序章 2 車中
約束した時間に七海は久乃の元を訪れた。
「スーツなんて着るのね」
久乃はスーツを着ていた。ハンガーラックの端に掛けられたまま埃が被っていたのでクリーニングに出しておいたものだった。
「身支度をしておけと言われたからな」
森慧家の一人娘にパトロンになってもらえる可能性を考えるとどうでもいいところで減点されないようにするためだった。
「服はこちらで用意すると言うのを忘れていた」
「何から何まで至れり尽くせりだな」
「こうやってスーツを着るときちんとした人間に見える。普通に働いていたかもしれないのにね」
「スーツを着るだけでまともな人間になれるのならこんなことにはなっていない。そもそもスーツを着ている人間がまともとは限らない」
「でも、決められたルールに従って生きているという点では社会の構成員としては好ましいはずよ」
「毎日これをきちんと着ることが出来る方が僕にとっては異常だ。魂を資本主義に切り売りするつもりはない」
一方で七海は久乃の家を訪れたときと同じ服だった。今にもバカンスに行きそうな服装だった。
「まあ、この服装をしているのも面白いし、このまま行こうか」
アパートから出て路上駐車してあった車の助手席乗り込む。
久乃は後部座席に乗り込む。革張りの重厚感のあるシートが久乃の体を受け止める。後部座席に取り付けられたエアコンを自分に向ける。
「ちなみにあれから原稿は進んだ?」
「もちろん」
久乃は堂々と嘘をつく。
「全く進んでいないのね」
「どうして分かった」
「部屋の様子が全く変わっていない」
久乃の頭にアイディアは出てくるけれど、紙に起こすとなんか違う気がしてしまって書き直す。そして。文字数が周期的に増減するのを繰り返した。
石田がアクセルを踏むと静粛性の向こう側に唸るようなエンジン音が聞こえた。見た目は上品だが、実際はとんだモンスターマシンだった。
「それで向かうのは何処なんだ?」
「森慧家のお屋敷よ」
「まさか、お屋敷の地下が賭場になっているのか」
「その通り」
当然違法であるが、何かしらの方法で法の網から潜り抜けているのだろう。深く立ち入る気持ちにはなれなかった。
「それでどうして誘ってくれたんだ。ただの慈善活動をするような人間にも見えない」
「ひどいな。私が慈善活動をしないように見えるのかい?」
「ああ」
久乃が頷くと七海は仕方なく口を開いた。
「まあいいや。叙述家としてどうかはさておいて、君はそれほど愚かじゃない」
「まあ、一般的な人と比較するとそうかもしれない」
久乃は頷く。試験というものに久乃は苦労したことはなかった。七海が持ってきた犯人当ての推理小説も全て読み解くことが出来た。
「探偵たちは真実を掛けて推理を披露しあうの。それであなたが役者として必要ということ」
「はあ」
未だに理解が出来なかった。探偵を賭けの対象にするギャンブルが想像できない。複数人の探偵を館の中に閉じ込めて殺人合戦でもさせるつもりなのだろうか。それならば今すぐにでも車を降りたかった。人間は体験したことしか書けないと言われてもそれは話があまりにも違う。
「ちなみに、命の危険はある?」
「それは大丈夫。もう起きてしまった過去の事件を推理するだけだから」
七海は人差し指を立てた。
「そういうことならいいか」
久乃は窓の向こうの景色を見た。市街地を抜けて山道へと入る。
「今の間は次の新作のアイディアでも考えるといい」
「そうさせてもらうよ」
久乃は腕を組んで窓の向こうを見ているとラジオのニュースが流れてくる。
「A県Q市の山奥で男性の遺体が発見されました。男性の身元は不明で警察は事件として捜査を行っております」
「相変わらず世の中は物騒だ」
七海は他人事な様子で言う。
「探偵としてそういうのは解決しないのか?」
「それはこの館でその時に出される問題次第さ」
七海は自分で依頼を探すつもりがないらしい。
「一年前にも似たような事件があったな」
Z県A市で大規模な森林火災があり、その焼け跡から不思議な建物と五人の死体が発見された事件だった。未だに犯人は捕まっておらずインターネットでは勝手に凶悪な連続殺人鬼として考察されている。
今では誰も興味を無くして、凶悪な犯人がいたとだけ結論付けて誰も何も語らなかった。
一時間ほど車を走らせると市街地を抜けて山奥に入る。山道は蛇行しているが、道は整備されている。そして、木々は整えられていてガードレールが完備されている。
その奥には屋敷が立てられていた。一般的なLDKなんかでは表すことが出来ないような大きさだった。
「想像していたよりもすごいな」
久乃は車窓から館を隅々まで見る。昔であれば王様が住んでいてもおかしくないような屋敷に緊張してしまう。
「それはそうよ。森慧家は普通じゃないもの。この館で人を集めてギャンブルなんてね」
七海は平然と言った。
車を入り口の前に停めると守衛が地下の駐車場へ誘導した。
その駐車場は異様な雰囲気だった。週末のショッピングモールではお目にかかることが出来ない車が大量に停まっている。車は途切れることなく連なっている。
彼らは今日のイベントの招待客なのだろうと思いながら、久乃は車を横目に見る。
「七海様と久乃様ですね」
車から降りると黒服の男がやってきて声をかける。
