第5話:刺客

「偽明超、いったいどこに消えたんだろうなあ……」


 桑縁は思わずぼやきを零す。あのあと天文台から出てみると、明超の姿はどこにもなかったのだ。

 鬱陶しいとは思ったが、よもや「待っていてくれ」と言ったのに、まさか姿を消すなんて思ってもみなかった。理不尽な気持ちと、少しだけ残念な気持ちを抱えながら、とぼとぼと歩く。御街にはたくさんの人々で賑わっているが、桑縁が向かうのは反対側の山寄りの場所。脇道を通り抜け、歩けば歩くほど人通りは減ってゆく。便利な店も少なく、多少の不便さを感じるが、それもこれも祖父が星を観るために喧騒な繁華街より静かな場所を選んだゆえのことだった。


 人通りも少なく、整備もされていない。もともと立地が商売に適さない場所であり、住むにも不便な場所。叔父が左遷されたあとは、何度か貴族や商人が移り住んだりもしたのだが、あまりの不便さと儲からなさに結局立ち去ったり逃げ出したりを繰り返し、挙げ句に勝手に宿泊する者まで出てきたため、手を焼いた役所が屋敷を取り壊してしまったのだ。そのため庚央府の中にありながら、いつもここは別世界のように静まり返っている。



 不意にたくさんの足音が聞こえた。

 普段は風の音と踏みしめる草の音くらいしか聞こえないはずだ。胸騒ぎを覚え、桑縁は家のある方向とは別の方向に向かうことにした。


「待て」


 しかし、数歩踏み出したところで背後から呼び止められる。明らかに殺意のこもった、低い声音。


(偽明超、じゃない……)


 足音が複数聞こえたときから予想はしていたが、予想よりさらに状況は悪い。整然とした足音は、かなり訓練された動きだ。通りすがりの人間ではないだろうし、ましてや金で雇われた、ならず者とも違っていた。桑縁は武器など持っていないし、仮に持っていたとしても、素人がやりあって勝てるような相手ではない。相手の声の中に少しも慈悲がないことを感じ取り、桑縁は内心竦み上がった。

 それでも恐れを見せてはいけないと、震える拳を握りしめ、胸を張る。


「誰だか存じませんが、僕には武術の心得がありませんし、大した身分でもありません! それなのに大勢で囲んで物陰から呼びかけるなど、世間の笑いものになるのでは!?」


 桑縁の呼びかけに動揺したのか、暫し相手の動きが止まった。

 逃げるならいましかない。相手の声とは反対方向にを目指して、桑縁は全力で走り出した。


「逃がすな!」


 背中から男の声が飛んでくる。それでも必死で腕を振り、彼らから少しでも距離を取ろうとした。せめて森の中に入ってしまえば、身を隠す場所くらいはどうにかなるはずだ。そう考えていたのだが、運悪く窪みで足を滑らせた桑縁は、前のめりにぬかるみに突っ込んでしまった。


「うわっ」


 しこたま頬を打ち付けたせいで、おう司天監に殴られた頬がじんじんと痛む。それでも痛がっている暇はないとばかりに体を持ち上げる。しかし背中に圧し掛かった何者かによって、頭を乱暴に掴まれ再び地面に押し付けられた。


「死ね!」


 男の手が襟首を掴み、ぞわりと死の影が背中を撫でる。


「誰か――!」


 気づけば無我夢中で叫んでいた。死を覚悟した瞬間に温かいものが首筋にかかる。鉄錆の臭いにも似た液体に桑縁は顔をしかめた。――これは、血だ。

 しかし痛みはない。

 背中に乗っていたものが押しのけられて、体が軽くなる。


「焦らせて悪かったな」


 聞き覚えのある声が頭上に降り注ぐ。恐る恐る顔を上げた先に見えたのは、驚くべき光景だった。

 十数人の男を相手にしても、なお圧倒するほどの剣技。男たちの振るった剣を軽くかわして剣を一振り。それだけで大半が地に倒れ伏す。

たった一人の男――『自称・天明超』によって。


「後ろ!」


 暗闇の中で何かが閃く。

 向けられたのがやじりであると直感し、桑縁は叫んだ。明超は振り返ることもせずヒラリと飛び上がり、光の飛んできた方向に剣を振り投げた。茂みの中からじわりと血の臭いが漂う。――荒事など経験したことのない桑縁にとって、信じられないようなことばかり目の前で起きたのだ。

