第36話

 食事の準備が整うと、私は祖父と二人で夕食を食べた。お刺身は美味しかった。祖父は食事に集中していて、時々、「キワちゃんはお手伝いしてるかいな。」とか、「学校で好きな教科はあるかいな。」と、興味があって聞いているのかよく分からない質問を私に投げてきた。私は私で、毒にも薬にもならなさそうな質問に「あ、うん。」とか「まあ。」と適当に答えた。本当は、ほとんど家で手伝いなんかしていないんだけど、そんな風に答えたら、祖父が「お母さんも仕事があるから、キワちゃんもちゃんとお手伝いして。協力しないと。」とコチラをチラチラ見ながらお説教をかませてくるのは目に見えていた。

 お風呂に入って、荷物をまとめると、スマートフォンに父から「どう?」と短くメッセージが来ていた。「特に変わりないよ。明日にはそっちに戻る。ケイは?」私も短く返信した。素早く父から返信が来た。「ケイは元気、明日何時ごろにこっちに着く?」「分からん」私は短く返した。それから、学校の部活仲間が、「明日遊べる人いる?」と部員達に呼びかけているメッセージも来ていた。私はこっちにいるし、無理とスルーする。

 布団に潜り込んで、寝転がって腹這いのまま、申し訳程度に宿題のワークブックを広げて、空欄を埋めているうちに、眠くなっていつの間にか私は寝てしまった。


 閉め忘れていたカーテンから朝日が差し込んで目が覚めた。台所の方から、祖父がガチャガチャとお皿を出している音が聞こえてきた。寝泊まりしている部屋からリビングに出ると、祖父がマグカップを持ってスリッパの音をパタパタさせながら歩き回っていた。

 「おお、キワちゃん、おはよう。よく眠れたかね?」祖父は想像した通りのことを尋ねてきた。私も曖昧に「まあ、うん。」と答える。それでいいのだ。中身よりも、挨拶みたいに声を掛け合うことが大事なのだ。


 祖父が用意した朝食を、と言っても買ってきたパンとヨーグルトとチーズを並べて、トマトやきゅうり、オレンジが切ってお皿の上に乗っているのだけれど、テレビのニュースを見ながら食べた。祖父は「もう荷物は準備できたかね。」と聞いてきたので、「うん、もう出来た。」と私は答えた。「特急券を買うなら、早めに出ないといかんな。」と祖父は時計を見ながら、「10時の電車に乗るなら9時過ぎには家を出るから。」と言った。私も「うん。」と頷いて、食器を台所の流しに運んだ。自宅でも、祖父の家でも、私がそれ以上に手伝ったことがないのを知ってか知らずか、祖父は「お皿の後片付けはいいから、歯磨きして、荷物片付けて。」と急かしてきた。まだ朝の8時過ぎだ。だけれど、案の定というべきか、歯磨きをして顔を洗って、自分のスマートフォンでいつもチェックしているサイトを見て、充電していたスマートフォンを母の分と合わせて2台回収して鞄に入れたりしているうち、あっという間に9時近くになった。

 祖父はパタパタとスリッパを履いて歩き回って食器を洗い、自分も歯を磨いたりして準備をしていた。そして自分の用意が出来ると、「はい、キワちゃん、荷物は。」と玄関から声をかけた。私も、定食屋さんでもらった紫水高校のロゴ入りキャップや、神社で頂いたお守りが入った自分のバッグを手に、それ以上、祖父に急かされないよう、慌てて玄関に出た。「突然お世話になりました。」と頭を少し下げてお礼を言うと、祖父は「はい、またキワちゃんいつでもおいでね。今度はお母さんやケイくんも一緒においでね。」と言って、玄関から出て鍵を閉めた。

 祖父の車に乗せてもらって、ものの十分ほどで一昨日到着した駅に着いた。祖父は駅前のロータリーに車を寄せて止めると、「キワちゃん、おじいちゃんが切符買うのについて行く方がいいかね?」と尋ねた。いや、ここに一時駐車している時点で、私を下ろして祖父はそのまま帰宅したいのが分かる。特急券やら指定席やら、本来なら仕組みに慣れた大人の力を借りたいところだが、今、私は切符を買って駅の改札を通るところを祖父に見られたくなかった。三連休の最終日、私は祖父が思っているようにまっすぐ帰路に着くつもりはなかった。反対方向の電車に乗って、最後の悪あがきで、もう一回、母がいないか、紫水高校ゆかりの地を見に行きたかった。

 私は一呼吸おいて、答えた。「一人で大丈夫。」そしてもう一度、祖父に「ありがとう。」とお礼を口にした。

 祖父は「そうかね、はい、気をつけて。またいつでもおいでね。お母さん、お父さん、ケイくんによろしく。」と言うと、手を振った後、そそくさと自動車を発車させた。本当はここはタクシー用の駐車スペースなのだ、仕方あるまい。いつまでこうして祖父が運転する車に乗せてもらえる側でいられるのだろう。私は祖父の車が道路の角を曲がり切って見えなくなるまで、目で追った。


 祖父を見送ってから、家に帰るのとは反対方向、紫水高校の方に向かう切符を買おうとして券売機に近寄ろうとした時、カバンの中でスマートフォンがブルブルと鳴る音がした。自分のスマートフォンはニュースやアプリの更新ばかりで着歴はない。次に母のスマートフォンを確認する。画面の表示は、「ピカピカ」という人からの着信を告げていた。

 正直、私は電話に出たくなかった。電話に出るべきではないとも思った。ただ、ピカピカという人の素性が分からず、電話に出ておく方がいいのかもしれなかった。母が消えた日、四日前の木曜日に、母の勤務先からかかって来た電話には、家にスマートフォンを置き忘れた母がかけているかと思って、出てしまった。電話をかけてきたのは母の職場の人で、母が無断欠勤していたことが分かり、私は嘘も方便で母の欠勤理由を新型コロナ罹患と咄嗟に答えた。同じように、仕事関係の人なら、電話に一応出ておいたほうがいいのかもしれない。

「はい。」私は気の乗らない暗い声で電話に出た。声の主は、コロコロ転がるカラフルなジェリービーンズのような、ほんの少し甘ったるくて舌足らずな話し方をした。

「あ、トワちゃん、お久しぶり〜。ヒカリです〜。今大丈夫?」

 なるほど、「ピカピカ」という人は「ヒカリさん」なのだ。何者かは分からないけれど。「今大丈夫?」と尋ねられたので、私は低い声のまま答えた。「あ、母の代わりに電話に出てます。」ヒカリさんはジェリービーンズのような声のまま応じた。「トワちゃんの娘さん?初めまして。ヒカリと言います。トワちゃんは?」私はなんとか声を絞り出して答えた。「すみません、母は今、電話に出られません。」ヒカリさんは残念そうな声を出した。「あー、お取り込み中?トワちゃん元気にしてる〜?」声が上擦りそうになったけれど、動揺を押さえて、母の職場に伝えた表向きの理由を私は答えた。「いえ、コロナになってて。」

 ヒカリさんは少しだけ声の調子を下げて言った。「そうなんや。お大事に〜。診断書のことで電話したんやけど、トワちゃんによろしく〜。じゃあ、失礼します〜。」私が「はい」とも返事をする間もなく、電話は切れた。診断書だと?母が勝手に職場を休んでいたから、私は咄嗟に新型コロナで高熱だと嘘を伝えたけれど、本当に母はどこかで体調を崩しているのだろうか。私の心の中が、またザワザワした。




 

 


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る