第3話 アクアリウム
水族館は別に近くはない。
自転車を必死に転がしても小一時間はかかる。
本当なら電車なりバスなり使う距離だが、そんなもんはとっくに運行していないんだから、仕方がない。
片田舎の海沿い、寂れた町。
幸い、俺も秋野も自転車通学だったから、都合は良かった。
トタン屋根。公園。土手。橋。
見慣れた町の、夏の風景が視界を通りすぎていく。
汗ばむ身体で切る風が心地良かった。
「あ、暑、い……」
息も絶え絶え、といった様子で秋野がぼやく。
深窓育ちの印象に違わず、体力はあまりないようだ。
「だから、トピアで電動自転車、借りてくりゃ良かったのに」
「借りるって、どこから、どうやって、」
「自転車売り場から、永遠に」
「……それは、犯、罪、だからっ」
会話しながら、線路沿いの坂道をのぼりきる。
夏空に浮かぶ入道雲は綿菓子みたいに立体的で、随分と近くに見える。
五月蝿いくらいの蝉の声。
酸素を取り入れようと、深呼吸する。
夏草の匂いと蒸し暑さに呑まれて、息を吸った気がしなかった。
「夏だなあ」
坂道の先はアスファルトの熱で靄がかかったように歪んでいる。
「やっと、下り坂……」
追い付いてきた秋野がほっとしたように呟いた。
……あ。
シュー、と。空気の漏れる音がした。
「悪い、秋野」
「なに?」
「パンクした」
釘でも踏んだらしい。
前輪にまったく空気がなかった。
「ちょっと新しいの調達してくる」
「調達って、どこで?」
「そこら辺にいくらでも停まってるだろ」
「……他人の自転車でしょ、それ」
「鍵はさ、ビニ傘のボタン部分壊して突っ込むと開くんだよ」
「傘鍵っての。知らないか?」
「鍵の心配じゃなくて……それは盗難だから。犯罪」
俺の解説を制して、秋野は冷静に返した。
「こんなとこにあるチャリ、もう誰も乗らないだろ?」
「……まだ、わからないよ」
「じゃあ、どうすんだよ。歩くのか?」
「もう、あと少しでしょ」
「つっても、このクソ暑い中で…………あ、それじゃあ線路を歩こう! その方が早い」
「鉄道営業法違反」
「いいだろ、もう営業してないんだから」
「廃線だよ、廃線」
「………………」
お堅いなあ。
悩んでいる様子の秋野を放って、背の低い柵を乗り越えた。
線路の真ん中に立ってみる。
当たり前だけど、ずっと先まで障害物はなくて、見慣れない景色に不思議な感覚がする。
「どこまで続いてるんだろう」
いつの間にか、秋野も線路内に入ってきていた。
「さあな、とりあえず駅には着けるだろ」
躓かないように、注意深く線路上を進む。
鉄のレールと、敷き詰められた砂利。
初めて歩く線路は、意外にも歩き易かった。
何より、冒険しているようでワクワクする。
「悪いことしてるみたい」
落ち着かない様子で秋野が呟く。
「だからいいんだよ」
「やっちゃいけないことほど、やってみたら楽しいんだ」
「そんで、やれって言われることほどつまんねーの」
「……勉強も?」
「そりゃ代表格だよ」
「少なくとも、俺にとっては」
「でも、うちの学校、進学校なのに」
「それは、まあ……。こんな俺にも、勉強大好き真面目くんな時代があったんだ」
「ふぅん?」
あからさまに疑いの視線を向けられる。
目が雄弁に「うそだ」と言っていた。
「嘘じゃねえよ。受験まではちゃんと勉強してた」
「ただ、その後で本当にやりたいことに気づいたってだけ」
「やりたいこと?」
「ボーイズ・ビー・アンビシャス!
