朝の憂鬱
青空の下を緩やかに吹き抜けてきた風が開いた窓から部屋に入ってきて、わたくしの顔を優しく撫で上げました。半ば目覚めてきた意識が更にはっきりとしてきます。
天蓋付きのベッドに人が近づいてくる気配がしました。うっすらと目を開けてそちらに向けると、ストロベリーブロンドをアップスタイルにまとめた氷のような美貌を持つ女性が横に立っています。
「おはようございます、フェリシア様」
「カリスタ」
自分の侍女の名前を口にしたわたくしは目をはっきりと開けました。前世の記憶にある乙女ゲームではわずかに登場し、悪役令嬢への突っ込み役を担当していたことを思い出します。この世界でもソールズベリー伯爵家の次女であり、わたくしの姉のような存在です。
すっかり目覚めたわたくしは体を起こしました。カリスタの背後には実家から共に移ってきた
「お召し物を用意しております」
「わかったわ。髪はしっかりとまとめてちょうだい」
一礼する三人を横目にわたくしはベッドから出て立ち上がりました。緩やかなワンピース型の寝間着のまま化粧台へと歩きます。椅子に腰掛けると、目の前の鏡にはホワイトブロンドのきれいな髪に切れ長の目、それにつんとすました自分の顔が映っているのを目にします。総評としてはきつめの美人といったところでしょうか。
腰掛けたわたくしの背後と横に立った使用人が丁寧に髪を
「カリスタ、今年学園に入ってくる方々の中で注目すべき方はいらっしゃるかしら」
「それは何と言っても、王太子殿下であらせられるメルヴィン様でしょう」
即答した侍女に対してわたくしは心の中で却下と即決しました。理由は簡単、メルヴィン様はあの乙女ゲームの攻略対象男性キャラだからです。昨晩、夢の中で婚約を破棄されたことはまだ忘れていません。
実家の方でわたくしの縁談相手を探していることは知っていますが、その中に王家であるユニアック家の名は確かにありました。実家からもそれとなく言い含められていますけど、もちろん全力で回避です。わざわざ破滅に近づくことなどありえない。
攻略対象男性キャラはあと二人いらっしゃいますが、どちらも来年に入学されるので今年はまだその姿を拝見することはありません。そのお二方とは、いずれは王国の宰相とも名高い次期公爵家当主ローレンス・ネヴィル殿に未来の騎士団長と名高い伯爵家の三男ハミルトン・オクロウリー殿です。
髪をとかし終えた使用人が次いで背の半ばまで伸びる髪を編み上げて始めました。少し引っぱられる感じがしますが注文通りに編むためなので我慢します。ここで妥協するわけにはいきません。
忠実な使用人が作業するのを見ながら、わたくしは更にカリスタへと問いかけます。
「同じ子女でこの方、という同学年生はいらっしゃるかしら」
「家の格式で言えば伯爵家の方が何人かいらっしゃいますが、人物となると」
頼れる侍女が言葉を濁しました。なるほど、つまり同学年ではわたくしが頂点というわけですね。どうやらヒロイン以外には能力面で恐れる必要はないようです。
そのヒロインも攻略対象男性キャラと同じく入学してくるのは来年の春です。開放的で明るいジェマ・パッカー男爵令嬢に引っ込み思案なアーリーン・ラムゼイ子爵令嬢のお二方。前世で二人を選んでゲームをプレイした記憶がちらりと蘇りました。
このヒロインたちは本編の主人公でしたのでそれなりに知っています。隅々までホワイト・アスターのゲームをプレイしたわけではありませんが、ある程度対処できる知識は持ち合わせています。
次第に髪の毛が良い感じに仕上がってきました。それに機嫌を良くしながらわたくしはカリスタへと鏡越しに目を向けます。
「他に注目すべき方はいらっしゃるかしら」
「今年入学される方となると特には。しかし、在校生の中にはお一人いらっしゃいます」
「あら、どのような方かしら?」
「ネヴィル公爵家のアレクサンドラ様です。現在は生徒会の会長をなさっておいでです」
その名を聞いたわたくしの反応は鈍いものでした。王家の親戚筋であるネヴィル公爵家は王国内で最も有力な家のひとつです。しかも、アレクサンドラ様は大変聡明でいらっしゃるとの評判ですから決して無視をして良い方ではありません。
