第35話
アキコさん。今日アキコさんと一緒にいたタマキさんはふわふわと浮世離れしていて、世事には疎そうだけれど、アキコさんはどことなく艶っぽくて鋭い。固唾を呑み込んでいると、次のメッセージが「福井彬子」さんから届いた。「ひょんなところで娘さんに会ってさ。」こちらがひた隠しに隠していた母との経緯も、アキコさんにはお見通しか。うっかり触って既読にしないようにして、私は床に座り込んだ。どのみち、母は暫く、アキコさんから送られてきたこのメッセージを読むことはないけれど。深く息を吸い込んで、どうしようかと考えていると、「福井彬子」さんから三通目のメッセージが届いた。「違ってたらごめんね!私、息子置いてちょっとだけ家出したことがあってさ。じゃ、またね!」
アキコさん、家出したことあるんだ。大人ってそんなに家出する?それも驚きだったけれど、艶っぽいアキコさんに息子がいることの方が私には意外だった。今日、保護者という雰囲気を全く感じさせずに、延々とタマキさんと女子トークを続けていたアキコさんに、息子がいるんだ。いったい今幾つくらいなんだろう。多分、アキコさんが放っておいて女子旅を楽しんでも平気な年頃なんだろうけれど。彼氏がどうのとタマキさんが言っていたから、アキコさんは今のところ、自由の身なのかもしれない。
母のスマートフォンをこっそり隠すように充電して、私は台所に向かった。祖父が冷蔵庫から野菜を取り出して、まな板の上で切る準備をしていた。薄い水色のデニム地のエプロンを祖父はつけていた。私は祖父に後ろから近づいて、祖父に尋ねた。
「おじいちゃん、何か手伝うことある?」
家では母にそんなことを尋ねもしないのだけれど、いま私は祖父に急遽泊めて貰い、お小遣いを貰い、送り迎えもして貰っている身だ。
祖父は背後から声がしたことに少々驚いた表情で振り返り、「おお、キワちゃん、手伝ってくれるか?テーブルの上を拭いてくれんかね」と答えた。
「分かった。」と私が答えると、祖父が「これが布巾。」と濡れ布巾を私に渡して、テーブルの方を「あそこの上。」と指差した。テーブルの上には祖父に届いた葉書や、先ほどコーヒーを飲んだカップが置いてあり、先にテーブルの上のものをどかす必要があった。祖父が誰かに宛てた走り書きの葉書も混じっていて、「ご活躍のようで何よりです。おかげさまでこちらも競技役員を続けています。週末、孫が泊まりにきてくれました。」と書いてあった。祖父、ありがとう。突然現れて、送り迎えして貰って、一緒にスーパーに行って、ご飯を食べているだけだけど、「きてくれました」と書いてくれてありがとう。
ふと、振り向くと、母方の祖母の顔写真が飾ってあるのが目に入った。祖母本人が右斜め前に僅かに首を傾け、静かに微笑んでいる。
母方の祖母の顔を、私は数枚の写真でしか知らない。祖父の家に飾ってある写真と、中学生くらいの時の母が、母の妹と、祖母と写っている集合写真。祖母といっても、多分今の母よりも若いくらいの年頃の時の写真で、「おばあちゃん」というより、どこかの知らない保護者に見える。その祖母は、私が生まれるより前に亡くなっていて、母が、自分の母、つまり祖母とどういう関係だったのか、私はさっぱり知らない。多分、母は、どちらかというと祖父に似ていて、祖母の写真を見て、血が繋がっている人なんだと、正直今まで思ったこともなかった。改めて、計算上、自分の遺伝子の四分の一が、この祖母に由来していると思うと、知らない贈り物で自分の体ができているような、何か不思議な気がした。
そうか、祖母が亡くなっておよそ二十年、時々帰省してくる娘や孫が来る時を別として、祖父はこの家でキチンキチンと生活してきた。几帳面ながらもマイペースな性格が功を奏し、競技役員を務め、今後も米寿まで続けるつもりでいるからこそ、こうして寂しさを募らせることなく、暮らしていられるのだろう。そして、そのマイペースさの部分を突き詰めると、今もどこかでフラフラしている、あの母になるのだ。
テーブルを拭きながら、私は明日、三連休最終日、どうしよう、と何回も考えたことをまた反芻していた。学校もあるし、明日は観光して帰ると言って、朝祖父の家を出てまた紫水高校の方に行ってみようか。それで母が見つからなかったら仕方がない。私は家に帰ろう。いつまでも探していられない。母は火曜日までは仕事を休むことに今はなっている。できれば明日月曜、せめて火曜日までに、見つけて連れて帰りたい。火曜までに母が見つからなくて、母が水曜日からも仕事に行かなかったとしても、それは勝手に消えた母の自己責任だ。今だって、私が咄嗟に「コロナ」に罹患したと言ったから、火曜日まで欠勤の猶予が出来ているに過ぎない。
テーブルの上を拭き終えて、濡れ布巾を手に台所の流しの方に行くと、切った野菜を鍋に入れ終えた祖父が、明日は何時に戻るのかと尋ねてきた。
「特に決めてないけど、午前中のうちに。」私が漠然と答えると、「切符はあるのかね?」と祖父が再度尋ねてきた。そういえば特急券は別として、往復乗車券は父が買ってくれていたのを思い出し、「乗車券はある。」と私は返した。「ふーん、特急券だけ買ったらいいんかいな。」と言うと、祖父は時刻表を眺めて、「キワちゃん、10時の電車に乗ったらどうだ、おじいちゃん、駅まで送って行くから。」と勧めてきた。私はその提案に乗ることにした。「そうする。」
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