「男の子には大いなる夢が必要なんだよ」
……今となっては、もう何の意味もないけど。
こんなご時世だ。
俺の投げやりな言葉に察するものがあったのか、秋野はそれ以上は追及してこなかった。
代わりに、小さくこぼす。
「私は、やれって言われたことをしてる方がいい。……その方が、楽だから」
「楽?」
「だって、レールを外れた道を歩くのは怖いでしょ?」
遠く、線路の果てを見つめて、秋野は途切れ途切れに言葉を続ける。
「……私は何の取り柄もないから、勉強くらいはできなきゃいけない」
「でも要領が悪いから、ひとの倍、努力しなきゃいけない」
「そうしなきゃ、幸せになれないから」
「…………」
「いい大学にいって、一流企業に就職して、家柄のいい相手と結婚するの」
「それが、私の幸せなんだって」
「それ、誰かに言われたのか?」
「お母さんがいつも言ってた」
でも、と秋野は続ける。
「だとしたら酷いよね」
「幸せを決めつけられることが?」
「ううん」
俺の問いに、小さく首を振る。
「……そうやって敷かれたレールの先が崖だったら、どうしたらいいんだろうって」
遠くを見つめる顔は寂しげで、俺は踏み込むのを躊躇う。
……崖、か。
「でも、道が続いてないって、わかってても止められないの。落ちるまで進み続けるしかない。……それしか、してこなかったから」
恨み言のように、独り言のように、ここにいない誰かにぶつけるように。
秋野は言った。
「いつだって、私の前にはやるべきことが積み上がってて、それをこなすのに精一杯で。いざ自由になっても……やりたいことって言われても、何も思いつかない。私、空っぽなんだ」
「やりたいことはなくてもさ、好きなことならあるんじゃないのか?」
思わず、声が出ていた。
「え?」
「あー……教室で鼻唄、歌ってただろ」
「聴こえてたの?」
秋野は頬を赤らめる。
初めて見る表情が新鮮だ。
場違いな感想を抱く。
「歌とか、好きなんじゃないの?」
「……それは、嫌いじゃないけど」
「上手くないし、流行りの曲も知らないし」
「関係ないだろ。好きな気持ちに、上手いとか下手とか」
「人生は短いんだ、やりたくもないことやってる暇なんてないんだよ」
何でこんなにムキになっているのか、自分でもわからなかった。
ただ、言葉が止まらない。
どの口がそんな綺麗事を、と心の中の自分が囁く。
顔が熱くなる。
どうにか、冷静を装って言った。
「例えばさ、花に水やってたのも、やるべきことってだけなのかよ」
意表を突かれたように、秋野は目を丸くした。
「……コスモスのこと?」
「あれ、コスモスだったのか」
「そうだよ」
「夏の花?」
「ううん。夏咲きの品種もあるけど、コスモスは秋の桜って書くの。だから、秋に咲く花。短日性って言ってね、秋になって日が短くなってきたら咲くんだ。……だから、あの子は他の子より少し早く出てきちゃってる」
「それは、何か問題あんの?」
「花は気温が大事だから、枯れちゃうかも知れない」
「なのに水やりしてたのか」
「うん、なんか放っとけなくて。……本当はね、健全に育てるためには苗も間引かなくちゃいけないんだけど」
自分を見てるみたいで。
秋野は小さく言った。
「あの花が咲いたら……ううん、あの花を咲かせてあげられたらいいなって……思った、のかな」
言いながら、混乱した様子で首を傾げる。
「私でも、綺麗な花を守ったり、咲かせたり、できたらなって」
「つまり、義務感だけってわけじゃないんだろ」
「最初は美化委員の仕事ってだけだったけど……。うん。花は、好き」
風が吹き抜ける。
夏の匂いがした。
「ほら、サカナクン? とか……好きなこと、他にもあるわけだし。そういうとこから見つけていけばいいんじゃねえの」
「サカナクンじゃなくて、おさかなくん。……でも、そっか。そうだね」
水族館、楽しみ。
そう言った秋野は相変わらず無表情だが、足取りは軽やかだった。
*
無人の駅について、線路脇の非常階段からホームへ上がった。
改札を乗り越えて、北口から外に出る。
すぐに大きな建物が見えた。
「水族館だ」
「ったく、やっと日陰だよ」
「お魚、いるかな?」
「……どうだろうな」
軽い気持ちで提案したが、誰も管理してないとなると望み薄かも知れない。
正面玄関の自動ドアが開く。
少なくとも、電気は生きているらしかった。
空調によって適度に冷やされた空気が身体を包み込む。
律儀に学生料金を置いていく秋野に習って、受付窓口に向かう。
……ん?
「何だこれ、貼り紙?」
窓口のガラスには『エサやり中!カゴにお金を入れて中へどうぞ』という文言と、下手くそな魚のイラストが描かれていた。
「これ、まさか営業してる?」
「……みたいだね」
冗談だろ?