 しかし、それ以上に桑縁の心をとらえて離さなかったものがある。

 力強く、それでいて軽やかに、月明かりの照らす空に舞う――その姿は、まるで伝説の中から義鷹侠士が出てきたように思えてならない。

 目を奪われるような優雅で美しい剣筋。

 地上の人間がこのように戦う姿を、生まれてこのかた見たことが無い。禁軍の精鋭中の精鋭――上四軍の中でさえも。

 まさに超軼絶塵ちょういつぜつじんの一言に尽きる。

 恐ろしさよりも驚きの方が上回り、桑縁は彼の動きからひとときも目が離せなかった。


「立てるか?」


 全てが終わったあと、明超が桑縁に手を差し伸べた。驚きのあまり地べたに座り込んでいた桑縁だったが、差し出された手を取り、はたと尋ねる。


「――焦らせて、って?」


 その言葉から汲み取ることができる意味は……。


「僕のあとをずっとつけていたんですか?」


 驚き肩を竦めたのを見て、やっぱりと確信する。

 死ぬかと思った。あの瞬間、本当に死を覚悟したのだ。それなのに目の前の男は、桑縁が危なくなるのを待っていた、そういうことに違いない。


「ん? ああ、出遅れたのは悪かった。ただ、人気のない場所まで行かないことには存分に戦えないからな。奴さんを油断させるために、しばらく気配を消していたのさ」


 怒りがふつふつと腹の中で湧き上がっているにもかかわらず、明超は謝罪もそこそこに屈託なく笑う。怒ってやろう、そう思ったものの、あることに気づいて桑縁は表情を変えた。


「待って、いまの話からすると……さっきの男たちは、皇城を出たときから跡をつけてたってことですか?」

「禁門を出てじきに、だな。おおかたお前さんが出てくるのを、待ち伏せていたんだろうよ」


 明超の言葉に桑縁は愕然とする。やはり先ほどの男たちは、人違いでもなく桑縁の命を狙っていたのだ。待ち伏せされてまで狙われるような心当たりなど、あるはずもない。


「そんな……。じゃあ、貴方が天文台で姿を消したのは?」

「いや……それは……」


 なぜか明超は視線を逸らした。


「近くで寝ていたら、怪しい奴がいると騒ぎになりかけて……」

「……」


 そりゃそうだ。

 命を何度か助けてもらっていなければ、桑縁だって怪しい奴としか思わない。


    *


 桑縁の祖父は、かつて提挙ていきょ司天監であった。父もまた司天監となる――はずだったのだが、生来体が弱く、桑縁が生まれてすぐ流行り病で死んでしまったそうだ。

 物心つく前のことであったから、桑縁は父の顔を知らない。代わりに祖父は、桑縁のことを可愛がり、たくさんのことを教え学ばせてくれた。

 庚国のこと、義鷹侠士のこと、そして夜空に広がる星官の伝承。物語を楽しむように四書大全を読み、十を数える頃にはほとんどの書物をそらんじられるようになっていた。おそらく祖父は、死んだ父のぶんまで桑縁に期待をかけていたに違いない。桑縁はそれが嫌では無かったし、桑縁にとって祖父は父とも思える大切な存在だった。


『おまえが大きくなるまで、儂は死ねんなあ』


 常日頃から口癖のように言っていた祖父は、桑縁が十歳のときに亡くなった。

 足腰が弱っていたのに無理をして――出かけた先で二日ほど行方が分からなくなり、見つかったのは川の中。

 皆に敬われていた祖父の、寂しい最期だった。

 十年経ったいまでは祖父を知る人も少ない。


 祖父が亡くなり、母と二人きりになった桑縁を引き取ったのは、叔父だった。ところが叔父は離れの小屋だけを母と桑縁に残し、残りは全て自分の物としてしまったのだ。つまり、引き取ったというのは形だけのことで、祖父の遺産を手に入れることが本当の目的だったということ。

 そのため桑縁と母はすぐに困窮し、食う物にも困るようになってしまった。お嬢様育ちの母は、桑縁を育てるために慣れない仕事も文句一つ言わず、身を粉にして日夜働いた。そこそこ名のある正店の厨師兼給仕として働けたことも幸いして、どうにか飢え死にをせずに済んだ。母はいつも苦労しながら、どうにかして桑縁に食事を食べさせてくれたものだ。

 当然ながら叔父は母子の苦労など知らぬ存ぜぬで、かつては桑縁たちも住んでいた屋敷で豪勢に遊び暮らしていたらしい。


 そんな叔父が、天子の面前でやらかした大失言によって、二度と戻ることの許されない遥か遠方の田舎に左遷となってしまったのは、まさに因果応報としか言いようがない。彼が祖父の後釜として司天監に任官されてから、ひと月と経たぬうちの話であった。

 思い出の屋敷はすぐに売り払われ、取り壊したり建て直したりを繰り返し、いまは面影すらも残ってはいない。


 運の悪いことに叔父の代わりを務められるような親戚もいなかったため、そこでぷつりと司天監への道が途絶えてしまった。それで仕方なく、別の道から司天監を目指さざるを得なくなってしまったのだ。もう顔すら思い出せないが、叔父というのは本当に迷惑な人であったと思う。


 それでも桑縁は忘れないし、忘れたくはない。

 ここが祖父と過ごした場所であることを。祖父と見上げた星のある場所であることを。それから、祖父が語って聞かせてくれた、義鷹侠士の伝説を。


 ――だからいまでも桑縁は、祖父との思い出が詰まった小屋で母と二人、暮らしている。


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