第32話

 何を願っているのか、よく分からない自分にこそ、どんな願いも叶えてくれそうな「諸願成就」という言葉が相応しい気がする。周りでは参拝客が熱心に礼拝したり、記念写真を撮ったり、絵馬に願い事を書き込んでいた。少し向こうに絵馬掛所があって、私は参拝客を縫ってそこに近づいた。手前の方に、諸願成就しか書いていない自分の絵馬を掛ける。色々、願い事が叶いますように。諸事、うまく行きますように。

 そして、先ほどアキコさんが言っていた、母が納めたような絵馬がないか、私は絵馬掛所をじっくり眺めた。勿論、干支の絵が表になっている絵馬が殆どだ。それに、数日前、恐らく一昨日として、手前に新しい絵馬が掛かっている可能性が高い。余りにひっくり返すのも躊躇われたけれど、手前の絵馬は軽く、ごく軽く捻って、裏側も見せてもらうことにした。

 まず一番上から。右から左に、背伸びしながら一枚ずつ確認する。健康や進学、仕事や学校の部活での活躍、良縁を願う人々の想いが手書きの文字から伝わってくる。見える範囲では、母の絵馬とおぼしきものはない。絵馬を掛けに来た他の参拝客達が、こちらをいぶかしそうな目で見ながら通り過ぎるけれど、そんなことは気にしていられない。母の痕跡を、手がかりを、見つけ出すのだ。

 時折じろっと私を見てくる参拝客をやり過ごしながら、二段目、三段目、四段目、五段目と確認した。こちらの面にはなさそうだ。

 次の面は下の段から確認する。五段目を左から右に。ない。四段目、三段目と確認し、一番上まで視線を進める。参拝客たちの書いた願いをチラチラと眺めながら、我ながら一体何をしているんだろう、とも思ったが、神様もきっと認めて下さるだろう。母の願いを探しているのだ。母を探して何里も遠いところからやってきたのだ。

 更に次、最初に確認した面とは反対側に行く。上の段から絵馬の確認作業だ。それにしても、ここだけであと二面に五段ずつ、少し離れたところ、おみくじ結び所の向こうにも絵馬掛所がある。あそこも四面に五段、びっしり絵馬が掛けられている。まだまだ母の納めた絵馬に辿り着けていない私は、絵馬の枚数にため息が出た。どれだけ人は願いを神頼みにするのだろう。ついさっき本殿にお参りした自分のことは棚に上げて、ため息すら出てきた。

 だけど、アキコさんとタマキさんが、少なくとも今日の二、三時間前に参拝して、たまたまパッとアキコさんの目に付いたところに疑惑の絵馬があったというのだから、そんなに分かりにくいところに掛かっている訳でもなかろう。私は一旦背筋を伸ばして深呼吸して、もう一度、分厚く重ねられた絵馬の方に向き合った。

 気を取り直して確認作業に戻る。掛けられてから時間が浅そうな、二段目の左手の絵馬を裏返す。うわああ。丁寧な楷書で「あきこ&たまき」って書いてある。これ、絶対あのお姉様方じゃないか。「幸せに暮らせますように」とシンプルな願いと、今日の日付が書いてある。これは、あの二人が納めた絵馬で確定だ。

 アキコさんとタマキさんに、朝から振り回されっぱなしだな、と、またまた頭がくらくらしかけたけれど、よく考えればこれはチャンスだ。アキコさんが母の名前が書いてある絵馬を見かけたということは、母の納めた絵馬はこの近くにあるはず。期待と緊張が入り混じって、胸がドキドキしてきた。アキコさんたちが掛けた絵馬を表向きに戻し、視線を下に落としたその時、目の中に飛び込んできたのは、下から二段目にある絵馬に書かれた文字だった。絵馬の左側に「十和子」と大き目の字で書いてある。母の書いた文字で矛盾はない。そして、アキコさんが悪戯っぽい目の輝きを見せた訳を、今、私は完全に理解した。そこには、「十和子」だけでなく、「キワ、ケイ」と、私と弟の名前まで書いてあったのだ。

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