問題編 5 朝
目を覚ますと部屋の中には異様な静けさが漂っていた。薄暗い朝の光が曇り硝子の窓から差し込んでいる。窓は一枚だけ嵌められていて開くことが出来ない。
目の前の景色がいつもと違い、自分の状況を思い出すのに少し時間がかかった。部屋の扉には鍵があったけれど薄い板で出来たような扉は簡単に破ることが出来そうだった。
時計を確認すると時刻は七時だった。
正午に死体を滝壺に投げ入れることになっていたのでまだ、時間はいくらでもあった。朝食は九時に取ることになっていたのでもう一度横になることもできた。
掛けておいた狩衣に着替えて下に降りると部屋には誰もいなかった。途中まで行われた朝食の準備に藤堂は自分のために茶を入れた。マッチを擦って新聞紙に火を点け、薪に炎を移す。一度火を起こしてしまえば離れることができない。一刻も早くこの館を離れて風呂に入りたいところだった。
物置には一応風呂用のドラム缶が置かれていたが、全く入ろうとも思わない。誰がいつ持ち込んだのかも分からないものが倉庫には大量に入っていた。昨日の夜に一人で調べてみると火打石や灯油のような品物から薙刀や木刀なども持ち込まれていた。
一人で武芸に打ち込むためには最適なのかもしれない場所ではあった。
一人で火を見ていると扉が静かに開いた。早希が食堂にやってきた。時刻は七時二十分だった。食堂の時計と藤堂の時計は両方ともずれていない。既に彼女は身支度を整えていて礼服姿となっていた。
「おはようございます。体調の方はどうですか?」
早希が尋ねる。昨夜に気分が良くなかったので薬がないか灯紗と早希の部屋を訪ねていた。
「良くなりましたよ」
「朝食の支度はされていないのですね。手伝った方がいいのでしょうか」
早希は首を傾げる。朝食は玄米と汁物だけで済ますことになっていた。藤堂は料理はそれほど得意ではなかったが、火を起こして鍋で米を炊く方法は知っていたため、一人でも全員の食事を用意することが出来た。
「あまりにも作業が途中ですがどういうことなのでしょうか?」
早希はさらに首を傾げる。野菜は洗われていて、米は水に浸されていたが、火にはかけられていなかった。
「火は藤堂様が?」
「ええ」
ここに火打石しかなければ火を起こすことはできなかったが、使えるマッチが用意されていて助かった。
「何か途中で呼ばれたのかもしれませんね」
「そうでしょうね。料理をするのはやめておくことにします。別の料理を作る予定であれば申し訳ありませんから」
早希はテーブルへ戻ってきた。
「正午に間に合えばいいのでまだ、他の五人は寝ているかもしれません。儀式については儀式の間にすることは決まっていますが、それ以外は何も指定はありませんからね」
藤堂は言う。先祖代々から引き継いだ冊子には詳細な儀式の手続きが記されていたが、前日にしてはいけないことなどの決まりは書かれていなかった。風習には一年前からしてはいけないことがあるようなものまであるのにこの儀式は手順通りに生贄を捧げれば基本的には自由だった。
「お茶だけ入れようと思います」
早希は急須に茶葉を入れて鍋に水を入れて消えかけていた火に薪をくべて火の勢いを強める。
「昨夜は眠れましたか?」
「ええ、大丈夫です。何よりも土壁が丈夫に作られているおかげであまり音も聞こえませんでした。逆に不気味なくらいでした」
この建物がこの地に残り続けているのはあまりにも頑丈に作られているからだった。どれほどの人数と資金があればこんな建物が建てられるか分からない。
「よく眠れたのであればは何よりです」
五人は降りてくる気配は全くなかった。藤堂は上を見上げる。
「お茶が出来ましたのでどうぞ」
藤堂は湯呑を受け取るとそのまま口を付けた。
「本当にいい茶葉だね。全く」
藤堂は言う。龍宮家の財力はこの建物の至る所に感じる。寝具も数度しか使わないにも関わらず上等なものが用意されていた。
「それで私はどうしていればいいですか?」
「特に何もしなくてもいいと言われても困るだろうから、帰りの支度の準備だけ。といってもすることはないでしょう。昼食の用意をしていただいてもよろしいでしょうか」
