第3話:義鷹侠士

 慧文殿の殿庭でんていには、ひときわ目立つ高楼が二つある。ひとつは鐘楼、ひとつは鼓楼。巨大な高楼には巨大な階段が長く続き――見あげてもなお高き頂には時を報せるための鐘があり、その下方には漏刻のための漏室ろうしつがある。桑縁がその漏室ろうしつに向かうため、今後のことを考えながらぼんやりと歩いていると、背後より沢山の足音が急速に近づいてくるのを感じた。


「うわっ!?」


 足がもつれ壁側に向かって倒れた桑縁は、間一髪のところで猛進する輿を避けることができたらしい。


「邪魔だ!」


 すれ違いざま、輿の中から聞こえた吐き捨てるような男の声。起き上がりざまに輿に目をやるが、当然中を垣間見ることはできない。ただ、桑縁の存在に気づいたのか数人の従者が振り返ってこちらを見ている――が、彼らもすぐに視線を前に戻し、何事も無かったように消えていった。


(輿に撥ねられるかと思った……)


 ゆったりと進むのが輿であると思うのだが、どうやらあの輿の中にいる貴人はよほど先を急いでいたらしい。誰が乗っているのかは分からないが、皇城の中において輿に乗ることができる人物など数えるほどしかいない。そして、桑縁がその人物について思いを馳せたところで、それが何の意味も為さないということも分かっている。


 どうやら最近とことんツイてない。

 それでも貴人の輿に撥ねられなかっただけまだマシか。深い深い溜め息をつきながら、よろよろと立ち上がった。


    *


「ふざけるな!」


 漏室ろうしつに入るなり視界に飛び込んできたのは、顔を真っ赤にして切れ散らかしている宰相、りゅう崔佳さいかの姿だった。庚央府の刻漏こくろうは天子によって管理されている。にもかかわらず、朝を告げる鐘が遅れるなど面目丸潰れもいいところだ。おそらくは開門と同時にここまで殴り込んできたのだろう。実際、扉の外には宰相の連れてきたと思しき衛士たちが待機している。何かあろうものなら実力行使に出ると言わんばかりの様相だ。

 劉宰相に怒鳴られているのは司天学生たちと、桑縁の同僚であるたん挈壺正けっこせい。……まあ、いきなり任官された、親子ほどにも違う若造を、彼が同僚と思っているかどうかは分からないが。


「仮にも天子に刻を奏上するという、重要な役目を仰せつかっているにもかかわらず……鐘を鳴らすのを忘れるとは何事か! どうせ居眠りでもしていたんだろう!」

「劉宰相! 誤解です! 私たちはちゃんと起きていましたし、誰も寝ていませんでした! まだせんが上がっていなかったので……」

「嘘を言え!」


 どうやら今朝の鐘を鳴らさなかったことで宰相自ら苦言を呈しにやってきたらしい。苦言というよりは叱責に近く、怒られるだけならまだいいが、場合によっては杖刑あるいはもっと酷い罰を受けるかも分からない。彼らの落ち度であれば止む無しだが、それでも丹挈壺正けっこせいをはじめとして皆は必死で弁明を繰り返している。


「嘘じゃありません! この場所に何人いると思っておいでですか? 仮に一人が居眠りしたところで、全員が寝過ごしたなんてことが、あるわけないでしょう!」


 司天学生の一人が反論した。彼らの言うことにも一理ある。彼らの側に鎮座する大きな設備は刻漏こくろうのためのもの。正確な時刻を測ることができる代わりに、常に水を足してやらねばならないわけで、一人二人でどうにかできるようなものではない。そのために漏室ろうしつには常に片手より多い人数が交代で勤めているのだから、仮に彼ら全員が居眠りをした場合は、怠慢より事件性を考慮に入れたほうがいいだろう。

