緋色の中の真実 五龍殿の殺人

紫藤雪

序章 1 招待

 キーボードに載せた手は全く動く気がしなかった。


『人間は体験したことしか書けない』


いつもであれば想像力の欠如として馬鹿にしている言葉も久乃透の心によく響く。今までのように粗製乱造でいいとは分かっているが、粗製乱造の材料さえも残っていなかった。古本屋のワゴンで雑多に売られていた資料をぱらぱらとめくってみるけれど、その値段の理由が分かるほどに内容がない。


 もう一度、古書店に資料を探しに行こうかと思うけれど、近所の古書店の本棚に何が入っているかは把握している。大学の図書館に行けば、専門的な本があって良い素材があるかもしれないことは分かっているが、勉強して古文書を読むような気概があったならこんなことにはなっていない。


 久乃透は叙述家を名乗っていた。小説家と名乗るには文学性がなく、記者と名乗るには事実とはかけ離れたデタラメばかり書いていた。その結果が狭く書類の束に取り囲まれた中で毒にも薬にもならない文章を書いている。


 大学を卒業した後、就職する気もなく進学する気もなく、煙のようにつかみどころのない生活を送っている。彼の隣にあるのは適当に作ったインスタントコーヒーばかり入れられるマグカップだった。



「久乃君、こんにちは」

 やってきたのは久乃の悪友の一人である七海玲理だった。彼女は青のワンピースでやってきた。いつも彼女は青を基調の服装をしている。ネックレスとピアスもサファイアが綺麗に収まっていた。


 定期的にやってきて参考資料として解答編のない推理小説を手渡しにくる。久乃はその小説を読んで犯人当てをして七海からバイト代をもらっていた。


 未だにどうしてこれに金銭が発生するのか久乃には理解が出来ていなかった。普通は本を読む側が支払うはずだ。一度公募の下読みかと思ったが、読んだ推理小説は一度も出版されたことはない。


 探偵をしていることは知っているが、実際の仕事の様子は見たことはなかった。そして一度も彼女から仕事の話を聞いたことはないが、探偵という仕事だけでこのアクセサリーを付けられるとは思えない。


 大学の時から知っているが全く招待不明の人間だった。


何よりも大富豪の七海家の箱入り娘として育てられた彼女が探偵なんて人の秘密を暴く仕事をしているとは想像できなかった。


 隣にはいつものように執事の石田が控えている。白髪頭ではあるけれど体格は極めてよく、袖口から見える腕は筋張っている。


「それでパトロンとして支援する気になったのかい?」


「君に資金面で援助したとしても、君の筆は進まない。キーボードの上の埃の様子から考えると君は資料を捲るばかりで何も仕事をしていない。その資料も大して面白くないんだろう。大切な資料であれば乱雑には置かない」


 ただ仕事が進んでいないことを指摘するだけでも、観察を怠らない。七海はいつだってそうだった。


「それでホームズごっこで、邪魔をするならお引き取りを願おうか。こっちだってもうすぐ仕事をしようという気分になったかもしれない可能性がある」


 久乃が手を払うと執事の目の奥に鬼が見えた。一見好々爺のような姿だが、実際は七海に触れる指を全て切り落とすような暴力爺であり、柔道、剣道、空手を合わせて十段の戦闘機械だった。


「石田、落ち着いて」


 七海が制すると少しだけ殺気が和らいだ。


「叙述家さんが新作のアイディアを生むのに助けになるようなイベントがあって、招待に来たの」


 七海は久乃の顔を覗き込んでくる。


「イベントねえ。そういうのには向いていない人間なんだ」


 第一にイベントの良さというものが理解できなかった。人間が多ければ多いほど、トラブルが増える。一つでも人生におけるトラブルは一つでも少ない方がいいと思っている。


「それは知っているよ」


「一言余計だ」


「どうせ暇でしょう?」


「二言余計だ」


「来週、予定を開けておいてね。私の友達の森慧があなたの作品を気に入って招待したいと言っていたの」


「本当か?」


 森慧家は京都の名家であり、事業拡大の結果、この世の全てを取り扱っていると言われる財閥だった。七海と仲がいいのは知っていたが、久乃の本を読んでいたことを久乃は初めて知った。


 今となっては古書店のワゴンに適当に積まれている本になっていた。七海が面白がって大量に出版した歪みが古書店に流れ込んだ結果だった。


「あの人が気に入っているのは不思議ね。推理小説として読もうとすると幻想小説成分が邪魔で、幻想小説として読もうとすると推理小説成分が気になる。逆アウフヘーベンというところね」


 七海は一人で頷く。


「もう少し人の心のある感想を述べてくれ」


「読む百宝亭」


「それはどちらかというと悪口だ」


百宝亭はスープの味が全く安定していないせいで、日替わりで出汁に使う動物を変えている、人間で出汁をとっているなど評判を呼んで一見様お断りではなく二見様がお断りする有名店だった。それでも不思議な人気があるせいで店は続いている。


「森慧と仲良くなれば彼女はパトロンになってくれるかもしれないね。彼女はお金が余って仕方がないだろうしね」


 久乃は七海の顔を見た。嘘をついている様子はなかった。


「それでどんなイベントなんだ。夏祭りとかそんなのではないだろう。そんなのを見ても何も刺激にはならない」


「行ってみてのおたのしみにするのが一番いいと思うんだけど、それだと行きたくないよね」


「もちろん」


「そこではギャンブルが行われているの。私はそのギャンブルに探偵として参加しているの。私の仕事の話一度もしていなかったよね。私はそこの専属で探偵をしているの」


「全く意味が分からない」


 探偵とギャンブルの二つの言葉の間にはネコとミシンと同じくらいの距離がある。


「気になって来たでしょう?」


「考えておくよ」


 本当は二つ返事でも良かったけれど、簡単に気持ちが揺らいだところを見せたくなかった。


「また来週迎えに来るからよろしくね。その前に身支度だけよろしくね。美容院に行ってお風呂に入っておいてね。美容院の予約も入れておいたから」


 美容院の予約の日程が書かれた紙と近くのスパのチケットが手渡された。どちらも久乃が入ることが出来ない価格帯の店だった。


「勝手に話が進んでいる。まだ行くなんて一言も言っていない」


「人生にはそういう推進力が必要な時だってあるのさ。でも、君は断れないと勝手に思っている」


「何を根拠に?」


「この部屋があまりにも窮屈だからね。それじゃあ」


 要件が済むとすぐに部屋から出てしまった。


 久乃は部屋を見渡す。窮屈というのが空間の広さについてではないような気がした。積み上げられた本の中に求めているものはなく、自分で何かを書いても救われた気分にならなかった。


 行き止まりだった。


 それに気づかないように過ごしていたはずだったが、七海は言葉をきちんと選んで久乃を傷つける。


 百宝亭に行くことにした。評判のよろしくない店に行くのは自傷行為ではなく、久乃は奇妙な出汁の虜の一人だった。あの店は基本的には五十点程度の味だが、まれに百二十点の味が出る。


 いつもその出汁を再現してくれればいいのにと思うけれど、百二十点の味はすぐに五十点の味に戻ってしまう。


 そのあたりを引いた時の感覚が忘れられなかった。

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