「とにかく、入ってみるか」
*
「……こりゃ、珍しい。お客さんかい?」
水族館に入ると、作業服でバケツとブラシを持った、いかにも飼育員と思しきくたびれたオッサンが立っていた。
「こんにちは」
秋野が挨拶すると、オッサンは嬉しそうに目を細めて「こんにちは」と返した。
「高校生?」
「はい。……まさか、水族館が営業してるとは思いませんでした」
「ハハ、そうだろうね・町中どこもシャッターだらけでね。最近じゃ、人っ子ひとり見かけやしない」
俺の言葉に、オッサンは人の良さそうな笑みを浮かべて「商売上がったりだよ」と嘯いた。
「ここには、他にも誰かいるんですか?」
「いいや、僕がひとりで回してるんだ。……みんな辞めちゃってね。ほんと、大変なことになったもんだよ」
「…………」
「着いておいで。魚、見るだろう?」
丁度いい。エサやりに回るところだったんだ、とオッサンは腕を捲った。
オッサンに連れられて、館内を巡る。
その仕事振りを眺め、魚の種類や特徴について解説を聞く。
飼育員ならではのちょっとした裏話なんかも交えて話してくれる時間は、正直かなり面白い。
俺は初めて、水族館を楽しいと思った。
秋野も興味津々といった様子で、熱心に水槽を眺めていた。
我が子のことを話すみたいに、魚を紹介するオッサンの声は愛情に満ちている。
館内を一周する頃にはすっかり打ち解けて、エサやり体験までさせてくれた。
「この広さ、ひとりじゃ大変でしょう」
「そうだね。……以前は、もっと活気があったんだけど。参ったよ」
言葉とは裏腹に、額に滲んだ汗を拭うオッサンは生き生きとして見えた。
俺にはそれが、酷く奇妙なことのように思えて仕方がなかった。
俺の知ってる大人は皆、こんな顔をしてはいなかったから。
一様に不幸を嘆き、理不尽を怨み、死んだように生きていた。
「こんなこと聞いたら、失礼かも知れないけど……どうして仕事を続けてるんですか? 客も、従業員もいないのに」
何の意味もないのに。
口をついて出た質問に、オッサンは驚いたように俺を見て、それから静かに答えた。
「……どうして、だろうね。実を言うと、自分でもわからないんだ」
「え?」
「人間の……僕の、エゴなのかも知れないね。魚たちを水槽に閉じ込めているのも、今もこうして世話していることも」
「エゴ、ですか?」
それまで黙っていた秋野が聞き返す。
「うん。この子たちの本当の幸せが何なのか、僕にはわからないから。ただ、ここで変わらずに過ごすことが僕の幸せだから……そうしているに過ぎないんだよ」
「幸せって……。死ぬのが、怖くないんですか」
「そりゃあ、怖いさ。でも、それより自分を見失ってしまうことの方がよっぽど怖いとも思う」
「…………」
「……そういう人を、君たちもたくさん見てきただろう?」
脳裏に、立派ぶっていた大人たちの醜い顔が浮かんでは消えた。
周囲を押し退け、我先にと逃げ出す愚かな姿。
ヒステリックな金切り声。
「僕は臆病者で、そのくせ欲張りだから……こうして見ないふりをしているのかな。
この子たちは僕の家族だから、置いていくことなんて出来ない。でも、かといって心の整理がついているわけじゃない。
……だから毎日悩むし、後悔もする。頭の中はぐちゃぐちゃだよ、ずっとね」
「…………」
「情けないだろう? 僕には、ここで変わらない日常を続けることしか出来ないんだ。
……本当は、大人がしっかりしなきゃいけないのにね」
オッサンは恥じ入るように肩を落とした。
「……でも」
思わず、言葉が零れる。
「それでも……あなたは逃げずに、ここにいる。それは、戦ってるってことなんじゃないですか」
「戦い?」
秋野が小さく呟く。
俺は言葉を続けた。
「大人は皆……自分が正しいって顔して、俺たちを馬鹿だと思って都合よく誤魔化して。だけど結局、逃げ出した。……口では綺麗事ばかり言ってても、自分のことしか考えてなかった」
「…………」
オッサンは黙って、俺を見つめていた。
「……俺たちはガキかも知れないけど、ガキなりにちゃんと考えてて、大人の嘘も誤魔化しも……そんなの全部、わかってる。
迷ってたって、情けなくたっていい。導いて欲しいなんて思ってない。本当は……、」
言葉に詰まる俺の隣で、秋野が言った。
「本当は、一緒に悩んで、後悔しながらでも……。
向き合って、側にいてくれたら……それだけで良かったのに」
「…………」
沈黙の中で、水槽の水音だけが静かに響く。
「側にいる……。いいんだろうか、何も出来ないのに。
そんなこと、だけで」
オッサンが俯き、ため息にも似た声で零した。
「もし、私がお魚だったら」
秋野の声は、どこまでも澄んでいた。
「……たったそれだけで、きっと幸せです」
オッサンは、小さく息を飲む。
「……そうか。そうかも、知れないね。
……戦い、か。
ありがとう。おかげで、何か見えた気がするよ」
礼を言うと、恥ずかしそうに頭を掻いて。
それから、魚たちに向けていたものと同じ目で、俺たちを見つめた。
「例え世の中がどんなことになっても、もし明日死ぬとしても……。
きっと、本当にやるべきことはいつだって変わらず、シンプルなんだろうね。
本当に、大切なものも」
「頑張ったね」
「……え?」
「戦ってると言うなら、君たちだって同じだ」
オッサンは続ける。
丁寧で、穏やかな声だった。
「君たちも、戦ってる。だからまだここにいる。そうだろう?」
「大したことは出来ないけど……僕はずっと、逃げずにここにいるから。大人として、せめて一緒に戦うよ、この町でね」
「…………」
「……なんて、若人相手にカッコつけちゃったかな、はは」
オッサンは照れくさそうに……だけど誇らしげに笑う。
俺も、秋野も。
何も言えなかった。
きっと情けなく、声が震えてしまうだろうから。
別れ際、オッサンは「また遊びにおいで」と笑った。
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