ただ、この方はあの乙女ゲームの本編には登場していないのですよね。何しろ今年三学年生ですので、ゲーム本編が始まる前に学園を卒業されてしまわれるのです。油断は禁物ですが、関わらなければどうということはないでしょう。
髪結いが終わりました。指示通りに仕上がっています。それに満足すると次いでわたくしは席を立ち、姿見の鏡の前で立ち止まりました。背後からついてきた使用人がわたくしの脇に立って衣装替えを始めます。
寝間着を脱がされると姿見に自分の全身が露わになりました。少し控えめなところがありますが申し分ありません。そんなわたくしの体に使用人たちが外出用の飾り気の少ないドレスを身に付けてゆきます。
他に考えるべきことはないかとわたくしは小首を傾げました。すると、脇に控えているカリスタが声をかけてきます。
「フェリシア様、何かお悩みごとでも?」
「大したことではありません。これからの学園生活をうまくやっていけるのかと思っただけです」
「そのご心配にはおよばないでしょう。ご同輩に王太子殿下、ご年長にアレクサンドラ様がいらっしゃるとはいえ、今のアスター学園ですとフェリシア様はお二方に次ぐ格式を有するお方ではありませんか。もっと自信を持っていただかないと」
普段は表情をあまり表さないカリスタがわずかに優しげな眼差しをわたくしに向けてきました。その声援はとても心強いものです。
しかし、わたくしが目下悩んでいるのはそういうことではないのです。この悩みをぜひ姉のような存在にも伝えたいのですが、前世の記憶を共有できないのでそういうわけにもいきません。それがとても悔しくて悲しいです。
それにしても、ファンディスクの新ヒロインはどんな方なのでしょう。なぜこれほど懊悩しているのかと言いますと、前世のわたくしはファンディスクを買わなかったからです。本編はそれなりに楽しみましたが、いわゆるドはまりしたわけではなかったので買うのを思いとどまってしまったのでした。
このせいで、わたくしは三人目のヒロインについては何も知りません。わかっていることは女性ということのみ。ファンディスクが発売された頃は別のゲームに興味が移っており、当時は別の剣と魔法のファンタジー世界で冒険を楽しんでいました。
当時の判断は当時としては間違っていなかったとわたくしは思います。ただ、乙女ゲームに似た世界に転生した今となっては悔やまれて仕方なりません。まさか転生するなんて思わないじゃないですか!
つまり、三人目のヒロインの名前や性格や容姿はもちろん、いつ入学してきてどんな言動をして最低限こなすはずの強制イベントの内容すらまったくわからないのです。また、攻略対象男性キャラも新キャラが投入されたかも一切不明です。せめて宣伝記事くらいは読んでおくべきでした。興味をなくして関連記事も読まなくなってしまったのが痛い。
まさかこんな落とし穴があるなんて前世では思いもしなかったわたくしは小さいため息をつきました。
そんなわたくしの様子を目にしたカリスタが更に言葉をかけてきます。
「フェリシア様、そこまで思い詰められなくとも大丈夫です。何かありましたらこのカリスタも微力ながらお力添えをいたします」
「ありがとう、カリスタ。気が楽になりました」
力強く申し出てくれた自分の侍女にわたくしは笑顔を向けました。確かに、考えすぎは良くありませんね。怯えてばかりいては先に進めません。
精神的にやや持ち直したところで使用人からドレスの着付けが終わったことを伝えられました。これでようやく一息付けます。
「フェリシア様、お茶の用意ができましたので、こちらへ」
出かける準備が整ったわたくしはお茶の用意された席へと腰掛けました。別の使用人が温かいお茶をカップに注いで差し出してくれます。
それを手に取って一口飲むと気が休まりました。昨晩の夢見が悪かったので必要以上に思い悩んでいたのでしょう。世界の修正力は強くとも何かしらのやりようはあるはずです。
ゆっくりとお茶を楽しむと、わたくしは立ち上がりました。これからいよいよ入学式です。まずは今日一日をつつがなく過ごさないと始まりません。
侍女と使用人の見送りを受けながらわたくしは自室を出ました。
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