序章 3 会場
廊下を通って会場へと向かう。リノリウムの床に足音は吸い込まれていく。人目につかない場所にも整備が行き届いている。探偵というものが好待遇であることが分かる。
「ここは元々劇場だったんだ。私が小さい頃ここでオペラ座の怪人を見たんだ。本当に有名な俳優さんとオーケストラが呼ばれていてね。あれは楽しかったなあ」
七海は懐かしそうな顔をした。
「そんな感じの作りだな」
森慧の祖父は観劇が好きな男で劇団を自分で運営していたとのことだった。どれほどの金額があればこんな趣味が出来るのか想像できない。
「もっとも今の方が百倍面白いけどね」
七海は一人で勝手に過去の勝負を思い出していた。久乃はその様子を気味悪がった。
「そのまま劇場にしておけば不思議な話を上演できたのに」
「森慧は新しい不思議な話が欲しいのよ。お金があるところに世界の全ては巡るようになっている。それは奇妙な話であっても同じ」
「不思議な話を集めるためのギャンブルねえ」
未だに久乃は想像ができなかった。
「森慧は不思議が好きで、私は不思議を解決するのが好きなの。だからというわけではないけれど、私たちは親友なの。二人で本当に不思議な話を探しているの」
七海は満足そうな表情をしていた。久乃が初めて見る表情だった。大学にいた時は何も満足することなんて出来ていなかったのだろう。
物語の探偵が美麗である必要なんてない。最終的に物語が解決すれば何も問題がない。しかし、興業としてヒトとモノとカネとフシギを集めるためには間違いなく七海のような人間が適任だった。
二人でどれほどの謎がこの館の中に集められて解決されてきたのだろうか。
あまりにもよく出来た互恵関係だった。
舞台袖につくと黒服の男が立っていて、進まないように動きを遮った。
「七海様はここで待機してください」
上手の舞台袖からは舞台の様子が見える。顔に道化師の面を付けたスーツの男が立っていた。そして向かい合わせに立つ衝立のある台が二つ、奥に衝立のない台の、合計三つの台が立てられていた。
「裁判でもするのか?」
「ある意味では裁判かもしれないね」
七海は一人で頷いていた。
どんなゲームなのだろうか。三つ目の証言台に誰かがやってきてその人物が有罪か無罪であるかを決めるゲームなのだろうか。ただ、それだけであれば裁判所でも受けることが出来るサービスだ。
考えれば考えるほどにこれから行われるゲームの全容は見えてこない。
「久乃様はこちらに来てください」
「僕ですか?」
「ええ、あなたしかいません」
黒服の男は舞台の下手へ久乃を誘導する。コンクリートに覆われた廊下は足音がよく反響する。
もう嫌な予感がしていた。味方であれば同じ側にいるはずだ。そして下手側には対戦相手の姿はなかった。
何より探偵にプレートのある部屋が用意されるとすれば、プレートがかかった扉は一枚しかなかった。
下手側に来ると七海が手を振った。
色々なことを気にしていると際限がないので、流れに身を任せることにした。
緞帳が上がり、スポットライトが道化師の面を付けた男に当たる。客席は埋まっていた。観客たちは顔に面を付けていた。久乃が想像する非合法の賭博場に集まるお金持ちのイメージ通りだった。
「レディースアンドジェントルメン、本日はお集りいただきありがとうございます」
会場に響く声に観客たちは拍手声援で答える。それが十秒もの間続いた。
異様な熱気だった。
「今回も素敵な謎と最高の二人の探偵をご用意して、緋色の中の真実を開催いたします。そして、司会は道化師の高野が行います」
会場がさらに沸き立った。上品な姿で椅子に座る紳士淑女が大声を張り上げている。彼らのテーブルにはシャンパングラスが置かれていて、料理が並べられていた。
久乃は古代ローマの剣闘士を思い出す。
「皆様、大変お待たせしました。まずはプレイヤーの入場です」
ファンファーレが流れる。会場の袖にあるマーチングバンドだった。会場が暗くなり、久乃の目の前にスポットライトが当てられる。
「ここまで全戦全勝。無敗の論理女王、七海玲理」
歓声が一気に上がった。恥ずかしくなるような二つ名を付けられている七海を見ると、彼女は気にすることなく歩き始めた。
「七海様っ」
「今日も素敵っ」
熱心なファンの歓声が聞こえてくる。七海は手を振って声援にこたえるとさらに声援が大きくなる。
「やっちまえ」
「暴力的な論理を見せてくれっ」
「今日もロジックで轢き殺せっ」
声援かどうか判定できない声も観客席から上がる。
七海は一切気にすることなく手を振りながら舞台に置かれた上手側の台に立った。その姿は様になっていて今からこの七海と勝負して勝負になる予感もしない。
目を凝らすとテーブルの上にはチップのようなものが置かれていた。二人の探偵による早解き対決のような物を予想する。
七海より早く解決できるかは分からないが、ミステリのルールを守って書かれた範囲であれば確実に解くことはできる。