 ちらりと受水壺に目を向ければ――なるほど、確かにせんはまだ完全に上がり切ってはいないようだ。通常の手順を行っているならば、誤差はあれど明らかに遅れるというのは難しい。側には交換したと思われるせんが置いてあり、ざっと数えただけでも四十に近い数はある。春の夜漏やろうは四十五刻、せんは一刻ごとに交換する決まりとなっているから、既定の数に満たないとはいえど、彼らが決して何もしていなかったわけではないようだ。


 となれば、ちょっとした『何か』はあったに違いない。

 違和感はいくつかある。


 まず漏室ろうしつの窓が潔いまでに開け放たれていること。刻漏こくろうは繊細な作業であり、気温や水質に至るまで気を使っている。にもかかわらず豪快に窓を開けているのは少々不自然に思えた。いくら真冬ではないとはいえ、不測の事態によって刻漏こくろうに影響が出ないとは言い難いのだから。

 他にも妙なところはあって、窓のほかにもなぜか床が水浸しであったりと、普通とは明らかに様子が異なっている。器の水を零した跡かとも考えたが、そう簡単に動かせるような代物ではないし、仮にぶちまけたとしたら、手早く元の状態にすることは難しいだろう。


(それに……)


 必死で弁明しているものがいる一方で、青い顔をした者や口を噤んだまま開こうとしない者がいるのも気にかかる。あまりにその落差が激しく、彼らが心の内に後ろめたいものを抱えているのではないかと思えてならない。

 ふと思い立ち、桑縁は背後から彼らの側に歩み寄ると――その瞬間に全てを察した。


「あの、少し宜しいですか?」


 なんだと言わんばかりに劉宰相がギロリと桑縁を睨む。


「誰だ、お前は」

「司天霊台郎の秦桑縁と申します。少し確認をさせていただきたいのですが」


 軽く拱手した手の隙間から、劉宰相の表情が見えた。視線がしばらく桑縁を注視する。すかさず『良い』と言う前に受水壺に歩み寄り、花を象るせんを指差した。


「見てください、蓮心は未だ上がり切っておりません。これは彼らの主張が正しいことを表しています」

「だったら何だと言うのだ。彼らが鐘を鳴らすべき時に鳴らさなかったことに変わりはあるまい」

「確かに、それには相違ありません」


 劉宰相の言葉に桑縁はうなずく。桑縁としては、別に彼らの無実を証明しようと思ったわけではなく……ことの仔細を明らかにしたかっただけなのだ。


「ええと、僕……私が言いたいのは、つまり壺の中の水は本来あるべき量よりも少なかったということ。ところで、ですが――」


 桑縁は先ほどから黙っている司天学生三人に目を向けた。青い顔の彼らはぎくりと肩を震わせ、そして桑縁を見る。懇願するような視線を向けられたが、正直に言えば……反省した方がいいと思っている。


「貴方がた三人は、酔った勢いで受水壺の水を飲んでしまう程度には、酒を飲んでいたようですね?」


 彼らがなぜ青い顔をしていたのか。なぜ床に水がぶちまけられていたのか。なぜ口を開かなかったのか。そして、なぜ窓が開け放たれていたのか。

 それらの疑問は全て、彼らに近づいたときに微かに漂ってきた酒の香りで全て分かってしまったのだ。

 酒を飲めば必然的に喉が渇く。酔っ払っていた彼らは、その水が何であるかを理解しないまま受水壺の中の水を飲んだ。だからこそ、五更を過ぎても水位は正しい位置まで上がらず、せんは定められた刻を示さなかったのだ。


「酒を飲みすぎて気分が悪くなって嘔吐したため、床に水を撒いて掃除した。窓を開けたのも空気を入れ替えるためと……まあ、あとは酒の匂いをなんとか消そうとしたからですよね」

「ち、違う! そんなことあるはずは……ない!」


 咄嗟に反論した一人が口を開き、慌てて酒の匂いを隠そうと声音を落とすが、腹の中にある酒の匂いはそう簡単に消えるものではない。顔色だってそうだ。飲みすぎて気分が悪くなったから、彼らの内の一人は青い顔をしている。


