沈む夕日
畳の香りに起こされる。
眠気を引き摺りつつ、重くなった瞼を開けた。
いつもの軒下。そして張り付いたシャツ。
夕日がやけにジリジリと肌を焦がしてくるのを堪えて軒下の床から剥がれた。
虫の鳴き声がやけに賑やかで、鬱陶しい。
でも、チンタラと闇の中を進んでいた時に比べりゃマシ。
「なーんだ」
さっきのは一体なんだったんだろう。
夢だったのだろうか。
だとしたら、あんな最悪な夢、二度とごめんだ。
腹立たしさがいっそう腹の中で黒く蒸され、喉を圧迫してくる。
爽やかさを求め、扇風機をつけた。
ガチャン、という音と共に「強風」の風が顔から肩までのあたりに吹きつけてくる。
そういえば、さっきの「夢」の中でこの扇風機はつかなかったな、と、ふと思い返す。
再び腹の中が黒く染まりだした。
「いや、もうよそう。」
と我を返し。
頭をふるふると左右に振る。
少しだけ、胸がふわつく。
ガガッ
しまった。
頭を振ったせいで外に振れた前髪が扇風機のプロペラに引っ掛かったのだ。
僕は急いで左手で停止ボタンを押し、右手でプロペラが掴んでくる前髪の根本を押さえた。
頭皮が引っ張られる感覚が胸に刻まれた記憶と共鳴し、胸の奥に根を張る「夢」の痛みを引き抜かんとしてくる。
「ああクソ‼︎」
なぜだか知らんが停止ボタンが作動しない。
こうなったら、線を引き抜くしかないようだ。
「なん、で、!?」
ちょっと待てよ。線が途中で途切れている。
ネズミに齧られたのか、ブチッという擬音を孕むような切られ方だ。
ではこの動力はどこにある?
「頼むから、頼むから止まってくれ…!」
両目から涙が滲み出てきた。
同時に、扇風機が止まる。
「はぁ、はぁ…」
僕はプロペラに絡んだ前髪を半ば力任せに引き抜いた。
胸の裏っかわでデカい木を引っこ抜かれたような痛みがゆっくりと回り始め、前髪を引き抜かれようとした頭皮の痛みの余韻がそれに絡みつき、飽和する。夕日にあたる体が、ぼーっと内側からも温まりだす。
涙目でその顛末を感じる僕は、眼球の表面に照る軒下の先に広がる庭の景色に優しく包まれる。
その景色に、ばぁちゃんと小さい頃の僕が、透けて映った。
シャボン玉を楽しそうに吹くばぁちゃん。
そして両手を掲げ、シャボン玉をぴょんぴょんと跳ねて追っかける僕。
あの頃と同じ夕日なんだ。
ふっと目に意識が戻った。
視線を左下に転がすと、シャボン玉の容器がそこにあった。
ばぁちゃんはシャボン玉を吹くのが好きで、いつも軒下に座っては小さいストローを咥え、まるで一つ一つに命を与えるような優しい目つきで空に吹きかけていた。
そういえば、ばぁちゃんが死んでから、この容器だけは何一つ動かしていない。
オレンジに輝く可愛らしいピンクの容器が、いつもより魅力的に見えた。
『僕もやる!』
まだ幼かった頃の僕の無邪気にはしゃぐ声が両耳にこだまする。
いつの間にかそれに伸ばしていた左手を、右手で丸めた。
視線が床に落ちる。
ばぁちゃんの生きていた頃の軌跡を、こんな僕が動かしてダメにしたくない。
なるべく、まだ世界にばぁちゃんの痕跡を残していたくて。
まだばぁちゃんが世界にいるって、そばにいるって思いたいから。
ばぁちゃんは死んだんだ。
でもそれを信じたくない。
もういなくなっただなんて信じたくない。
僕を愛してくれる人がいなくなってしまっただなんて、信じたくない。
誰よりもそばにいて、ずっと「大好きだよ」と言ってくれた人、辛い時は隣で僕の背中をさすってくれた。
でも今は、いない。
「信じたくないよ…」
あぐらをかいている両足に項垂れた。
ゆっくりと瞳が淀んでいくのを感じながら、そうしていた。
空が暗くなり、光が細かく瞬くまで。
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