ファンファーレが鳴り止む。そして、今度は相手の舞台袖にいた和楽器隊が演奏を始める。スピーカーで流さないところに拘りを感じる。
「奇想天外の叙述家、久乃透」
声援はあまりにも立たなかった。
「誰?」
「新人?」
「本屋で見たような名前だな」
「とりあえず頑張って」
さっきまでの盛り上がりは嘘のように一瞬で冷めていた。和楽器演奏もマーチングバンドよりも迫力がないため、さらに登場が弱々しくなる。
娯楽として声援が出ないほどに期待されていなかった。舞台の上を歩く久乃を七海は面白がっていた。
対戦相手として森慧と七海に選ばれたことが確定してしまった。七海は犯人当ての小説を手渡して試していて、正解することが出来たからこの舞台に連れてきたのだろう。
「いいゲームにしてくれよ」
「今日も七海様頑張って」
観客席から声援は止まない。観客席には文字通り紳士淑女しかいなかった。彼らはこの賭場の中では社会的な立場を忘れて娯楽に興じることが出来るのだろう。そんな客席から飛んでくる言葉とのギャップを久乃は何とか処理をする。
「それでは両者中央へ」
高野は二人に握手させた。
「よろしくね」
「これはあまりにも予想できなかった」
「今日は対戦相手として招待したの」
「どうして言わなかった?」
「探偵として参加させると言ったら、多分嫌がると思ってね」
「よく理解しているな」
探偵の真似事が出来るかどうかというよりもこの衆人環視の中に立たされていることは居心地が悪い。スポットライトの光は熱く体力が奪われる感覚がする。
「君は犯人当てが得意だろう。胸を張ってゲームに参加してね」
「もしかして、定期的に答えのない推理小説を持ってきてくれたのはこれが目的だったのか」
「そう、私はあなたをテストしていたの。書けると読めるは別問題だからね。そうでしょう?」
「そういうことか。全て納得した」
口では納得したと言ってしまったが、よく考えると納得はしきれていないと思い直した。
「いいゲームにしようね。奇想天外の叙述家様」
七海は微笑んでいた。
「その二つ名は七海が考えたのか?」
「ええ、素敵でしょう?」
「本当に奇想天外の叙述家だったらよかったと思うよ」
本当に奇想天外の叙述家であれば沢山の素晴らしい作品を生み出せているはずだった。
「それでは両者の挨拶が済んだところで、初めてのお客様もいらっしゃることからルール説明からいたします」
高野が言うと舞台の後ろにスクリーンが下りて来て、映写機から光が出て投影された。映し出されたのは今の舞台をデフォルメした図だった。
「最初に語部から不思議な物語である奇譚を聞いていただきます」
舞台に一人現れて、何か話している様子をピクトグラムで示していた。
「攻撃側のプレイヤーはテーブルの上にある赤いカードか一枚しかない黒いカードのうちどちらかを選んでください。赤色のカードであれば、白い面に偽物の推理を書き、赤色の面にその推理が嘘である理由を記入してください。黒いカードであれば白い面に本当の推理をのみ書いてください。そして、推理を書いた面を防御側のプレイヤーに示します」
高野は赤のカードと黒のカードを取り出した。彼の手元を移した映像が、会場にあるスクリーンに映し出される。
台には手の動きを隠すことが出来るように衝立が用意されている。
「防御側のプレイヤーはカードに書かれた推理について反証があれば述べます。反証がない場合は述べないでください。そして、札をひっくり返して、札の色を確認します」
高野はへのへのもへじの書いた面を裏返して赤色の面を示した。
「①反証が正しく赤色のカードの場合ゲームの続行で、攻守を入れ替えます。②反証が正しく黒色のカードだった場合は防御側の勝利です。③反証がないと宣言し赤い札だった場合、攻撃側の勝利です。④反証がないことを宣言し黒色の札だった場合、引き分けとなります。ただし、論理的に間違った発言は反則負けとみなします。例えば間違った反証を述べた場合、攻撃側のプレイヤーの勝ちですので発言の内容も気を付けてください」
今度は前もってテーブルに置いておいたフリップを客席に見せる。四通りの分岐が分かりやすく書かれていた。
「五回戦では黒のカードしか残っていないため、両者に黒のカードを配りますので、推理を記入していただき両者同時に披露してもらいます。結論が一致しているかを確認して、内容が一致していれば引き分けです。内容が一致しない場合、相手の推理の間違いを述べることが出来た場合、反証した側のプレイヤーが勝利です。また、両方のプレイヤーが反証を述べることが出来なかった場合も両者引き分けです」
プロジェクターから文字が消えた。
「ルールは分かったかい?」
七海が久乃に尋ねる。
「なんとなくは理解できた。ただ、これはゲーム的には出来が良くない。否定できないデタラメを述べればいいだけだ。真実に辿りつけなくてもいいことになっている」
