第6話 親心

 スレンはぼんやりと空を見上げた。よく晴れた青い空は高く澄んでいて、ちぎれ雲がのんびり漂っていた。地上では羊と山羊の群れが、まさにそのちぎれ雲のように丘陵の岩肌に散らばっていた。この時期、冬に備えて家畜に栄養をつけ、肥えさせねばならない。岩塩が露出している場所まで連れてきて、一頭一頭の状態に目を配るのがスレンの役目だった。普段の放牧と違って弟妹に任せられるものでもない。弟妹は今頃、家で母と保存食作りに張り切っているだろう。


 ――町では、どんな風に冬の支度をするのだろうか。


 馬を連れ戻し、家に帰ってから数日が経った。すっかり普段の生活に戻ったが、どうにもあのときの記憶が頭から離れてくれない。今も、ふと気が付けばあの日のことを思い出している。特にこうして、忙しく作業に追われるでもなく、羊や愛馬が草を食み岩塩を舐めるのを見ているだけだと、どうしても気が緩む。

 小さな町を見つけて、走って、町外れの石垣や土壁の家を見たときの安堵感。井戸を探して小さな人影に気がついた、その人物が若い女性で、足を洗っていると分かって、視線を外そうとしたけどできなかった。頭巾の下で揺れていた豊かな黒髪、白くて細い素足、穏やかな声。


「なあ、おい。おまえ覚えてるか。優しいひとだったな」


 あのときも一緒だった愛馬のヘールに声をかけると、覚えていると答えるように鼻を鳴らした。賢い馬だ。きっと本当に覚えている。けれど、冬を越えた後はどうなるか分からない。なにしろ、一度ここを離れたらスレンたちが同じ場所へ戻ってくるのは一年後なのだ。スレンの記憶だって、きっと薄れてしまうだろう。


「……ああいうひとと、暮らせたらいいのにな」


 無自覚に言葉にしてから、スレンははっと赤くなり、誰もいやしないことなんて分かっているのに辺りを見回した。遠くでアカゲラが飛び立つのが見えたが、それだけだった。羊たちもスレンの言葉なんて聞いていないだろう。ただ、ヘールだけが不思議な目でこちらを見ていた。


「……忘れてくれ、な。ヘール」


 愛馬は答えなかった。ぴしゃりと尻尾を回し、どこかへ歩いて行く。その背を見送って、スレンはどさりと草原に倒れ、仰向けに寝転んだ。


「あ~~~~、くそ、考えるんじゃなかった」


 じたばた手足を動かしても、大地はびくともしない。空の雲は相変わらずのんびりじりじりと動いて、家畜たちもスレンの葛藤など素知らぬ顔でただ口を動かしている。

 スレンの日常は、いつも同じことの繰り返しである。家の仕事、家畜の世話、売り物にする毛皮や加工品・食糧の準備、両親の手伝いに弟妹の相手、ときどき姉の嫁ぎ先へ手伝いに行くこともある。冬になれば冬営地へ移動して、長く厳しい冬をなんとか生きる。スレンの家は小さく豊かでもないが、家畜とそれを放牧する土地の権利を持っている。家を継ぐのは一番下の弟で、それが大きくなるまではこの家を、家畜たちを守って、家族を支えなければならない。スレンはそういう生き方しか知らない。それでいいと思っていた。


 ――けれど、その先は?


 浮かんだ疑問を、スレンは意識して心の奥底に沈めた。考えてもしょうがないことだ。だから、両親がスレンのことを考えているなんて想像もしていなかった。



「冬の前にいろいろ売るついでに、この前おまえが世話になったところへ礼を伝えに行こうと思うんだが」


 父がそう言ったとき、はじめスレンは理解できなかった。しばらくその意味を吟味して、ようやく理解してえっと呆ける。


「わざわざ、いつもと違うところへ行くの?」

「だって、おまえをよくもてなしてくれたんだろう。礼にフェルトや毛皮の一巻き、チーズやなんか持って行くのは道理だろう」


 そうかな、とまだスレンが目を白黒させていると、父はふっと笑って続けた。


「おまえも来るだろう? せっかくだから、もう一度挨拶するといい」

「えっ? いや、おれと父さんが二人とも家を空けるのは物騒だろ」

「遠慮するなよ。もう一度会いたいだろ?」


 困り果てて母を見るが、母も心得た様子でにこにこ笑って頷いている。要は両親は、スレンの気持ちを察していたのだろうと分かって、思わず顔をそらした。


「…………ありがとう」


 小声でつぶやくと、何も分かっていない弟が、なんのことーとのんきに袖を引っ張った。

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