第2話:司天監

 桑縁の涙雨……もとい、夜通し降り続いていた雨が奇跡的に止んだ。


「やった!」


 窓辺から片時も目を離すことなくその瞬間を待ちわびていた桑縁は、この機会を逃すまいと、転がるようにして家を飛び出した。

 簡単な処置は施したが、殴られた頬はひどく痛むし腫れている。それでも、いまを逃せばいつ雨が降るとも限らない。ならば案ずるより産むが易し、だ。

 息せき切って走りながら、いまは何刻かと考えを巡らせて、すぐに夜半の漏鼓ろうこは聞こえなかったと思い出す。京師の時楼は皇城内ほど厳格ではないかもしれないし、激しい雨であったから雨音で掻き消えた可能性は十分にあるだろう。しかしながら、雨が止むのは少々遅きに失した感はある。天文を観測して結果を纏めるにはやや時間が遅すぎるのだ……とここまで考えたあと、彼らには今宵の天候など関係ないのだと気づき、桑縁は考えるのを止めた。


 いまはそんなことより、腕の中に抱えた『モノ』のほうが大事なことだ。ぶかぶかの幞頭ぼくとうをかなぐり捨て、纏めた髪が崩れることもいとわず一心不乱に趨走すうそうする。黒銀の銙帯かたいを締め、緑の円領の官服を纏う姿は、見た目だけならいっぱしの官人だが……しかし五尺四寸の身の丈には少々不釣り合いで、動くたび袖の中にすっぽり埋まった指先が、出たり入ったりを繰り返すものだから煩わしいことこの上ない。

 殴られてもなお官服に着替えたのは、桑縁なりの意地である。天文台には来るなと言われたが、他の場所には行くなと言われていない。だから『いつもの場所』へ行ったあと、次に向かう場所は決めている。


(せめて漏室ろうしつに行って何か雑用でもしよう……)


  司天監の職務は、なにも夜空の星を観るだけではない。皇城内で漏刻を管理し奏上することもまた大切な役目なのだ。ここで諦めて何もしなかったら、これ幸いと司天監から追い出されてしまうかもしれない。それだけは避けたかった。

 空はまだ暗く、わずかに空の端だけが色づく。

 朝を告げる景陽鐘けいようのかねまで猶予があることを確認し、桑縁は目的の場所に向かった。


 やがて数刻ほど後に辿り着いた先は、閑静な小高い丘。それは庚国で知らぬ者はいない、義侠の勇士の墓だった。


義鷹侠士ぎようきょうし てん明超めいちょう


 かつてこの国が奸臣の策略により外敵の攻撃に瀕したとき、仲間と共に命を懸けて太子と民のために路を切り開いたという。噂で聞いた話では、皇城内には多大なる彼の功績を讃えて建立したという霊廟もあるそうだが、皇帝よりも尊ばれてしまうことを恐れ、その真偽は秘されているのだとか。彼の活躍は多くの講談師によって語り継がれ、また小説としてどこの書肆しょしにでも置かれているほどであるから、そういったことを危惧するのも分からないではない。

 桑縁は、この場所が好きだった。

 幼い頃は毎朝必ず、書生の頃も欠かさず訪れ、金が無い時ですら自らの食費を削り、この場所で冥銭を燃やし続けた。

 良いことがあれば冥銭を燃やして報告し、悪いことがあればそれもまた冥銭を燃やして報告する。父を早くに亡くし、祖父も亡くなったあとは、桑縁にとってこの場所だけが唯一弱音を漏らせる場所だった。


「僕も義鷹侠士のように強かったら、よかったのに……」


 今日も今日とて冥銭を燃やし、いつものように燃え尽きるのを待つ。龍爪花りゅうそうかのように美しく燃えたあと小さく爆ぜ散ってゆく炎の欠片は、この地で死ぬまで戦い続けたという義侠の士の最期に似て、美しくもどこか儚い。

 もしも彼のように強かったなら、毅然と言い返すことができたのに。己の弱さを思うと涙が溢れそうになった。零れ落ちそうになる涙を堪え、仰ぎ見た天球には無数の星官たちがひしめいている。その中でひときわ赤く輝く星は、物語の中で皇帝が絶望するきっかけとなった星だ。


 ――皇城は陥落し天子は薨去こうきょす。太子はわずかな臣下と共に燃え盛る皇城より脱出したが、既に都は火の海と化していた。民と共に国を追われた太子は、夜空に輝く赤き星を観て自らの運命を嘆いたという。


『あれは世の乱れを予言する熒惑けいこくの赤き輝き。おお、神も我を見放したもうたのだ』


 圧倒的な戦力差に加え、奇襲によって軍は壊滅状態。思わず涙を零した太子の前に跪いたのは、亡き皇帝の侍衛を務め、今わの際に太子のことを託された、義鷹侠士――天明超だった。

 彼は戦意も生きる気力も失った太子の手を取り、こう言った。


『殿下。いえ、皇帝陛下。諦めてはなりません。陛下には、まだ守るべき民と臣下がおります。逃げ延びて庚国を再興せねばなりません。そのための路を、在下やつがれが必ずや切り開いてみせましょう』


 太子を逃すために残った仲間と、わずかな兵士たちと共に命を賭す決意をした天明超は、激戦の末に外敵を退け、そして奸臣を討ち取った。生き残ったものは誰一人いなかったが、太子は新たな地で庚国を再興し皇帝となったという――。