「ええ、案内してください。彼は今日が初めてなのでよろしくお願いします」
七海が頭を下げたタイミングで久乃も小さく頭を下げる。久乃には未だにパーティ以外のアイディアが思いつかない。
黒服の後ろを歩く七海の後ろを石田と並んで歩く。色々とみておきたかったけれど、あまりにも挙動不審だったため、首を動かさずに視線だけを動かす。
「どうぞ、こちらを通ってプレートの書かれた扉です」
「ありがとう」
黒服に七海はお礼を言う。扉が開かれるとそこには赤いカーペットが敷かれていた。壁には白い壁が張られていて、不思議な形の電球が光っていた。
プレートが掛けられた扉は一つしかなかった。
「それじゃあ入ろうか」
七海は部屋の中に入るとそこは控室だった。
壁には何枚か鏡が掛けられていて、フィッティングルームまで備えていた。テーブルにはお茶とお菓子が用意されていた。
「ここも至れり尽くせりだな」
久乃は周囲を見渡して、椅子に腰かけた。
石田は手に持っていた二つのスーツケースを置いた。
「これに着替えて。今の格好だとまだ人前には出られないかな」
「これでもダメなのか?」
久乃は自分の姿を見返す。
「そんな量販店で買った服だとこれからの場には立たせられない。ちなみにきちんと寸法は合わせているから安心して」
「どうやって測っったんだ?」
「君が一度オーダーしたスーツのデータを拝借した」
「本当にそんなことをしていいのか。分かった。着ることにするよ」
久乃は素直に従うことにした。駐車場からここまでで自分が一番貧相な身なりをしていることを悟ってしまったからだ。
手渡された服は和服だった。
「和服じゃないか」
「君の体形だとスーツよりもこっちの方が見栄えがいい。石田に着替えさせてもらって」
石田に背中を押されてカーテンの中に入るとあっという間に着替えさせられた。確かにサイズは丁度合っていた。生地の質感はさっきまで着ていた服と全く異なる。この一式がいくらなのか想像もできなかった。
七海は青色のジャケットに身を包んでカーテンから出て来た。フリルタイとハットを被っている。
「想像通りだ。似合っている。囲碁とか将棋とか上手そう」
「それはどうも。一番好きなのは麻雀だけどね」
「どうして?」
「負けた時は運のせい、勝った時は自分のおかげにできるから」
「ひどい理屈ね」
「自分の全ての選択の結果が目に見える形で表れて、その責任を背負わないといけない。同じ駒を使っているのに、プレイヤー次第で全く違う。自分の愚かさに一番向き合う必要がある。そんなのは自分の人生だけで十分だ」
久乃はそう言って椅子に腰かけた。
「そうだとこの後少し大変かもね」
七海はなぜか笑っていた。何を考えているのだろうか。久乃は部屋を見渡すけれど、その意図を掴むきっかけが見当たらない。
扉を叩く音がした。
「玲理、ごきげんよう」
「霧華、久しぶり」
部屋に一人の女性が入ってきた。彼女は柔らかな緑色のドレスに身を包んでいた。森慧の姿を直接見るのは初めてだったけれど、同じ人間の形をしている別の生物にしかみえなかった。
「彼が例の人物?」
「ええ、今日はきっと面白いと思う」
七海は微笑んだ。
「はじめまして、叙述家の久乃様。今日はよろしくお願いします」
目が引き込まれるような目だった。何を考えているのか全く想像もできない。それでいてこっちの思考を見透かされるような気さえする。
「あなたの次回作を楽しみにしていますよ。私はあなたのファンですから。今日の体験があなたの良い刺激になることを期待しています」
「ええ、頑張ります。すぐに書き上げます」
久乃は背筋を伸ばした。一瞬だけ何か傑作が書けそうな気がしてきた。七海は横目で冷たい視線を送る。
「それじゃあ、今日のゲーム、頑張ってね」
「ええ、いいゲームにできるようにするよ」
「また後で」
それだけ言って去ってしまった。
「彼女が森慧霧華か」
久乃は自分が緊張していたことに気が付く。
「そうだよ。本当にゲームの前にいつもこうやって挨拶に来てくれるの」
七海は笑顔だった。
「普通の人間ではなかったな」
非合法の賭博場を開く時点で普通ではないが、その張本人が彼女であることに納得してしまう。
「そもそもどうしてあんな人がギャンブルを主宰するんだ。お金を得るにしても他の手段があるだろう?」
「彼女は不思議な話、不思議な話、奇譚を集めているの。そのためだけにこの賭場は開かれている」
「奇譚を集めている?」
久乃は首を傾げる。分からないことがまた一つ増えた。
「まあ、すぐに分かるよ。説明するよりも体験する方が早い」
「分かった」
七海はそれから椅子に腰かけると目を閉じた。一流のアスリートのように集中力を高めているのだろう。久乃もとりあえず持ってきた本をテーブルに置いて同じように目を閉じた。
「七海様、久乃様」
「ぁあ」
久乃は半分意識が眠りに落ちていたところで呼びかけられて、母音が混ざったような返事をしてしまう。
七海は一気に目を開いた。自分の敗北する未来を全く想像していない顔だった。
「さて、選手入場と行こうか」
七海は推理では一切使わない手首と足首を回していた。
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