞き返す。桑縁の表情に気づいた明超は慌てて手を振って首を竦めた。


「ああ、いや、確かにお前は坊ちゃんだが、別にそれが悪いとは思ってないさ。士大夫って言えばいいのか? 良くも悪くも俺の仲間は戦うことしか頭に無かったんだ。……なんというか、勿体ないことしたなって思ったんだよ」

「勿体ない?」

「悪いか?」

「いえ……」


 それはつまり、菓子を気に入ったということなのだろうか。桑縁は戸惑いながら空になった菓子の箱を指差す。


「お菓子、お代わりもありますが」

「要る」


 少し不貞腐れた物言い。すぐにそれが、照れ隠しなのだと分かった。思わず口元が緩みそうになるのをぐっと堪えて、箱の蓋を開けを明超の前に出す。


「ここまで気に入ってもらえるとは思いませんでしたが……どうぞ」


 懐は裕福ではないが、今日ばかりは彼のために奮発してよかった――彼の意外な一面を知ることができた気がして、桑縁は少し嬉しくなった。


「さっきの話だが――ときどき思うんだ。もしも俺たちが、もう少し賢い生き方をしていたら。どこかの選択で違う道を選んでいたら、それぞれの結末も違ったのかも……ってな」


 菓子を頬張ったかと思うと、急に真顔に戻りぽつりと零す。明超の表情は寂寞に満ちていて、死んでからもなお、彼が様々なことを考えていたことが理解できた。


「後悔しているんですか?」

「そうだなあ……終わったことは変わらない。ただ、少しでも言い訳して赦されたいだけなのかもしれない。俺ばかりが祀りあげられて、申し訳ない気持ちもある。……だからかもしれないな」


 ニヤリと笑った明超は桑縁を指差す。


「俺なんかと一緒に誠を貫きたいって言ってる変わり者。毎日俺のために冥銭を燃やすことを欠かさない男。危なっかしくて見てられないソイツを、守り切って……今度こそ俺はうまくやったぞ! って思いたいのかもしれない」


 最後の棗の饅頭を口に放り込むと「うん、うまいな。気に入った」と満足そうに明超は微笑んだ。


 ふと、明超が空を見あげる。


「綺麗な空だ」


 桑縁もつられて仰ぎ見、星々の向こう側にある果てなき深淵に目を奪われた。毎日毎晩、同じ空を見あげても、昨日の空と今日の空とは異なっている。季節が巡るように星々が年月を経て再び巡っても、少しずつ星々は変わりゆく。遥か昔の星空が、いまとは異なっていたように。


「なあ、星詠み。今宵の空はなんと言っている?」


 星詠みではない――そう言いかけた桑縁だったが、明超が微笑んでいたので言葉を換えた。


「一応言いますけど、天上におわす天帝や星官が我々に示すのは、主に国の行く末、聖上の行く先といった大局的な事象です」

「知ってるよ。でも、お前の言葉が聞きたかったんだ」

「……」


 改まって言われると照れくさい。否が応でも彼と初めて出会った、墓の前での出来事を思い出してしまうからだ。それでも、聞きたいと言われて悪い気はしなかった。


「基本的に、何事もないときほど言葉には窮してしまうんですが……あ、天皇大帝に雲がかかっています。一般的にこれは良い兆候です」

「もっとそれっぽく言ってくれよ」

「……」


 桑縁は咳払いをしたあと、姿勢を正す。


「臣、天象を観測致しまするに、天皇大帝の御座所に緩やかに雲気が入り、近々雨に恵まれる兆しがございます。折しも作物の始まりの季節。この兆候が続けば今年は豊作になるやもしれませ……ちょっと待って!?」


 随分とその気になっていた桑縁だったが、夜空に見えた一筋の光に目を剥いた。慌てて渾天儀こんてんぎに駆け寄って星を追いかけようとして……尾を引く星は消えぬことを理解し、伸ばした手を引っ込める。いま見た光景を信じることができず、導き出される結果に理解できずに膝をつく。