このゲームは基本的に勝利するためには赤のカードを切って、誤った推理を相手に否定させない必要がある。それ以外だと相手の反証のミスを誘うしかない。
「よくわかっているね。このゲームの重要なところは私と久乃君が正しい推理をすることは求められていない」
「会場の人間は騙し合いを見に来ているということか」
「そういうこと。相手をどうやって騙して偽の推理を飲ませるか。そして相手に論理的に間違えさせるか。それだけが大切。でも大前提としてきちんと推理できないとスタートラインにさえ立てない」
「ルールは把握できた」
このゲームに勝つためには赤のカードを出して、それらしい推理を述べなくてはいけない。
「あと質問があるのですが」
久乃は手を挙げた。
「どうぞ」
高野が言ったので久乃は尋ねる。
「問題の文字数はどの程度ですか?」
「内容的には中編小説一本分でございます」
「数万文字程度の内容か」
久乃は頷いた。
犯人当ての小説を読んで意図的に犯人を回避しながら別の推理を組み立て続けなければいけない。難易度が低くないことは明らかだった。
「最初にどちらの探偵が勝利するかの予想を会場の皆様にしていただきます。勝利する探偵を予想してお手元のポーカーチップをスタッフに渡してください。ちなみにですが、予想を外した側の掛け金を予想が当たった側が出した掛け金の割合に応じて分配しますのでよろしくお願いします」
観客たちは問題も出されていないのに次々にスタッフにチップが手渡される。
「とんでもない地下賭博場じゃないか」
「勝利予想をしてもらうといくらかは手元に入ってくる。賢そうな表情をしておくといい」
「いいや、期待でオッズが下がっているかもしれない可能性を心配しているよ」
久乃は適当に答えた。
「可能性を述べるのは自由だよ。自由なだけだけど」
七海は肩を竦めた。
「じゃあ、無敗を打ち破るのだって自由だ。そうだろう?」
久乃が言うと少し会場が沸き立った。
「七海にこんなことを言う人間は初めてだ」
「面白いから賭けてやるぞ」
大穴の久乃に賭ける人間も少し現れ始めた。
「少しはそういう会話ができるんだ。でもね」
一瞬、七海の周りの空気が澱んだ気がした。
「無知でいられるのは幸福な印だ。終わるときまでこのゲームが面白いと思っていられると良いね」
「犯人当ては一回も間違えていない。きっと大丈夫だ」
「それだけではこのゲームには勝てないよ。正しいことと強いことは別だ」
観客たちがポーカーチップを渡し終わった。
「観客の皆様、勝利する探偵の予想ありがとうございます。後ほどに語部の奇譚の真相について予想していただきますので、また掛け金の用意をよろしくお願いします」
高野はお辞儀して仕切り直した。テーブルの上のポーカーチップの減り具合はテーブルによって異なっていた。全てのチップを使い切ったテーブルもあった。
「それでは皆様、大変お待たせいたしました。語部の登場です。白野早希様、どうぞ」
舞台は暗転してスポットライトが舞台袖に向けられる。そしてドラムロールトともに舞台袖から礼服姿の女性が静かにやってきた。年齢は十代後半のようだった。
ヒールが舞台を叩く音が響く。
影のある様子には何か異様な体験をしたことが伝わってくる。
久乃は長く息を吐いた。七海は顎に手を当てて準備万端の様子だった。
白野早希は前に上品に手を組んでいた。観客の方をまっすぐ見ていて、二人の探偵にそれぞれ一瞬だけ目線を向けた。
表情から何を考えているのかが全く読めない。この舞台に緊張しているのでもなければ、このゲームによる真相の解明に期待している様子もない。ただ連れられてきて話すことになった様子だった。
「それではあなたが体験した奇譚についてお聞かせください」
高野は促すと早希は手に持っていた一冊の小さくて厚みのあるノートを開いた。装丁は綺麗で古いものではなかった。
「私が体験した五龍の呪についてお話します」
高野が促すと早希は一歩前に出て口を開いた。
「正確なことを言うと私はその場にいたのですが記憶を失っています。そのため、当時一緒にいた方の手記を基にお話をします。この手記は事件直後に記憶をなくした私のために書かれたものです。私の身に起きた謎を解いてください」
早希と呼ばれた女性は探偵たちに真実を求めてやってきた依頼人だった。
久乃は改めて会場を見渡す。
身に起きた不思議な出来事を解決しに来た依頼人。
その謎を娯楽として消費する観客。
何よりこのゲームを二人で取り仕切る探偵と主催者。
目の前にいる探偵が何を考えているか分からない。
今はただ、目の前の無敗の探偵に勝つことよりも、これから語られる事件の真相を突き止めることだった。
開かれたノートに視線が落ちて、とある連続殺人事件について語られた。
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