「酒臭いな……なるほど、そういうことだったのか」


 冷ややかな劉宰相の言葉に、一同が震えあがる。


「待ってください! か、仮に酒の匂いがしたからといって、彼の言い分が全て正しいわけないでしょう!? 我々が受水壺の水を飲んだ証拠はないですよね!?」

「だ、そうだが」


 説明しろとばかりに劉宰相に睨まれて、桑縁は肩を竦めた。酒の匂いをぷんぷんさせている者の、いったい何の証明をするのか、とは思ったが、確かに証拠もなしに言っても説得力がない。


「そうですね。ちょっと良いですか?」


 桑縁は受水壺に歩み寄ると、その蓋を外して見せた。


「あっ!」

「まさか……嘘だ!」


 皆が目を丸くして驚く。


「退水盆が、なぜ壺の中に……?」


 壺の中に沈んでいたのは、受水壺から排出される水を受け止める為の盆……というか椀だった。


「なぜって、飲むのに丁度いい大きさですから。酔っ払って椀を取って、受水壺に突っ込んでがぶ飲みしたってことです。少なくとも蓋を取らなければ水は飲めないし、椀も入れられないでしょう?」


 さっと顔色を変えた劉宰相は、三人に向かって怒鳴った。


「どういうことなのか、これから包み隠さず説明しろ! 場合によっては、このことを陛下に上奏して厳罰を下していただく!」


 劉宰相の怒り方はさすがに極端すぎるとは思うのだが、酒に酔ったせいで朝の鐘が遅れたともなれば、怒る気持ちも分からなくもない。それでも、こんなくだらないことを天子に奏上するのはどうかとは思うのだが。


「も、申しわけありません! あまりに雨が酷くて気晴らしに、つい、出来心で……! 本当です!」


 一人が地面に膝をつき頭を擦り付けると、残る二人も同じように頭を擦り付けて泣いて詫びる。


「そうではないでしょう。貴方たちは日常的に酒を飲み、職務は真面目に頑張っている人たちに任せきりだった。たまたま今回は深酒をし過ぎて大失敗をしただけ、そうでしょう?」


 出来心だけでここまで大胆なことができるわけはない。普段から酒を飲み、職務をさぼっていたからこそ、調子に乗って度が過ぎた行動をしてしまったのだ。今回このような事態になったのは、運が悪かったから……ではなく、普段の行いが悪かったからこそ、起きるべくして起きた事件に相違ない。桑縁は彼らと顔見知りではないが、彼らが普段どうであったかはゆうに想像がつくというもの。優秀な者もいれば、そうでない者もいるように、真面目な者もいれば極端に態度の悪い者もいる。


 ――桑縁を殴ったおう司天監のように。


 普段から酔っ払いたちには手を焼いていたのだろうが、彼らも刻漏こくろうが狂った原因にまでは思い至らなかったのだろう。酔っ払いが酒を飲んでいたことは隠そうとはしたが、宰相に訴えたことは真実だった。


「とんでもない不届きな奴だ! 呆れてものも言えんわ、連れてゆけ!」


 劉宰相の一言で、外にいた衛士たちが三人を捕らえ連れてゆく。おそらくは何かしらの刑罰が下るのだろう。


「お前のせいだ! どうしてくれるんだ!」


 先ほどまでのビクビクした様子は既に無く、三人のうちの一人が衛士の拘束を振り切って桑縁に飛び掛かった。


(まずい……!)


 咄嗟に攻撃を防ごうと、桑縁は腕で顔を庇う。男の腕が桑縁の首元に触れるほど近づいたその瞬間――しかし、そのときは訪れなかった。


「ギャッ!」


 目を閉じた瞬間、飛び掛かった男の声がした。恐る恐る固くつむった目を開いてみれば、先ほど迫ってきた男は衛士たちの足元にひっくり返っている。桑縁は何が起きたのか理解できず、再び彼が拘束されて連れてゆかれる様子を呆然と見守るだけだった。


