彼はとんでもなく幸せだった。そういうわけで、彼の夏休みは、彼女との会話のために使われた。また、彼女の人格を忘れず、自分のなかに維持し続けるため、彼は日記をつけていた。いや、彼が日記をつけるのではない。彼女がつけていたのだ。

7月25日(金)


今日は、豊野くんと一緒に部活に行った。「一緒に」といっても、もちろんふたりで一緒に行ったわけじゃない。豊野くんいわく、わたしは夏休み限定で豊野くんのなかにいる麗奈ちゃんだそう。わたし自身、なんでこんなことなってるのか、よく分からない。

一緒に部活に行ったっていうのはどういうことかっていうと、豊野くんが一人で学校までの道を歩きながら、わたしに話しかけてたってこと。わたしにしか聞こえない声で、次の大会がどうのとか、あいつのここがやだみたいなことをわたしに言ってくる。ほんとによく分からない。それをわたしがいうのも、よく分からないかもだけど。

でも、なぜか会話が成立してるのが、いちばんよくわからない。わたしは豊野くんによって妄想されてる、豊野くんという人間の一部のはずなのに、なぜかコミュニケーションが取れてる。しかも、楽しいのだ。すごく。

これは、豊野くんの、ある種の才能なのかなって思ってる。


と、こんな具合である。正直こんなことをするのは異常だと言う意識が彼に確かにあったはずだった。

だが、彼は取り憑かれたようにそのペンにとどまることを知らなかった。日記を書く彼の目には、彼でない雰囲気が宿っていた。日記を書いたあと、彼はその雰囲気を通して両親を見た。友人を見た。世界を見た。そして、遂には、彼女の筆跡に似せるということまでやりだした。彼は、香坂麗奈を理解したかった。そして、それは自分にしかできないことだと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る