チャンスをゲットしよう~江崎君は女性慣れしていませんて本当なの?~

「あ、すみません‥‥私、ボーッとしちゃってましたね」

「いえいえ、考えてましたよね」


私は、フッと軽く口から息を洩らした。

「もう、お見通しですね」


ボーッとはしていない。会社の運転を簿記上で想像していたのだった。ただ今の自分ではまだ説明がつかないだろうし、きっと簿記にすれば難しくなりすぎることもあったように思う。


例えばそのまま会社が大きくなって行って、自社と同じようなことをしているけど販売エリアが違う地域を持っている会社なんかを取り込んでしまうようなこともきっとあると思う。それはちょっと想像がつかないし説明ができない。だからボーッとしていたことにしたけど、しっかり見抜かれていた。


私って分かりやすい単純人間なのかな‥‥阿須那にもよく見抜かれているだろうし。


「今日、本当にありがとうございました」

座ったままではあるが江崎君が突然、私に頭を下げた。

「ええ?なんで?どうして??お礼を言うのは私の方だと思います」

頭を上げた時、あの柔和な笑顔のまま続けた。



「『教える』ってことは、分かっている以上に分かっているぐらいでないと教えられないんですよ」

その言葉にふと考えてみる。今教えてもらったことを帰って、聞いてはくれないだろうけど、阿須那に説明できるだろうか。そして私ができたように阿須那に理解してもらえるだろうか。そうするためには自分の言葉に与えられた知識を置き換えなければならない。置き換えの作業も、間違った解釈をしていれば必ず置き換えた結果は間違っている。もやっと何となくの理解でそのまま説明すれば、絶対に伝わらないし、そこのもやっとしたところを質問で突っ込まれて固まることになる。

「なるほどー江崎君も復習していたわけですね」

「ええ、そうなんです。ちゃんと説明できれば自分的に『〇』なのかなって。だから完全に僕が今言ったことが正解かどうかは『?』ですけどね」

少し子供のような、いたずらっ子のような微笑みを浮かべて、もう冷めているだろう珈琲に口をつけた。



「いやーでもどうあっても私の方が、ありがとうございました、ですよ」

本当にそうだ。もうあまりに訳が分からなさ過ぎて、とんでもないところに来たなあと最初から後悔していた。小学校の時に目立たなかった、あの紗奈がウルトラC的に、大学に行かずとも有名企業に就職した、という成功術に「簿記」が出てきて、そこに飛びついた。後はちょっとだけ紗奈に個人的に聞いて、何となく右と左が一緒になれば良いのね?あとは小学校程度の計算ができればできるし、そこを電卓でやるし、問題ないんだね‥‥ぐらい。勿論ネットや本屋で簿記の問題を見たりはしたけど、当然分からなかったけどこれまた『先生の授業を聞いていれば勝手に分かるようになるっしょ』ぐらいに思っていた。


またまた浅はかだった。ネット上では独学でもできます的な文字がよく踊っていて、どや顔でピースしている兄ちゃんの顔写真とかが掲載されている。それなら専門学校いけばもう確実に余裕!と思っていたけど、全然そんなんじゃない。


――――考えたら独学でできた人が特異だからネットの記事になるんだ。それが普通なら記事にならない。



もし世の中で「飛行機が飛び立って無事に目的地に着きました」なんて報道が流れていたら、それは日頃は無事には到着しないから、という逆説になるんだ。珍しいから報道されているんだ。良く考えたら同じことだった。また自分の未来を想像する浅はかさを痛感させられた。しかし、

「いえいえ、僕も想像以上に理解してもらえて嬉しくなって色々喋りすぎてるなって思えてて」

「そんなそんな、もうほんとに感謝しかないです」



「それに女性の人とこんなところでこんな風に話すのって、僕、慣れてないから‥‥」



「‥‥え?」

「え?」

「ええ?」

「ええ?」

「えええ?」

「えええ?」

「ええええーーーー??」

って何だこのやり取りは?

「うっそだー!絶対に嘘!」

席は近くないが、他のお客さんがいる。それなのに多分店のこのフロアには充分に聞こえてしまうぐらいの声を出してしまった。そんな私のオーバーリアクションに、

「ないない、本当にないですよ」


と相変わらず微笑みながら優しく否定してきた。興奮して思わず立ち上がって言いたくなったけどさすがにそれは場所柄、憚られた。

「だって、そんな‥‥あんなに上手に私に声かけてきて‥‥その後ここに連れてきて、慣れてないとか絶対嘘!」

「ホント慣れてないんですって。だから何か失礼なこと言わなかったかなってすごく心配しているんですけど」

私の今までとは違う語気の強さと、自分に非礼なところはなかったかとの心配で本当に少しずつ彼の弱気が見えてきた。



――――本当なの?うええええーーーうっそだ~~~。でもここで自分があっさり連れていかれたからって『慣れていないなんて噓でしょ噓でしょ、嘘に決まっている』



と決めつけを連呼するのも大人げない。中には女性経験が少なくても感性が素晴らしく良くて、たった一人だけの経験でも上手に振舞える男子もいるか。ひょっとしたら全く未経験でも、できる天性の才能を持った子もいるかもしれない。そしてまだ江崎君は私を安心させるために欺いている可能性も否定できない。 