「くそっ! 覚えていろよ! 絶対にこのツケを払わせてやるからな!」


 彼らの姿が見えなくなってもまだ罵る声が聞こえたが、どうやらうるさすぎて怒られたようだ。短い叫び声が聞こえたあと、すぐに桑縁へ向けた馬事雑言は聞こえなくなった。これでようやく静寂が戻った――かに見えたのだが。


「お前たちも監督不行き届きと事実を隠そうとした罪で、何かしらの沙汰があると思え!」


 最後にそう言い捨て、劉宰相はその場をあとにした。


 残っているのは丹挈壺正けっこせいと、連れていかれなかった司天学生たち。しかし彼らもまた困惑の表情に満ちている。


(また、恨まれることをしてしまったかな……)


 ことの仔細を明かしたからとて、別段感謝されるわけではない。現に弁明を繰り返していた丹挈壺正けっこせいも、他の司天学生たちも、桑縁のことを冷ややかな視線を向けている。

 なぜなら、彼らが望んだのは『穏便にこの場を収めること』であり、『真実を明かすこと』ではないからだ。彼らにとって桑縁がしたことは『余計なこと』に他ならない。

 しかし、それを理解していてもなお、桑縁は黙っていられなかった。

 気まずさに耐えかねて桑縁は漏室ろうしつを出て行こうと踵を返す。しかし、そんな彼を呼び止めたのは丹挈壺正けっこせいだった。


しん司天霊台郎……といったかね」


 何か、とばかりに桑縁はぎこちなく振り返る。嫌味を言われるのか、また殴られるのか、否、殴られるのだけは勘弁願いたい――そう思っていると、彼から出てきたのは予想外の言葉だった。


「すまんが、司天冬官正とうかんせいにこの本を届けてくれんかね、丁度返そうと思っていたんだ。どのみち天文台に行くのだろう?」

「はい……?」


 その天文台から追い出されたんですが、と喉元まで出かかった言葉を慌てて桑縁は飲み込んだ。受け取った本の表紙には『春宮秘画』と書いてある。いわゆる、性的な娯楽本の類い……とでも言ったらいいだろうか。


(隠すでもなく、明け透けに手渡すんだ……)


 しかも、こんな大騒ぎのあったあとで、何の躊躇いもなく。

 軽い衝撃を受けながら、しかし丹挈壺正けっこせいの面子を台無しにしてしまった手前、断ることもためらわれ、最終的に本を携え天文台に行く羽目になってしまった。


    * * *


「もう出てきてもいいですけど」


 禁門を出てからある程度歩いたところで、桑縁は呼びかけた。どこにいるのかは分からないが、確実にどこかにいる相手に向けて。

 音もなく降ってきたのは、夜明け前に出会ったみすぼらしい身なりの男だった。


「皇城に忍び込むなんて、命知らずもいいところです。助けてもらって感謝していますが、あまりそういったことはやらない方がいいですよ」


 音もなく――というのは、決して誇張ではない。禁衛兵が警備する皇城内で、明らかに官人と異なる風貌のこの男が、誰にも見つからなかったこと。それが語らずとも男の実力を現している。


「なかなかやるな。俺の気配に気づくとはね」

「全然気づきません。……まあその、ちょっと臭うので……」

「え? そうか?」


 風がそよげば、なんとも言い難い臭気が辺りに漂う。逆にこの臭いを漂わせていながら、よくぞ見つからなかったものだと感心するほどだ。


「でも――ありがとうございます。お陰で命拾いしました」


 桑縁は丁寧に男に向かって頭を下げる。

 先ほど襲われかけたときに助けてくれたのは、彼だったからだ。


「へぇ、よく俺だって気づいたな」

「貴方だと思っていたわけじゃありませんが……これ」


 そう言って桑縁が開いた手の中には、小石が載っている。


「何もせずに人が吹っ飛ぶわけがありません。さっきはこの石を使ったんでしょう?」

「まあ、そうだな」


 男は否定せず、うなずいた。


「あそこまで豪快に吹っ飛んだのは、同時に複数の石を当てたからですよね? しかも、体には跡を残さないような場所を狙って。『指弾しだん』をこの目で見たのは初めてですが、素晴らしい技術です。……江湖のかたですか?」