「どうしたんだ? 顔色が悪いぞ」


 ただならぬ様子を感じ取った明超が、桑縁を助け起こした。


「いま……天狗星てんこうせいが候星を犯して……。古来天狗星てんこうせいは凶兆の現れであり……」


 言葉にするのも恐れ多く、しばらく唇を震わせる。明超が続きを待っていることに気づき、桑縁は続きの言葉を小さな声で絞り出した。


「彗星が犯せば、臣は謀反を企てる……」


 果たして今宵の観測結果は、明日どのように奏上されるのだろうか。そう考えると不安と恐れとが入り混じって、体中の血が駆け巡っているような感覚がした。


    * * *


 夜明け前だというのに、頭はすっきりして目も冴えわたっている。ある意味職業ゆえのものなのかもしれないが、今日は他にも理由があった。


(あの星……)


 上機嫌で奏上した矢先に見つけた天狗星てんこうせい。流れて消えることはなかったから、きっと未だに候星のあたりにいるのだろう。その光景が、目に焼き付いて離れなかった。

 桑縁は現在、景王の計らいで職務から離れているし、そもそも天子に奏上する役目もおう司天監であるから、思い悩む必要はない。しかしおう司天監のことであるから、仮に今宵の天狗星てんこうせいを観測したとしても、彼は絶対にこのことを天子には言わぬだろう。

 先日、おう司天監を責め立てたときは、なぜ本当のことを言わぬのかと怒ったが、いまとなってみると、少しだけ彼の気持ちも分かるような気がした。


 ――臣は謀反を企てる、などというとんでもない内容を堂々と奏上できる者がいるだろうか?


 それこそ己の首を賭けるつもりで挑まねば、いや賭けたとてかなり不敬で恐れ多い話だろう。もしも自分がその役目を仰せつかっていたら……そう思うと、考えただけで胃が痛む。


『あまり気負うな。明日にでも二殿下に相談したらいいだろ?』


 青ざめる桑縁に、明超はそう言って慰めてくれた。しかし、二殿下と桑縁の仲だとて、やはり彼の父は皇上である。皇上に対し謀反を企てる者がいる、などという不吉な言葉を、彼に伝えてよいのだろうか。

 星が告げる内容は預言であって必ずしも絶対ではない――そうは考えるものの、全てを否定すれば、ならば司天監の役目とは何なのか?

 ということになってしまう。

 そんな結論の出ないことを堂々巡りでぐるぐると考えて、そろそろ吐きそうになってくる。


「――桑縁」


 暗闇の中で慌てて体を起こしたところ、耳元で「静かに、ゆっくり起き上がれ」と声がした。先ほどからずっと桑縁は起きていたはずなのに、いつの間にか牀榻しょうとうで寝ていたはずの明超がすぐ側にいる。――いったい何が、そう言おうと口を開きかけたところを手で塞がれた。既に桑縁の行動はお見通しらしい。


「家の周りを取り囲まれている。俺が合図するまで、絶対にここから動くな」


 桑縁はうなずくと、しっかりと明超の袖を掴んだ。

 自分だけ動かないなんて選択肢はない。


    *


 ブツクサ言いながらも桑縁を抱えた明超は、二階から飛び降りる。落下するというよりは緩やかに落ちてゆく――これが軽功なのかと一人感動していると、着地した明超は桑縁を抱えたまま辺りに呼びかけた。


「出てこい。さもなくば命の補償はしない」


 どこの悪役の台詞かと思ってしまうが、いかんせん多勢に無勢。さりとて目の前にいるのは一応『義鷹侠士』なのだから、桑縁の心配しなければならないことは、母に被害が及ばぬことと、自分自身を守ること。

 明超の指という指のあいだには、たくさんの柳葉飛刀りゅうようひとうが挟み込まれている。彼が『鷹』と呼ばれる所以の一つ、幾多の柳葉飛刀りゅうようひとうを一気に放出して多数の相手を一撃のもとに下す必殺の手。普段は飛び道具を使うことのない義鷹侠士であったが、ときにはだまし討ちなどで圧倒的多数の相手とまみえることも少なくはなかった。そんなとき、彼は空に飛びあがり柳葉飛刀りゅうようひとうを放つ。その姿はさながら雄々しい鷹の翼のようであり、敵すらも息絶える瞬間にその美しさを目に焼き付けるという。


(あの義鷹侠士の技が見られるなんて……!)


