第9話 世界にひとつだけ
白い布に針を刺す。一針一針、模様をつなぐ。最後の糸を引っ張って玉留めして切り、糸くずを払う。次の色糸を引き出して針に通し、同じことの繰り返し。
冬の間は、寒さにかじかみ手が止まることがよくあった。まだまだ冷えるが、それでも凍り付くような冷気はなくなり、少しずつ春が近付いているのを感じる。桶に張った氷が溶けるように体も心も解放されて、精力的になる。次から次へと針を刺し、布をつなぎ合わせて、トーヤの部屋にはこんもりと布の山ができていた。
階下から、姪や甥たちの歌声が聞こえてきた。たぶん近所の子たちも一緒だろう。外で遊べるような気候になってきたから、子供たちは毎日手や鼻の頭を真っ赤にして遊んでいる。姉と母がそれに応対するのんびりした声も聞こえる。大きく戸を開けたからだろう、はしごを上がったトーヤの部屋にも、新しい空気が流れ込むような気がした。
トーヤはふと、針を置いた。来年は、冬も春もここでは迎えないのだった。夏になればトーヤは草原に嫁ぐのだから。
――大丈夫かしら。この子はここでの暮らししか知らないんですよ。
――大きな家畜の世話は慣れてないし、馬だって上手に乗りこなせるわけでもないし。
――トーヤ、ほんとうに遊牧民になるつもり?
家族の言葉がよみがえり、ぐるぐると頭の中で回った。トーヤはそれらに反論できていなかった。
町での暮らししか知らない。遮るもののない草原の冬がどんなに強い風が吹くか知らないし、彼らがどんな風に放牧に行くのか知らないし、足りないものを買いに行ったり借りに行ったりできない土地で、どうやって家事をして食事を準備するのか知らない。あの人には弟と妹がいると聞いたけど、近所のこと遊べない子供たちがなにをして遊んでいるのか、なにに喜ぶのかも分からない。
きっと彼らの冬営地がある草原は、まだ冷たく凍えているだろう。その中で忙しい春に備えて準備をしているのだろう。
トーヤはなにも知らない。分からない。それでも、トーヤはそこへ行きたかった。もう一度布と布を合わせ、針を動かし始めた。
――好きにしたらいいと言ったけど、なにもそんなに遠くに行かなくてもいいのに。断ったら、きっと今度はもっと近いところをお父さんが探してくるわ。
姉はため息まじりにそう言った。トーヤはそれには、首を振って答えた。
「わたしが、行きたいと思ったの」
そのときと同じように口に出してみると、なんだかおかしくなって笑ってしまった。なにも知らないし分からないけれど、トーヤはそうしたいと思った。そうしてほしいと、彼も望んでくれた。ほかに理由なんて必要ない。
「トーヤ、悪いけどちょっと手伝って……あら、いいのができたわね。帽子?」
母が部屋をのぞき込んだとき、ちょうどぱちんと糸を切るところだった。裏返して縫い目を確認する。きちんと模様も繋がっているのを確認して、トーヤはうんと頷いた。
「ちょっと大きいんじゃない?」
「だって、くせっ毛だったでしょ」
「…………あら」
母はもうなにも言わなかった。そうねと笑って、ごちそうさまと手を振った。
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