第4話 些細なことでも

 ねえスレン、と呼ばれてスレンは外に出た。もうすっかり朝になり、軽く腹ごしらえを済ませたら放牧に出なければならない。戻ってきたら、丘向こうの実家とこの小さな家を行き来して、冬支度を始める。草原の秋は短く、冬が始まれば春は遠い。少しでも過ごしやすいこの時期に、しっかり準備をしておかなければならない。

 ゲルの戸をくぐると、少し離れた場所でトーヤがしゃがんでいた。スレンが出てきたことに気付いて、顔をあげてにっこり笑って手を振る。スレンはまだよく動かない寝起きのぼさぼさ頭をかき回して、妻の元へ近付いた。


「どうしたの」

「ほら、見て。こんなに花が咲いてる。全然気付かなかった」


 彼女の足元に、紫色の小さな花がひとかたまりになって咲いていた。ほんとだ、とスレンも頷いてとなりにしゃがみ込む。さっきまで乳搾りをしていたせいだろうか、トーヤからは羊のにおいがした。


「かわいいね。もう寒くなるのに、こんなに咲いてえらいね」

「こいつはのどに効くんだ。秋に咲くから、摘んで乾燥させて、冬にのどの調子が悪くなったらお茶と一緒に飲むんだよ」


 同時に、まったく別次元の言葉が出てきて、ふたりは思わず顔を見合わせた。それからスレンはくはっと笑い、トーヤはへええと感心したようにうなずいた。


「花が咲くのがえらいってのは、トーヤらしいな」

「そお? スレンも、なんでも知ってるのね。えらいね」


 街からこの草原に来てもらって、苦労も多いはずだが、トーヤはそれをスレンに見せることはなかった。スレンにとっては当たり前の日々を新鮮におどろいて過ごし、毎年お決まりの変化にも目を輝かせている。些細なことにも喜びを見出す妻のその姿自体が、スレンには眩しかった。

 ……とはいえ、えらいねと、まるで弟妹に対するように褒められると少し不満で面映ゆい。真実トーヤが年上だからこそ、スレンは頼れる男でありたかった。

 ごちゃまぜの感情のまま立ち上がって伸びをする。秋の涼しい風が吹いて、スレンを見上げるトーヤの髪を遊ばせた。

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