第5話: 遠ざかる距離

シノンは、くるみが目覚めたその日から、毎日病院に通い続けた。彼女が記憶を取り戻すのを願いながら、少しでも元のくるみに戻ってほしいという思いで、彼女と過ごす時間を大切にしようとしていた。


しかし、くるみは以前の彼女とはまるで別人のようだった。彼女はシノンに対しても距離を置き、時折冷たい視線を投げかけることもあった。親しい友人のように接しようとするシノンに対し、くるみはどこか遠い存在であるかのように振る舞っていた。


ある日、シノンは病室でくるみと二人きりの時間を過ごしていた。彼は一生懸命に彼女の記憶を呼び戻そうと、夏の出来事や昔の思い出を話し続けていた。


「覚えてるか、くるみ。夏休みに一緒に海に行ったこと。あの時、二人で夕日を見ながら色々話したんだよ。」シノンは微笑みながら言った。


しかし、くるみは興味なさそうに窓の外を眺めたまま、「ごめん、全然覚えてないわ。」と淡々と答えた。


その冷たい返事に、シノンは胸の奥が痛むのを感じた。彼女が覚えていないのは仕方ないことだと理解していたが、その態度は、まるで二人の関係が意味を失ったかのように感じさせた。


「くるみ…俺たち、ずっと一緒にいたんだよ。お前が覚えてなくても、俺にはその記憶がある。だから、諦めずに思い出してほしいんだ。」シノンは必死に言葉を紡いだが、くるみの反応は変わらなかった。


「シノン、正直に言うけど、今の私にとって、その話はただの過去の話にしか聞こえないの。あなたがどう思ってるかはわかる。でも、私は今の私でしかないのよ。」くるみは冷静に、しかしどこか突き放すように言った。


シノンは言葉を失い、ただ彼女を見つめるしかなかった。目の前にいるのはくるみだが、彼女の心はもう遠くにあるように感じた。彼女の中で何かが変わり、もう以前の関係には戻れないのかもしれないという不安が、シノンの心を重くした。


その日の帰り道、シノンは一人で海辺に立っていた。風が強く吹き、波が激しく打ち寄せていた。かつて二人で過ごしたこの場所も、今では彼にとって空虚な場所となってしまった。


「くるみ…どうしてこんなことに…」シノンはつぶやいた。彼女が別人のようになってしまったことを、どう受け入れていいのか分からなかった。


その時、シノンの携帯が鳴った。画面には、くるみの母親からのメッセージが表示されていた。


「シノン君、少し話せるかな?」


シノンはメッセージを読み、すぐに彼女に電話をかけた。くるみの母親は、シノンに何か重要な話があるようだった。


「シノン君、くるみのことだけど…実は、彼女の状態が思っていた以上に深刻なの。お医者さんも、彼女の性格や記憶が戻るかどうかは、長期にわたる治療が必要だと言っているわ。」母親の声には、深い悲しみと疲れがにじんでいた。


「そうなんですか…でも、俺はくるみのためにできることを続けたいと思っています。」シノンは力強く答えたが、その言葉には不安も混じっていた。


「ありがとう、シノン君。でも、もしも…もしも彼女がこのままだったら、その時はどうするの?」母親の問いかけは、シノンにとって答えが難しいものであった。


シノンはしばらく黙っていたが、やがて静かに答えた。「その時は…それでも、俺は彼女を支えたいです。くるみがどんな状態であっても、俺の大切な存在であることに変わりはないから。」


その言葉を聞いた母親は、「ありがとう、シノン君。それが彼女にとって、どれだけ力になるかわからないけど…あなたがいてくれることが救いです。」と感謝の言葉を述べた。


電話を切った後、シノンはしばらく海を見つめていた。彼女の記憶が戻ることを願いながらも、もしもこのまま彼女が変わってしまったとしても、彼女のそばにいる覚悟を決めた。


波が静かに打ち寄せ、風がシノンの髪を揺らした。彼は再び前を向き、くるみのもとに戻る決意を固めた。


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