狩衣も正午の儀式が終わるまで脱ぐことはない。昼食に関しては儀式が完全に終わっているため何も決まりはなかった。死体を滝壺に投げ込んだら、儀式は終了だった。
灯紗が食堂に来た。少しだけ酒が残って気だるげだったが、昨日の赤い儀式用の着物に着替えていた。
「おはよう。ずいぶん早起きなのね」
灯紗は藤堂がいることに目を丸くする。
「そうですね。目が覚めてしまいました」
「体調は大丈夫かしら。突然、悪寒がすると言ったから儀式が出来なくなると心配したのよ」
「ええ、起き遣いなく」
藤堂は頷き、自分の身ではなく儀式の成否のことを心配していることに遅れて気が付いた。
「他の皆はまだ来ていないの。私に炊事仕事ができないなんて知っているのにね」
灯紗は炊事場を覗きながら尋ねる。昨日も一度も彼女は台所に立っていない。四人はそれぞれ役目を持って炊事作業をしていたが、誰も何も言わなかった。
「まだ、見ていません」
早希は首を横に振った。
「そうなのね」
灯紗も炊事場に入った。
「橙莉が出来る準備をしてくれたのね。今いないとなると山菜でも取りに行ったのかしら。山で草花を摘むのが好きですからね」
灯紗は一人で頷いていた。
「お茶を飲まれますか?」
早希は尋ねる。
「暖かいのならいただくわ」
灯紗は早希から湯呑を受け取ると温度を確かめると一気に飲み干した。間違いなく火傷する温度だった。早希はその様子に目を丸くする。
「昨日はあの後はよく眠れましたか。あんなことがあったにも関わらず」
「まあ、酔いもあって眠れたよ。それに元々こうなることは生まれるときから知っていた。それに毒だからまだ酷い外傷もなく逝くことが出来て良かったと思っている」
「二人で死体を確認されていたのですか?」
早希が尋ねると二人同時に頷いた。
「昨日の夜、一緒に生贄の死体を確認した。部屋の扉を叩いて私を呼びにきた」
灯紗は言いながら藤堂を横目に見る。
「お誘いして申し訳ありません。私一人では心細かったので、一番頼りになりそうだったのでお願いをしました」
藤堂は気まずそうに頭を掻いていた。
「確かに一人で祠まで行くのは昼でも嫌なのに夜だとなおさらだ。私もきちんと確認しておいてよかったと思うよ。きちんと死んでいるかどうかは私たちにとって重要だもの」
灯紗は静かに言った。祠にあった死体は確かに死んでいた。顔に掛けられた布は呼吸によって揺れることはなかった。蝋燭の揺れる炎であることを懸念してしばらくの間見ていたが、全く動く気配はなかった。
階段を下りる音が聞こえてくる。
「あら、私は丁度真ん中の順位ね」
流季がやってきた彼女も眠たげだった。
「おはようございます」
早希は頭を下げた。
「料理はまだ途中なのね。私がやってしまおうかな」
流季は着ていた儀式のための黒い着物の袖を捲りながら炊事場へと入っていく。手順は頭の中に入っている様子で、手早く笊に入った米を取り出して、羽釜の中に入れて火の勢いを強めた。
「本当に流石だ」
灯紗はその手際に頷いていたが、全く立ち上がる気配はない。
「あなたは火の番をしてもらってもいいかしら。流石に人数不足だから。もう一人二人いればこうやって座ってもいいけどね」
流季は天井を見上ると灯紗は椅子から腰をあげて炊事場に入ると二人で米を炊き始めた。二人は見事な連携で今度は汁物の準備に取り掛かり始める。
「何か手伝えることはありますか?」
早希も遅れて炊事場に入っていく。
「食器を並べてもらってもいいかしら」
「わかりました」
「それでは私も手伝わせてもらいます」
藤堂も腰を上げて四人で準備を始めた。
流季は葉野菜を切って鍋に入れて汁物の仕上げをしていく。
「どうして橙莉様は準備の途中で部屋に戻ってしまったのでしょうか?」
早希は尋ねた。
「まあ、どうしても一人ではできないことがあるからね」
流季はそれだけ言って、汁物の味を確認した。火から外して一杯ずつ盛り付けていく。食器は木の椀もあれば土の椀も混ざっていた。
「お手伝いさんはどちらの出身なの?」
流季は盛り付けながら尋ねる。
「村の出身です」
「それなら生贄の彼女とも知り合い?」
「はい……」
早希の顔の表情は曇る。思い出したくないことを思い出しているようだった。
「それで生贄となった人の名前はご存じですか?」
藤堂は横から入って尋ねた。
