簿記上の会社、角谷亜香里商店始めました
あまりに私の頭の中の答えを言い当ててくれたので、嬉しくなってため口かつ彼を右手で指差してしまった。
――――王子様になんてことを。
控えおろう!!と怒鳴られて玉砂利の上で土下座ついて頭下げてなきゃいけない気分‥‥それは日本の時代劇か。
彼がおかしそうに笑う。全然私のことを「失礼なやつだ」とか思っている気配は感じない。むしろ楽しんでくれている気がする。けど調子に乗っちゃいけないよね。
「これは間違いだからすぐに分かるんですけど、僕の場合、第二段階はあながち間違わないんで質が悪い。右に事象、左に原因、と思っていたんです」
「事象?原因?」
「例えば
《現金》一〇〇 /《受取手数料》一〇〇
これは仕訳的には正解なんですけど、これ僕、以前は『現金が一〇〇円儲かりました。その理由は受取手数料が一〇〇円です』と解釈していたんですね」
ノートやテキストを見渡してみる‥‥確かにこれは正解の仕訳だ。第一段階の仕訳などどこにも書いていない。受取手数料が右に書かれて儲かっているのには違和感があるが、これが正解の仕訳だとすれば、確かに考え方としては江崎君の言う通りになる気がする。
「でもこれだと、やはり仕訳を切るにあたって限界が来るときがあるんですよね」
「そうなんですか」
「で、最終的にはさっき言いましたホームはどちらか。ホームに数字が入れば加算、反対なら減算、といった考え方が一番しっくりきましたね」
「ええ~それ一番大変そうなんですけど」
そう、ちらっとテキストを見たところに一覧表のようになっている勘定科目の数‥‥こんなの覚えてられないぐらいあるのに。
「実はそれ、意外と簡単に覚えられますよ。確かに難しいやつもありますけどね。『前払費用』なんかは費用って書いてあるのに資産勘定だったりしますからね」
「どうやって覚えるんですか?」
「一つは問題を解いていく中での慣れ、ですね。たくさん解いて行けばそういうもんだ、というのが定着していく。後はだいたいはこの子たち‥‥」
彼は再びルーズリーフの空いているスペースに文字を書いて行った。その文字は一番上に「資産勘定」とあって、順に、現金預金、売掛金、貸付金、未収金、建物、車両、備品、土地、、、あと曲者と書かれて、前払費用、宣伝広告費と書いた。
「これが資産勘定の代表的な子たちです。他にももっといっぱいあります。テキストなんかはいっぱい書きすぎているぐらい書いてありますがだいたいこんな感じ。これってこちらの‥‥」
さっき書いた負債と資本を指差す。細長く中性的な指先に整えられた爪、本当に少女漫画で主人公の頬に触れる指先そのものだ。
そんな感嘆している私を余所に、耳の奥をくすぐる低めの声で、説明は進められていく。
「負債と資本のところで集めたお金で、簡単に言えば買ったものたちや、手に入れた権利、って感じしません?時にはまだ使っていないお金そのものだったりとか‥‥」
ふむ‥‥現金預金なんかは確かにそうよね。会社が出来立ての時だとしたら、
《現金》一〇〇 /《資本金》一〇〇
しかなかったりするのかな。そうだとしたら『会社に社長さんが投じたお金一〇〇円が現金として残っているよ。それは社長が自腹で入れた出資金一〇〇円なんだよ』ということかあ。待て待て。。。そこから会社の営業用の車、車あった方が遠くまで営業できるし、荷物も運べるぞと思って車を買いました。その車が二〇円だったとして、ええっとええっと‥‥
「これ、たとえば会社を一〇〇円で始めたばかりで、現金預金が一〇〇円と資本金が一〇〇円だとしますよね」
「はい」
「で、車が営業用で欲しい、それが二〇円だとしたら、
《車両》二〇 /《現金》二〇
という仕訳であっていますか?」
「はい、その通りです。素晴らしい」
「資本」一〇〇円が「現金」としてありました。それを元手に「車両」を買いました。じゃあ今の現状としては「現金」八〇、「車両」二〇、「資本」一〇〇、ということよね。
――――あれ?なんとなく分かったかも。
「じゃあじゃあ‥‥ごめんなさい」
何か嬉しくて試したくて興奮してきた。
これはどうだ?お金を銀行から借り入れしました。一、〇〇〇円借りました。商売をするための工場や倉庫、道具を置いておく場所が欲しいから。じゃあ、
《現金》一、〇〇〇円 / 《借入金》一、〇〇〇円
となる。今「現金」は合計一、〇八〇円。ここから土地三八〇円買って、建物二〇〇円で買ったとする。じゃあ
《土地》三八〇円 /《現金》三八〇円 と、
《建物》二〇〇円 /《現金》二〇〇円 ということだ。そして「現金」は引き算で五〇〇円残っている。
つまり今は貸借対照表の左側は、現金五〇〇円、車両二〇円、建物二〇〇円、土地三八〇円。合計一、一〇〇円
そして右側は、借入金一、〇〇〇円、資本金一〇〇円、となっていて、やはり合計一、一〇〇円。右左一致している。
そしてこれらは銀行からの融資や、自分が出資した「現金」というかお金を、何に形を変えたか、つまり会社をどうしていきたいんだ?というのがこの貸借対照表の中で見えるように思えた。
「最初は自分のお金で車買って商売をしていて、そこから銀行が融資してくれたから、土地や建物を買ってそこで商売を大きくしたり、在庫を置いたり、道具を置いたり、ひょっとしたらこの建物は工場かもしれない。そうしたらそこで何かを生産しようとしているのが目に見えて分かる気がしました」
「角谷さん、もう完璧です」
「いや、それはちょっと言いすぎ‥‥」
思わず自分の顔あたりの血流が多くなったのが分かった。きっと赤くなっている。外見で褒められることは良くあったし、下心なんだろうなあと思ったことは何度もある。そういう身体だから。顔もまあ悪くはないと思うけど‥‥そういう行為がしたいだけで褒め散らかす人らの言葉が信用できなかった。けど勉強で褒められたなんて何年ぶりだろう‥‥もうずっとそんなことがなかった。予備校講師にいたっては相手にもしてくれなかったのに。
彼はそのキレイな指先を大雨の日の車のワイパーのように左右に動かした。
「いやいや、そんなことないです。僕ちょっと難しい方向から説明しちゃったなあって思って後悔していたんです。本当にごめんなさい。けどそこまで理解してくれたなら僕はもう何も言うことがありません。ありがとうございます」
「へ~~~いえ、そんな私は何も」
お礼言われてしまった。実はとても嬉しかった。ここ近年、いや、結構前からこんな嬉しさからは遠ざかっていた気がした。スクールカースト上位にいるために脅かされることなくマンネリとした日々を送ること。それは未知なる可能性に触れる喜びからも私自身を遠ざけていたのかもしれない。この喜びはさらなる疑問を私に投げかけてきた。
――――でも待ってよこれ‥‥儲かった儲かってないが分からないというか、そもそも‥‥
「でもこれって、商売まだしていませんよね」
「そう、そうなんです。準備が整ったってところでしょうか。じゃあ実際に商売をしてみましょう」
私はきっと今まで感じたことのない良い波に乗せられた気がした。
「はい」
きっと、私、凄く笑顔になっていた。
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