「いまは違う」


 ということは、かつては江湖のものであったということか。それにしても、指で弾いた小石で、大人一人があんなにも吹っ飛ばされたのは驚きだ。


「私はしん桑縁そうえんと申します。失礼ながら、ご尊名そんめいを窺っても?」


 男の名前など興味はなかったが、しかしあの場において助けてもらったことは事実。名を尋ねるのも礼儀の一つだろうと桑縁は軽く相手に拱手した。


てん明超めいちょう。人は義鷹侠士ぎようきょうしと呼ぶ」

「……………………は? 何ですって?」

「凄い顔で睨むな、怖いじゃないか。名前を尋ねたのはお前だろう」


 喰いつかんばかりの勢いで睨みつけた桑縁を、男――自称『天明超』はおどけて後退る。


「冗談は止めてください。庚国の英雄の名前を騙るなんて失礼にもほどがあります!」


 義鷹侠士 天明超。その名を別の誰かが語ろうなど、言語道断である。少なくとも天明超は死亡時点で三十後半であり、長い髪を凛々しく結い上げた姿は十人女がいれば十人振り返るほど魅力的。歳を重ねてもその魅力は衰えることはなく、最強の侠客にして最高の美男といわれている。決して目の前の男のような悪臭を放ったりしないし、頭もハリネズミのようにはならないだろう。

 怒りを向けた桑縁に嫌な顔をするわけでもなく、自称『天明超』は悠然と微笑みを向ける。……顔が黒く汚れているので、はっきりとは見えないが。


「知ってるさ。あんたは小さい頃から爺さんと一緒に毎日のように冥銭を燃やしにやってきた。爺さんが死んでも、どんな大雨の日だって来なかった日はない。そりゃあ義鷹侠士への執着も並々ならぬもの、だよな」

「な、なんでそんなことまで知ってるんですか! ……いや、命と引き換えに太子を守り道を示した義鷹侠士は、名実ともにこの庚国の礎となったんです。敬わない者がいないはずありませんから」

「そんなたいそうなもんじゃねえよ。噂に背びれ尾ひれついて、勝手に持ち上げてるだけさ」

「そんなことはありません! いまだって義鷹侠士の功績を知る人は多く、彼の活躍する説話も本も至るところで溢れています! 彼は僕たちにとって、僕にとって、憧れの英雄なんです!」

「だから毎日冥銭を燃やすのか? それとも金が余ってるのか?」


 男の言葉に、ぷいと顔を背けて桑縁は唇を尖らせた。


「余ってなんかいません。これは僕の矜持ですから」

「ふうん。矜持、ねえ」


 怒った桑縁の様子さえも、自称『天明超』は笑いながら見つめている。どちらかといえば、嬉しそうに見えたのは気のせいだろうか。


「とにかく、助けていただいたことには感謝しています。では」


 そう言うと、桑縁は再び歩き始める。手には先ほど預かったばかりの『春宮秘蔵画』があるのだ。とりあえずさっさとこの本を李司天冬官正とうかんせいに押し付けてしまいたい。


「……」


 しかし、しばらく歩いたところで再び桑縁は歩みを止める。隣を歩く人物を見て溜め息を一つ。


「あの、なんでついてくるんですか?」


 なぜか先ほどの男が桑縁の横をぴったりと離れずに歩いている。呆れて桑縁が問えば、彼は「駄目か?」と浅黒い顔で微笑む。泥やら垢やらで汚れてはいるが、人懐っこい笑みを浮かべた彼は妙に憎めない。もう少し身なりに気を使えば印象もずいぶんと変わることだろう。


(いやいや、そうじゃなくて……)


 ついてきたところでどうせ追い払われるに決まっている。これ以上は明超を追求するのは止めて、桑縁は目的を優先させることに決めた。


    *


 庚央府から一番近い天文台は、皇城を出て北東の外郭にある。とはいっても庚央府の外郭の一辺はおよそ十数里ほどであるから、真っ直ぐに皇城から突っ切ったとしても、それなりに時間がかかるのだ。

