第15話 抱擁
スレンには、誰にも言えない悩みがあった。
トーヤと同じ家で暮らすようになったのは初夏。今年の夏は豊かな夏だった。大地は肥沃で草はよく伸び、春に生まれた家畜の仔たちはぐんぐん大きくなった。
おかげで、この夏は忙しかった。家族が増えたので家畜も増やすことにした。スレンはその管理――放牧や搾乳――に追われ、トーヤも日々新しい生活に慣れるのに必死で、夜になればどちらもすとんと眠りに落ちた。トーヤはようやく、新しい家で眠ることに慣れてきた様子だったが、もうそろそろ次の宿営地に移動すると聞き目を白黒させていた。
初々しいその反応に、ささいなことにも驚いたり喜んだりするその表情に、スレンはずいぶん力づけられていた。日々の仕事が大変でも、トーヤのために増やした家畜のぶんならつらくなかった。朝早く起きて彼女が慣れない家事を手伝うのだってへいちゃらだった。
だったが……盛夏の忙しさも落ち着いてきて、少し余裕が出てくると、どうしても、夜になると考えてしまう。
いつまで、おれたちはかまどを挟んで寝ているんだろう、と。
夕飯はいつも、両親や弟妹たちと一緒に食べる。夕飯のあとも仕事は続き、羊の群れが戻ってきたら囲いに入れて、明日乗る馬の足にロープをかけて近くに放しておく。その間トーヤは母と縫い物をしたり、乳を加工したりして過ごしていた。今まで弟妹としていた仕事を分け合えるようになって、母はスレンと同じくらい喜んで、トーヤをかわいがっていた。
「終わったよ、トーヤ」
「あら、もう帰るの。もっといたらいいのに」
だから、仕事が一段落してスレンがトーヤを呼びに来ると、母はよくそう言ってトーヤを引き留めた。トーヤもうれしいのだろう、残って一緒に細かな家事をして、母と話し込んでいることも多い。
今日も、トーヤが母を見て笑っていたので、スレンは思わずその肩越しに母をにらんだ。息子の鋭い視線にしっかり気付いて、母は肩をすくめる。
「わかったわよ。今日は早かったしね。明るいうちに戻って、おやすみなさい」
「そうします。おやすみなさい」
スレンがどんな顔をしていたかは分からないはずだが、トーヤも素直に答えて立ち上がった。母に対してあまりにもあからさまな態度を取ってしまったことがもう既に気恥ずかしくて、スレンは母に挨拶しないで外に出た。ふたりが寝起きするゲルは、ほんの二十歩ほど離れたところに立てられていた。
草原の夏は日が長い。ゆっくりと太陽が傾き始め、空は薄紫に染まっていた。トーヤはそれを見上げて深呼吸する。スレンもそれにならって空を見上げた。小さな星々が、控えめに存在を主張し始めている。
ふと、柔らかい風が草原を駆け抜けた。スレンの少し後ろを歩くトーヤを振り返ると、ほつれた髪が風に遊ばれるのを抑えていた。その額に、どこからか飛んできた花びらが張り付いている。
無意識に、スレンはそこに手を伸ばした。トーヤが気付いて、はっとこちらを見上げて瞬く。星を映したような瞳、けれどその星は空に輝くそれよりごく近いところできらめいている。それこそ、こうして手が触れられるほどに。
柔らかい髪に手を添えて、スレンが顔を近づけると、その星はぎゅっと固く閉ざされた。花びらのようにほんのり色づく唇に触れようとしたとき――――たった今出てきたゲルから、笑い声が響いた。弟妹たちの声だった。
トーヤははっと目を開け、身を離した。スレンも声のほうを見たが、誰かの姿があるわけでもない。ただ単に、中で遊びでもして盛り上がっているらしかった。
「…………戻ろうか」
スレンが声をかけても、トーヤは硬直して動けなかった。ひどく緊張した面持ちで、顔色も一気に青ざめてしまった。怖がらせてしまったのだろうか、また距離が遠のいたのか、と思いながらスレンはもう一度彼女と視線を合わせた。
「…………だれか、見てたの?」
「ああ……ちがうよ。だれもいない。中で遊んでるだけだろ、きっと」
それでもトーヤは動けなかった。スレンが辛抱強く待っていると、不意に彼女はかぼそい声で絞り出した。
「…………笑われてるのかと思った、わたしのこと。行き遅れで、どんくさいもの知らずだって」
「……そんなわけない。そんなこと思ってない。トーヤ、おれはトーヤが来てくれて、ほんとに、ほんとに――――」
彼女に根深く巣くう、劣等感のかたまりを見た気がした。スレンもよく似たものを持っている。だからこそ、どんなにそれを払拭する言葉を重ねても届かないときがあることを知っていた。もともと、話すことは得意ではない。人を相手に話すより、馬や羊相手に話しかけていることのほうが多かった。
それでもなにか言いたくて、スレンは必死に、心の真ん中にある思いをつかんだ。
「おれは、トーヤが好きで、ここに来てもらいたかったんだ。結婚してから、もっともっと好きになる。トーヤと一緒になれてよかったし、これからだって一緒にいたい」
あまりにもあけすけな言葉になってしまった。けれどまじりけのない本音だった。同じところで眠りたいのも、一緒に帰りたいのも触れたいのも、全部そのためだった。
今度はスレンの方が動けなくなってしまった。ごくりとつばを飲み込んで、トーヤの目を見ることができずにじっとつむじを見下ろしていると――ふわり、とその頭が動いた。
次の瞬間には、柔らかい唇がスレンのそれに押し当てられていた。
これまでに触れたどんなものよりもあたたかく、柔らかいその感触に呼吸が止まる。トーヤはほんの一瞬で唇を離し、スレンを見上げて微笑んだ。
「ありがと、スレン。わたしも、スレンが好きよ」
急に呪縛が解けた。スレンは細くて小さな体を抱きしめた。腕の中でトーヤが小さな悲鳴をあげるが、離すことなんてできそうになかった。
結婚式の日、彼女の髪からは薔薇の香りがした。あれからずいぶん時間が経って、もちろんその香りは飛んでいる。けれどその髪に顔を寄せると、スレンがよく知っている、草と太陽と乳の匂いがした。
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