 今日の庚国があるのは、他でもなく天明超の存在あってのもの。

 それゆえ桑縁を含めた庚国の民は、およそ八十年経ったいまでも彼のことを敬愛し続けている。


 それでも……赤き星に手を伸ばし、桑縁は幻想の太子に向け高らかに言葉を紡ぎあげる。


「臣、太子殿下に申し上げたきことがございます! 赤き星は東方青龍が第五宿の心星、大火なのです! 熒惑けいこくは未だどの星を犯してもおらず、留まってもおらず、熒惑けいこく守心の恐れもないでしょう。どうか御心を鎮め、進むべき道を見定められますよう」


 義鷹侠士の話を読むたびに何度も彼が言いたかった言葉。

 桑縁の祖父は星を観測することを生業としており、幼い桑縁にもたくさん星の話を語って聞かせてくれた。祖父は天明超の最期に涙した桑縁のために、太子が星を見間違えた事実を教えてくれたのだ。

 もっとも、義鷹侠士の物語は半分は史実であっても、残り半分は講談師が話を盛り上げるために脚色を施した部分も多い。だから真実、皇帝が赤き星に嘆いたかは定かではないし、そもそも大火というのも熒惑けいこくほどではないが、まあまあいわくつきである。それでも幼い桑縁は、皇帝があの星を熒惑けいこくと思わなかったならばと思わずにはいられなかった。


 ――もしも、彼が絶望さえしなかったら、天明超は死なずに済んだのではないか?


 けれど義鷹侠士は既に亡く、運命が覆ることはない。あるのは彼が守り抜いた先に生まれた、新たな庚国――桑縁たちが生きる場所。

 憧れの天明超が守り抜いたものを、自分も守りたい。

 義鷹侠士のような力も勇気もないけれど、いつか彼のような素晴らしい侠客と共に、誠を貫き悪を正してゆきたい。

 それが桑縁の秘めた決意と願いだった。


「名役者だな」


 くつくつ、と足元で誰かの笑う声で桑縁は我に返る。笑い声と草の葉が擦れ合う音を頼りに視線を巡らせると、草叢の中からのっそりと黒い影が起き上がった。


(まさか、こんな時間に人がいるなんて……)


 黒い影、と思ったのは黒くてみすぼらしい身なりの男だった。伸び放題の髪の毛はゴワゴワでハリネズミのようであるし、浅黒い肌は地肌というよりは泥や垢で汚れているように見える。なにより、離れているはずなのに漂ってくる、どうにも耐えがたい臭い。どうやらこの人物は住み処を定めず放浪する、いわゆる根無し草の類いであるようだ――にもかかわらず、手に持つ剣だけは妙に立派であることが、なんだか奇妙に思える。


「ああ、すまない。悪気はなかったんだ。ちょいと時間を潰していたらずいぶんと仰々しい言葉が聞こえてきたもんだからつい」

「……っ!」


 聞かれていた。

 いまの一人芝居の一部始終を、目の前にいる怪しげな人物に全て見られ、聞かれていたのだ。

 先ほどまで悦に入って皇帝陛下に申し上げるなどとのたまっていたことを思い出し、羞恥で赤くなり、慌ててその場から逃げ出した。


(まさか、人がいたなんて……!)


 たまたま今日は雨が降ったから、時間が悪かったのだ。次は時間を変えよう、そうしよう。

 そう何度も心の中で言い聞かせながら、皇城に向かって走り続けた。


    *


 幸いにして桑縁が禁門前に辿り着いたのは開門より前だった。先ほどのことはいったん頭の隅へと追いやることにして、予定の時間に辿り着けたことに安堵する。あれ以上長くあの場所にいたら、きっと開門には間に合わなかったことだろう。義鷹侠士の墓から皇城まではそう遠くはなく、全力で走れば二刻とかからない。それでも体を動かすことが苦手な桑縁にとっては重労働なのだから。


 庚央府の朝は、夜漏やろうの終わりを告げる鐘の音、そして昼漏の始まりを告げる雞唱けいしょうと太鼓によって始まる。

 夜間閉じられた禁門は、この鐘を合図に開門の打鼓とともに開かれるのだ。皇城に宿直している者を除けば、皆この門を通って一日の職務へと向かう。そのため朝にもかかわらず人通りは少なくはなく、禁門にほど近い通りではすでに店を開けているところも多い。

 これも見慣れた、いつもの光景だ。

 しかし、どうやら今朝は何やら様子が違う。

 禁門前に着いてから、もうずいぶんと時間が経ったはずなのに、一向に門が開く気配がない。辺り一面が溢れるほどの人だかりで、誰も彼もが「いったいどうしたんだ」「おかしいだろう」「まだなのか?」など、どう聞いても普段と皆の反応が異なっている。


「あの、何かあったんですか?」


 人だかりを分け道脇に店を出す露天商の一人に声を掛けると、肩を竦めて一言「鐘が鳴らないから門が開かないんだってさ」と言う。天子に時刻を奏上する役目は、挈壺正けっこせいを筆頭にして鐘鼓院の当直が担当しているはずなのだ。だから鐘が聞こえない、ということは必然的に何かしら問題があったに違いない。そうでなければ、皇城において時間の管理を一手に担う彼らが鐘を鳴らさぬはずがない。


 ようやく遠くで鐘が鳴り、太鼓の音と共に門が開かれたのは、さらにしばらく経ったあとのこと。待っていたとばかりに門が開くなり一斉に人々がなだれ込み、呆然としているうちに所狭しとひしめいていた人々は、次第にまばらになっていった。


(こんなつもりじゃ無かったんだけどな……)


 出て行けと言われたから、ほんの手伝いをするだけのつもりでやってきたのだ。それなのに、よりにもよって行くと決めたその日に限って、予想外の出来事が起きるなんて、思いもよらなかった。

 桑縁は溜め息をつきつつ、慧文殿の方へと重い足取りを向けた。


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