第16話 はじめて

 草原は乾いていて、雨はそう多くない。

 その日は珍しく雨が降っていることに、トーヤは気付いた。ゲルの天幕を雨粒が優しく叩く、穏やかな恵みの音がした。


 この新しいゲルを、伯父はじっくり検分していった。もちろん、伯父や父が時間をかけて新調したもので、どんな材質でどんな仕立てがされているのかはよく分かっているはずだ。それでも、実際に草原に立てられているところを見たわけではないし、草原に暮らす人々がそのゲルをどう評するのかを気にしていた。

 スレンはたいそう喜んで、彼の両親も集まった親戚も、これはいいものだと口を揃えており、伯父はほっとしたように見えた。


「これで、おまえの父さん母さんに、おまえがきれいな家で暮らし始めたと報告できる」


 宴のあと、町に帰る前に伯父はそう言ってトーヤと別れた。伯父も父も母も、そしてきっと姉たちも、心配していたのだ。生まれてこの方家を離れたことのない娘が、まるでちがう場所で、まるでちがう家で暮らし始めることが。


 眠りから覚めたばかりのぼんやりした頭で、トーヤは天幕を見上げた。実際、それは立派な家だった。

 ぐるりと空間を丸く囲う柵はひとつの歪みもなく、強い風が吹いてもしっかり組み合って揺れたりしない。調度の金具はまだ鈍い光をたたえているほど新しく、音もなく開け閉めできる。三重になった覆い布は風雨をしのぎ、朝になれば朝の光を、夜には外の静けさを伝えてくれる。

 トーヤがとりわけ好きなのは天窓だった。ゲルのてっぺんには丸い木枠があって、天井の梁を支えている。その上に被せた覆い布は部分的に外せるようになっていて、紐で操作して開け閉めする。朝になればそこを開けて煙突を立てかまどに火を熾し、寝る前に煙突を外して天窓も閉める。暑い日は開けっぱなしにして眠ることもあった。

 木と布でできた家も、取り外しできる煙突も、何もかも初めて知ることだった。けれどそれは、風の匂いや空の色、空気のうつろいや草花の変化を感じながら暮らすことができる家だった。自然の変化は激しく、人や家畜を容赦なく痛めつけていくこともある。けれどその大きな流れの中で生きていくことは楽しかった。

 小さな町の、小さな家で何も知らずに暮らしていたときは知らなかったことだった。


 天幕の上で雨粒が踊る音が続いている。トーヤはゆっくり隣を見た。スレンが穏やかな寝息を立てている。その腕がトーヤの体をしっかり抱いているので、トーヤは顔しか動かせなかった。


 行き遅れのどんくさい物知らず。そう思われても仕方ないと思っていて、そう思われるのが怖かった。けれど今は、それで構わないと思える。

 行き遅れたからスレンと結婚できた。どんくさい物知らずなのは本当だけど、仕方ない。だってこんなにも、世界は知らないことで満ちている。

 この人があんな顔をすることも初めて知った。抱き合って迎える朝が、少し気怠くて、でも幸福感に満ちていることも。

 雨音がだんだん音楽のように聞こえてきた。スレンもそろそろ起きるだろう。そうしたらなんて言うだろう。なんて言えばいいんだろう。

 そんなことを考えながらスレンの寝顔を見ていると、眉がぴくりと動いた。もう起きそうだ。

 その下に揺れる瞳の色を、感情を、トーヤは知らない。すべてはこれから知ることだった。

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