第4話

「せめて着替えないと」

 何時間、夢の世界にいただろう。

 目覚めた私は、ベッドの横に投げ捨てられた帯を拾った。


 少し重い袴に若干嫌気が刺したので、私はタンスからバドミントンの練習着を取り出した。

 せめて体だけは楽になりたかったから。

 赤い晴れ着を脱ぎ捨て、英語のロゴが真ん中に入った動きやすい服を見に纏う。

 体はまるで憑き物が肩に乗っているかのように重い。

 ごはんはもう食べる気にもなれなかった。


 一口、部屋にあった未開封のペットボトルの水を飲む。

 私は少しだけ、ぼーっとした後時計を見た。

 家に入ってきた時間は分からないが、もう既にデジタル時計は八時を表示していた。

 私はパッと机の上にある携帯を取る。


 淡い期待を抱きながら私は通知を確認したが、何もない。

 はぁ。

 ため息をつきながら私はもう一度携帯をさっきの場所に戻した。


 冷静になると、やはり今日の出来事が呼び起こされる。

 もう一度眠ってしまおうか。

 そんなことを思いながら私は陰鬱な空気を外に送り出すために、カーテンを開き、扉を開けた。

 目の前に見える明かりのついた部屋にはきっと朱鷺がいる。

 もう希望も絶望もなく、私は椅子に座ってただ手を伸ばせば届く距離にあるそこを眺めているだけだった。


 見つめ続けて何分立ったかも分からない。

 私は一階に、脱ぎ捨てられた袴を置きにいこうと席を立った。

 その瞬間、窓を開けようとした彼が見えた。

 今の顔なんて見られたくない。

 だから私はすぐに両手でカーテンを閉じようとする。

 彼の顔を見るだけで、塞がってもいない傷がまた開きそうだから。


「待って!」

 夜の空に、轟く彼の声。

 私はパッと後ろを向く。

 まっすぐとした視線が、私に向かってきていた。

「話したいことがあります」


 私は彼の目の前まで、つまり窓際まで歩いていく。

 春の風の香りがふっと鼻を通り抜けていった。

「はい」


 ずっと前から、この瞬間を夢見てた。

 今度こそ私の期待している言葉がきっと、聞こえるはず。


 彼の表情は勝負師のようだった。

 それであっても優しさが、私には見えた。

 彼は少し息を吸って、口を開く。


「距離は離れるけど、手を伸ばしても触れ合えなくなるけど。毎朝一緒に学校にも行けなくなるけど、もっと佳鈴に近づきたい。

 大好きです、佳鈴」


 もっと早く言ってよ。

 私は彼の言葉を噛み締める。

 あれだけ泣いたのにまだ、瞳は雫を落とす。

 真夏の体育館で部活をしている時よりもずっと体が火照ほてっている。

 窓を飛び出て彼を抱きしめたいくらい、私も彼の欲しい言葉を言いたい。


 答えはもちろん……

 いや、待って。

 体は熱いのに、顔はおそらく青ざめているだろう。

 私は思い出した。

 この最悪なタイミングで思い出してしまった。

 自意識過剰かもしれないし、考えすぎかもしれない。


 付き合いたいのは彼の願い、でもそれが、だとしたら?


 私はあのサイトのあの文面を思い出した。

 彼が本当に幽体離脱症候群かどうかなんて分からない。

 けど、万が一それであったとしたら……


 無理だ。

 答えることなんてできない。

 私に人殺しになる勇気なんて無いんだから。

 命よりも愛を優先することなんて、出来ないから。


 登った太陽がとんぼ返りしていく。

 でも私は断りたくなかった。

 好きだから、当たり前だ。


「少しだけ待って」

 一秒が重く、早く過ぎていく。

 流れる沈黙の時間は今日の帰りの時間を思い出させる。


 そうだ。

「一緒に富士急ハイランドに行こう」

「へ?」


 朱鷺は当然、呆然としている。

 私だって、彼の言葉に対しての答えになっていないことなんてわかりきっている。

 でも、一度くらいデートをしてみたい。

 私は最後に、さようならを言うから。

 返事の先延ばしだってわかってる。

 だけど、それくらいは許してくれないかな、朱鷺。

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幽体離脱症候群の彼 友真也 @tomosinya

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