第5話 きらめき

 ――井戸を使わせてもらっても構いませんか。

 突然現れた人物の言葉を、はじめトーヤは理解できなかった。数拍無言でじっと彼を見つめ返して、それからはっと我に返る。


「あ、すみません。どうぞ。ここは旅の方にもお使いいただける井戸ですから」

「ありがとうございます」


 馬の手綱を緩く肩にかけて、彼は一礼した。トーヤは一歩引いて井戸から離れた。

 同じくらいの年に見える、まだ若々しい青年だった。毛皮の帽子は遊牧民らしい意匠で、おさまりの悪い黒髪が端から飛び出している。灰色のデールを彩る橙色の縁取りが鮮やかだった。彼は桶を引き上げ、まず顔を洗ってから手で水をすくってごくごく飲んだ。同じように手ですくった水を馬に飲ませようとするので、思わずトーヤは口を出した。


「こっちの桶使ってください。みんな使ってますから」

「いいんですか。すみません」


 馬が桶から水を飲み始めると、彼はほっとしたように笑って、少し乱れているたてがみを撫でた。かしこまった口調でトーヤと応対するのとはまるで違う、自然で開けっぴろげな笑顔にどきりとした。


「良かったな、ヘール。これで家に帰れるぞ」

「……長く旅をしてらっしゃったんですか」

「あ、いえ三日ほどです。こいつを探していて、ようやく今朝見つけたところです」

「まあ、それはお疲れでしょう。良かったら、なにか食べていかれますか」


 それはここらでは当たり前の申し出だった。旅人、しかも馬を追って旅をしていたような若者を見過ごして疲れ果てたまま帰路に放り出すのは非情なことだ。もてなすことは巡り巡って自分たちに返ってくる。旅人もまた、己の素性を明かして怪しい人物ではないと理解してもらうため、もてなしを受ける。

 とはいえトーヤのような若い女に誘われて、彼は少し逡巡したようだった。トーヤは少し考えて付け足した。


「井戸の管理は町会でしております。父に、ひとこと挨拶していってください」

「ああ、それなら。よろしくお願いします」


 軽く一礼すると、額に残る水滴がぽたぽた落ちて輝いた。どうぞこちらへ、と案内しながら、トーヤは胸の高鳴りを抑えられなかった。


 :


 知らない町を、馬を引きながら女性の後について歩く。馬は早く帰りたいのか足が重く、何度か強く引かなければならなかった。スレンが馬に声をかけるたび、案内してくれる女性が振り返り、わずかに笑う。その控えめな笑顔が、なんだか胸に響いた。


 はぐれ馬をようやく見つけて、すぐにでも帰路につきたかったが水がなければ帰れない。しばらく馬を走らせて、ようやく小さな町を見つけた。へとへとになって近付くと、町外れに井戸があって女性が足を洗っているところだった。

 見てはいけない、と思ったが目を離せなかった。やがて彼女が気付いて足と髪を隠したので、スレンも取り繕って水を求めた。井戸を求めてきたのは本当なのだ。冷たい水で洗うと土埃で汚れた顔も頭もすっきり冴えた。もてなしの申し出は迷ったけれど正直ありがたい。幸いまだ早い時間なので、昼をいただいてから場を辞して、馬を飛ばせば明日中には家に戻れるだろう。

 

 ぼんやり考えながら、スレンは前を行く彼女を見つめた。同じくらいの年頃に見えたが、髪を編まずに下ろしているからには未婚のはずだ。馬を乗るには向かない、少し広がりのある衣装の裾がくるぶしで揺れていた。

 ――ぺたぺたと軽い足取りで歩くその足は、片方だけ靴を履き片方は裸足だった。

 足だけでなく、靴も洗っていたのだろう。何があったのだろうか。そういえば裾も少し汚れている。町の路地は土が踏み固められていて、鋭い骨や牙のかけらが落ちていることはなさそうだ。裸足でも怪我をすることはないのだろうが――気にならないのだろうか。

 しっかりした口調で応対してくれた、馬に水桶も貸してくれた気遣いができる優しい女性、父に挨拶をと言うことでスレンがもてなしを受けやすくした思慮深い彼女と、片足裸足ですたすた歩く彼女の不均衡さがおかしくて、スレンは声をかみ殺して少し笑った。

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