――――ここはひとまず落ち着いて、ニュートラルに、達観した感じで。

「非礼とか、何もなかったです。本当にありがとうございました」


ただただ助かった。最初の授業でコケてしまってそのまま簿記を理解できずにまた逃げてしまっていたかもしれない。そこを彼は救ってくれた。その事実は彼が女性に慣れているかいないかは関係なく、私は感謝しかない。

「いえいえ、本当に僕こそ感謝です。あのこれ‥‥」

トートバッグのインナーポケットのようなところから何かを出してきた。



それは無色透明のプラスチック包装に入れられた‥‥赤を基調とした白・金・橙色の紐が混じった組紐のストラップだった。そしてストラップではなかったことが分かった。キーホルダーだった。それは彼の青を基調としたものと色違いだった。そして新品だった。どこのメーカーとかタグ類は一切なく、実家が商売をしていると言っていたから、これを販売しているのかなとまで推理していた。

「これ、よかったら差し上げます。今日のお礼と色々なことに感謝の気持ちで」

「ええ?私そんな感謝されるようなこと何もしていませんよ??」

また私の声がでかくなる。そう、何かとでかいのだ。それを結構気にはしている。身体もでかい、手もでかい、胸もでかいけど、胃袋もでかい。お尻もでかいなら足もでかい。そして声もでかい。きっと居酒屋とかで友達とかと話して酔ったり興奮してきたら一番でかい声を店で出しているだろう。そのくせ土壇場では気が小さく、打算的で逃げ出してしまう。


「それに私の方がいっぱい知識をもらったのに‥‥」

そう、今日だけで私は簿記一巡という、本来には試験にはあまり関係ないのかもしれないけど、簿記上の数字の流れと、どんなふうにお金が流れて行って企業を構成していくか、経営者は資産と集めたお金、借金と税金をどう判断して采配を振っていくのか、と言った、経営の一部分でかつ実務上の大切な考え方を学べた気がした。


そして何より下世話なお話。本当に良い男と過ごせたこの素敵な時間が私を全部ではないし、ほんの少しかもしれないけど、私を癒してくれた。あんなに腐っていた私のメンタル。特に男に対して‥‥私に、江崎君がいっぱい有り余る繰越剰余愛からの配当愛をくれた。よって私の


《心の中のお金に代えがたい資産》×× /《江崎君からの繰越剰余愛からの配当》××


が加算されて、損益勘定のマイナスが少しだけ打ち消されて、私の見えない未来や繰越剰余愛のマイナスが同じように少しだけ打ち消された、そんな気がした。



――――良い男と過ごすメリットをひしひしと女として感じた。知識も心も‥‥そしてこれはおまけみたいな部分で常にそうではなくていいところだけど、経験や財もプラスになる。だって今日、こんなおいしいタルトを食べて、私からは一円も出していないから。先払いだったからね、現物支給といったところかしら。



ひょっとしたら彼は嘘つきかもしれない。この後、私をまた騙す男なのかもしれない。だから願うならば今日はこれで終わって欲しいなあ。


「僕の方こそ、鍵拾ってもらって‥‥さらに帰りに簿記が分からないから、教えるという事にして、実は自分も再度勉強したことの確認をさせてもらって、本当に感謝しかないですよ。よかったらこれ受け取ってください。これは僕の家で代々お守りとして使っているものなんです。『組紐』なんですけど。それを僕の親の代から『これだけを改めてお守りとして持つのは非合理的だ』って言って、キーホルダーに作り変えたんです。手作りなんですよ、だからあんまり上手にできていないかもですが‥‥」

「え?これ手作り‥‥ええ?そんなの私がもらっていいんですか?」

「ええ、青にしようか赤にしようか、迷っていたのを結局僕、青にしたので、赤が残っちゃったんですよ。だから余りもので申し訳ないんですけど‥‥」

「いえいえ、すごくキレイで、上手にできていると思います。あの‥‥換えに持っておけばいいんじゃないですか?」

そうだ。赤と青なら気分で換えればいいかと。

「いいえ、また自分で作れるので」

ああ、そうかあ。手作りだからまた作れるのかなあ‥‥こんなことができるんだなあ。


じゃあ、もらい受けるハードルはそんなに高くないのかなあ‥‥なんて厚かましいことを考えてしまう。

知識をもらって、イチゴたっぷりのタルトを食べさせてもらって、珈琲までいただいて、その上、こんなにキレイなキーホルダーまでいただいて‥‥



『ラッキーアイテムは、組紐のキーホルダー』

朝の占いが、甲高いアナウンスの声が、頭の中で蘇る。


本来なら厚かまし過ぎて遠慮をしなくちゃいけない。けど、、、ラッキーでありたい。


ここ数年ヘドロみたいな季節だった。スクールカーストが終了してから本当の自分が、なんぼのものであるか、嫌なほど思い知らされた。勿論自分が招いたことだった。今まであった剰余金を使い果たしたのと同じことだった。だけどそこに気が付けなかったのは自分が調子に乗っていたせい、これもまた自分のせいだ。


だけど、だけど、幸運が欲しい。


「じゃあ‥‥ありがとうございます」

私はもう一度、素直に幸運に手を伸ばした。

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