第33話
おい、母、一体何を書いてるんだよ、と頭に血が上りかけたのが、その絵馬を見つけた時の私の最初の反応だった。母が、自分の名前を「十和子」と書いているのは構わない。何故そこに「キワ、ケイ」とまで付け足す?何故人の名前を勝手に書く?母は私たちの名前を、普段呼んでいる二文字に省略し、漢字ではなくカタカナで書いて、プライバシーを守ってるつもりなんだろう。でも、アキコさんみたいに、母が年賀状をやり取りしているような友人知人や、普段顔を合わせてるような人は、こんなの誰かすぐ分かるじゃないか。別に日付も住所も書いていないから、見ず知らずの誰かがこの絵馬を見て、母と弟と私を特定はできないけれど、見る人が見れば母が書いたって丸わかりだ。
「キワ、ケイ」と先に書いて、改行して「十和子」と書いてある絵馬の左側。私は絵馬の右側を見ようとして、そっと絵馬に手を伸ばして、左手で軽く持ち上げていた。右側には、なんと、「紫水高校ありがとう!」とまず書かれていて、続けて「皆が元気で過ごせますように」と書いてあった。「元気で過ごせますように」はともかく、「紫水高校ありがとう」なんて、それは母の勝手な感謝でしかない。夏の甲子園大会が閉会したのはとっくの前なのに、紫水高校野球部関連の動画を日々見続けている母と違って、私も弟も、「ありがとう」と感謝するほど感動もしていないし、野球に興味もない。感謝を記した絵馬に、私たちの名前を書いてくれなんて頼んでない。勝手に、自分の趣味に、私の名前を、弟の名前を、使ってくれるな。
怒りと同時に、どういう訳か分からないが、突然頭の中に、最近母が延々と繰り返して聴いている、ハイトーンの男性ボーカルの曲が流れ始めた。「めくれない‥‥ 夏の日のカレンダー ‥‥」その曲のメロディーが頭の中で何度も何度も再生される。そうだよ、母の心のカレンダーは、今も夏のまま。心の景色は夏空のまま。
私も、この曲、嫌いではないけど、最初、母、この曲、声のトーンが似ているボーカルがいる、別のバンドの曲かって聞いてきたよね。違うよ、って教えたけれど、その時は「ふーん」だけで流してたよね。
この曲以上に繰り返し聴いている女性ボーカルの曲。声が力強くて伸びやかで、私もいい曲だと思うけど、こちらも夏の前は、母、誰の曲か知らなかったし、そもそも自分から聴いたりしてなかったよね。なんだろう。喩えがとてもおかしいかもしれないけど、聴く曲まで変わる、このハマり方、恋する乙女そのものじゃないか。残念ながら、母の見た目までは変わってはいないけれど。青い春、ならぬ、青い夏を追いかけて、一体どこに行ったんだよ。父は大人で、そもそも最近家に寄り付いていなかったから、ほったらかしで良いと思う。未成年の、私と弟を放り出して、一体どこに行ったんだよ。
私はもう一回ため息をついた。そして、実の親の納めた絵馬で、勝手に私の名前まで書かれているのだから、許されるだろうと考えて、母の勝手な行動の証拠として、スマートフォンを取り出して、写真を撮った。後で、母に出会ったら、突きつけてやる。「勝手に私の名前を使わないで」と。
紫水高校近くの定食屋さんと、こちらの神社と、母がどういう順番で回ったかは分からない。絵馬をもう一度眺めて、突然家からも職場からも飛び出した母の頭の中にあるのは、やはり「紫水高校野球部ありがとう」なんだな、と納得した。その「ありがとう」を伝えるために、一千万円携え、母はこちらまでやって来た。感謝を伝えるのはどうなったのか。本丸の紫水高校にもう一度行くしかないのか。
どのみち、今日は祝日で、学校は開いていない。三連休最後の明日だって同じだ。平日の木曜か金曜にこちらに到着した母は、平日のうちに紫水高校に乗り込んだのかもしれない。ただ、母もこの三連休は高校の中には入れないはずだ。まだこの辺りに連休中、潜伏しているのかも分からない。どうしたもんだか、作戦は練り直しだ。
とりあえず、一旦、祖父の家に戻ろう、私はそう思った。そろそろ、祖父に帰りに乗ると言った電車の時刻になっていた。
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