 本人には言えないが、内心で桑縁はかなり感動していた。不謹慎だが、さあ来い、一気に纏めてかかって来いと思う気持ちを抑えられない。


「……」


 ところが、謎の来訪者は次の瞬間、予想もしなかった行動に出た。


「……ずいぶん律義だな」


 なんと、全員が姿を現したのだ。黒衣に身を包み、素顔は分からないが数は二十人ほど。夜闇の中で行動するのに丁度いいのだろうが、それにしたって黒衣に出会う確率が多すぎる。明超は溜め息をつくと、袖の中に柳葉飛刀りゅうようひとうを仕舞う。横目でそれを見ていた桑縁は、せっかく彼の秘技を見る機会を失ってしまったことに、内心ひどく落胆してしまった。


(でも、変だな?)


 また黒衣か、と思った矢先に感じた違和感。初めて命を狙われた時は背筋が凍り付きそうなほど恐ろしかった。だが、いま目の前にいる黒衣の集団は、初めの彼らとは決定的に何かが異なっている。


 何が違うのか?

 それを感じ取る前に、戦いは始まってしまった。

 黒衣の一人、一番背の低い男が片手を上げると周囲の黒衣たちが明超だけを取り囲む。多数を明超に向けて注意を逸らし、物陰から桑縁を狙う気では……とも思ったが、明超が全く気にしていないのは桑縁を、家の中の母を狙うものがいないということ。……つまり、桑縁は完全に蚊帳の外状態である。


 以前は十数人の刺客が一気に襲い掛かってきたはずなのに、今回はたった一人の黒衣だけが明超と渡り合っているのだ。あの恐るべき強さの明超と互角に渡り合っているのだとしたら、相手はとんでもない手練れのはず。

 そんな相手が果たしているのだろうか?

 二人の戦いに周りで見ている黒衣たちも見入っていて、横やりを入れようという気概すら見えない。かくいう桑縁も二人の戦いが気になって、目を離すことができない。

 黒衣の男は小柄であるが動きは非常に素早く、桑縁の目では捉えきれないほどの速さで小刻みに移動を繰り返し、幾多の柳葉飛刀りゅうようひとうを放つ。明超はそれを払うでもなく紙一重でかわしている。


(なんだか、本気じゃないみたいだ……いや、それより……)


 黒衣の男が投げているのは、先ほど明超が使っていたものとよく似ている。それどころか、黒衣の動きもどこか明超の動きに似ていて、走りざまに柳葉飛刀りゅうようひとうを投げる姿は、義鷹侠士を真似ているといっても過言ではない。いったい二人のあいだに何があるのだろうか?


「そろそろ体力が尽きたようだな、爺さん。俺を試そうとした真意を聞かせてもらおうか」


 明超が動きを止めると、黒衣の男は膝をつく。よく見れば息を切らせて息も絶え絶えの様子だ。膝をつくだけでは足りずに地面に突っ伏すと、慌てて周りで見ていた男たちが駆け寄った。


「ったく世話が焼けるぜ」


 どうやら明超には、既にこの人物が誰だか分かっているようだ。歩み寄った明超が、黒衣の覆面を剥ぎ取るとそこから現れたのは白髪で背中の曲がった老人――桑縁がよく知る人物だった。


「白先生!?」

「座頭、しっかり!」

「えっ……ということは、もしかして皆さんは……」


 桑縁がしげしげと他の黒衣の男たちを見ると、覆面を取り払った彼らの顔は、どれも見覚えのある――馴染みの水連棚の役者たちだった。

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