 線香一本が燃え尽きるほどの時間を二人は無言で歩き続けたが、天明超は桑縁の脇を付かず離れずでついてくる。敢えて気配を消さぬのは、ただの文官である桑縁への配慮なのだろう。怪しいくせに妙に気を使われて、なんだか居心地の悪さを覚えた。


「さっき。黙ってりゃよかったのに、どうしてわざわざ面倒事に首を突っ込んだんだ? 余計なことを言わなきゃ恨まれることもなかっただろう」


 明超の言う『面倒事』とは、先ほどの漏室ろうしつでの出来事のことだ。連れていかれた司天学生は『絶対にツケを払わせる』と言っていた。あの場の空気も微妙なものにしてしまったし、桑縁が黙ってさえいれば巻き添えになることはなかったのだ。


「誠は天の道なり。之れを誠にするは……いえ、ただ僕が納得できなかっただけです。あのままだったら、丹挈壺正けっこせいの責任にしてあの三人は反省することもなかったでしょうから」


 それは桑縁の信条に反すること。誰の得にもならなかっただろうが、それでも一番反省すべきものが素知らぬふりをすることは許せなかった。


「だが、それならあいつらだって同罪だろう? 漏室ろうしつで酒盛りをしていて、何も気づかないなんてありえない」


 彼の言うことは正しい。あの場では言わなかったが、彼らが真実を知っていることは一目瞭然だった。そして、知っていて敢えてそのことには一言も触れなかったのだ。


「そうですね。彼らは連れて行かれた司天学生たちのことを恐れているようでしたから、言い出しづらかったのだと思います。ですが、それはそれ。彼らもまた相応の処分が下されることでしょう」

「ずいぶん真面目なんだな」

「ええ、まあ」


 少し思案して、桑縁は明超に質問を投げかける。


「それより……貴方が相当な腕前をお持ちだということは理解しています。でも、どうして英雄の名前を騙るんですか?」

「騙ってるんじゃないさ。本当のことだ。……まあ、信じてもらえるとは思っていないがな」


 その言い方は、まるで彼が本物の義鷹侠士であるかのようだ。しかし、本物だと言い切るには少々無理があるというもの。


「義鷹侠士が死んだのは而立じりつ[*三十歳]も半ばを過ぎた頃です。仮に義鷹侠士が生きているなら、ゆうに百歳を超えているはず。貴方は……おいくつかは分かりませんが、百歳には見えません。多く見積もっても二十五、六くらいでしょう。修行を重ねた達人なら、年嵩を重ねても若いままであると聞いたことはありますが、なにより天明超は八十年前に死んでいるのですから、それはありえないこと。ですから、僕の目の前にいるのは天明超をかたる偽物……ということです」

「へぇ。よく知ってるな」

「それだけじゃありません。身の丈は約八尺、にもかかわらず彼は軽功でその四倍以上の高さまで飛び上がることができたそうです。飛翔剣、翔鷹剣という二振りの剣を、自分の一部のように自在に操って、いかなる相手にも怯まない。剣閃は鋭く優雅。空から鷹が舞い降りるように滑空し、四方に柳葉飛刀りゅうようひとうを放てば一瞬で無数の軍勢が地に伏したとも伝えられています。義に生き義に散って行った英雄の中の英雄。それが天明超! というのが人々の一般的な認識です」


 一気に桑縁がまくし立て、どうだと言わんばかりに明超を見る。ぽかんと口を開けた明超は、しばらく呆然としたあとでぼそりと一言、呟くように桑縁に言った。


「どこで仕入れたんだよ、八十年前のそんな情報を……。ちょっと、なんか……引くな」

「ほっといてください!」


 別に偽物に理解してもらおうなどとは、これっぽっちも思ってはいないのである。


(だいいち、僕がお爺様と一緒の頃から毎日冥銭を燃やしていることを知ってるような人に言われたくないんだけど……)


 誰しも自分のことは棚に上げ、といったところか。


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