「それは知らない。だって儀式にその名前は必要でないもの」
流季は言い切った。少しも罪悪感なんて覚えている気配はない。隣で会話を聞いている灯紗も当然のことのように振舞っている。
「確かにあなたたちの言う通り龍であれば捧げものに名前がついていることなんて考えもしないでしょうね」
藤堂は少しだけ皮肉めいたことを言ったが、それが皮肉としても通用していなかった。五人の巫女たちは自分たちを確かに龍の眷属だと思い込んでいる。早希は俯き何も言わなくなった。
料理は無事に完成した。
「おはよう、二人で調理していたの?」
塔那が降りて来た。二人とは対照的によく眠り、体調は良さそうだった。黄色の着物に身を包み彼女も今日の正午の儀式に向けてきちんと支度を整えて来た。
「ええ、橙莉も準備しておいてくれたから楽に仕事できた。ただ、山菜を摘みに行ったまま夢中になっているかもしれない」
流季が台所に視線を向けながら言う。
「相変わらずだな。ここは確かに山菜が良くとれる。熊もきっといるだろうから出会っていないといい」
時刻は九時になろうとしていた。食堂には橙莉と錦花がやってきていない。
「それにしても生贄はどうなっているのだろう?」
塔那は落ち着かない様子だった。ここにいない二人よりも彼女も儀式がきちんと行うことが出来ているかを気にしていた。
「昨日藤堂様と確認していて、きちんと事切れていることを確認したよ。そもそも、きちんと昨日毒入りのお茶を飲み干したはずだ」
灯紗は答えた。一杯の茶には一人の人間には十分すぎるほどの毒が入っていた。飲み干せば確実に死に至る。
「そうなんだ。確認してくれてありがとう。それにしてもあの後に二人であったの?」
塔那は尋ねると藤堂が頷いた。
「ええ、生贄の確認を一人で行うのは心細かったので声を掛けました」
「藤堂様も儀式の成功を気にしているのね」
塔那はその行動にとても満足げだった。
「私たちの村にも災厄が降りかかることになっていますからね」
「お互い大変ね」
塔那が言うと藤堂は頷いた。
「今回の儀式が終われば私たちの代は安泰だ。私たちの人生の役目は半分終わったと同じよ。少し飲み過ぎたかもしれないな」
灯紗は頭を押さえる。
「大丈夫ですか。水はいりますか?」
早希は水差しを灯紗の前に持ってきて尋ねた。
「ありがとう、私はこれだけでいいよ」
灯紗は首を横に振って受け取らず、手に持っていた湯呑を見せた。
「私はこんな時だけどよく眠れたよ。疲れていたみたいだ」
流季は大きな欠伸をする。
「そろそろ、二人を呼びに行ってくれないかい。朝食が出来てしまったからね」
時刻は八時五十分だった。塔那が腕を組んでいた。儀式の時間は二人ともきちんと守るはずなのに一向に気配がない。
「分かったよ」
流季に言われて塔那は席を立った。そして、食卓には食事が並んでしまった。塔那が部屋の前で呼びかける声だけが階段の方から遠くで聞こえる。
「あの……錦花が呼んでも返事がなくて、扉も開かなかったの。それで橙莉を呼びに行ったんだけど、やっぱり、山菜でも取っているのかしら。とりあえず、ちょっと流季と灯紗も来てもらってもいい?」
塔那が呼びに来た。漆喰で塗られた建物で音が響いたということは相当大きな声で呼びかけて、それに返事がないことを不思議に思っている様子だった。
「それじゃあ、お茶の用意だけお願いしてもいいかしら」
流季は灯紗を連れて上階へと向かった。
「分かりました」
早希は素直に頷いて、改めて茶の用意を始めた。一度、塔那が通り過ぎてもう一度二階へと上がる。
そして上階で何かを壊す音が響いた。それは扉を破っているような音だった。
悲鳴が遅れて聞こえて来た。
その悲鳴に早希は驚いている様子だった。
「私たちも確認しに行きましょうか」
藤堂を前に歩いていくと錦花の部屋の中で三人は立ち尽くしていた。昨日の儀式でも顔色をあまり変えない三人がここまで狼狽えているのは間違いなく異常事態だった。
三人の視線の先にはベッドの上で横たわる錦花がいた。その背中には包丁が突き立てられている。そして、赤黒い血は床に広がっていた。
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