第26話

 木曜にいなくなった母は、一昨日の金曜日に、紫水高校の周辺をうろうろしていたようだ。このお店に来た他に、どこで、何を、どうしていたのかは分からない。まだ大金を持っているとしたら、泥棒に遭っていないか、私は少しだけ心配になった。もしも犯罪に遭っていたら、何かしら報道が出ていてもおかしくない。今のところそのような気配はなかった。一昨日の母と思われる、いや、母に違いない客について、覚えていないかお店の人に聞き込みをするのも憚られた。ノートを恭しくレジ横に戻すと、私は「ごちそうさまでした。」とお礼を言って、ドアの方に向かおうとした。

 お店は客で混み合っていて、ザワザワしていたけれど、その時、無口だと思っていた店主が、再び声を掛けてきた。私が注文を待っている間、壁に貼ってある紫水高校野球部甲子園出場関係の記事を読んでいる時に声を掛けてきたから、これで話すのは二回目だ。

「お嬢さん、遠くから来たんだろ?」

 どうして分かるのだろう、と私が首を傾げていると、店主は続けた。「お母さんが紫水高校のファンなんだろ。」

「あ、はい。」私は最初に話しかけられた時と同じように、曖昧に返事をした。その間に、店主はカウンター奥の棚から何やら取り出した。それは、透明なビニール袋に入れられた、紫色の帽子だった。

「これ、お土産に持って帰りな。」

 店主はそういうと、私にその紫色の帽子を私に手渡した。恐る恐る私は受け取り、「ありがとうございます。」と冴えない声で私は礼を言った。その帽子は、紫水高校のロゴ入りのベースボールキャップだった。そしてそのキャップは、母が紫水高校の応援グッズが欲しいと言って、どこで手に入るのか、SNSで顔も知らない遠くの高校野球ファンに尋ねていた非売品で応援に行った卒業生しか持っていない品のうちの一つだった。

 受け取って、キャップの全体像を眺めて、さっきより気持ちがこもった声で私はもう一度礼を言った。「ありがとうございます。」


 私の勝手な想像だけれど、もしかしたら店主は、似た人物、それも「母」くらいの年頃の女性が、紫水高校野球部のファンを語り、数日前にお店に来たのを覚えていたのかもしれない。認めたくはないけれど、私は母に見た目が似ているとよく言われる。そして、見た目が似ていると言われる私が、こんなことを言うのも少し憚られるけれど、母は少々挙動不審だ。突然変なところで止まったり変なところを食いつくように眺めたりする。だから、奇妙な客としてお店の人の記憶に残ってもおかしくない。それでも、「もしかして私に似た人が来ましたか?」と店主に尋ねるのは流石に気が引けた。多分、母ならここで、突撃取材よろしく聞き込むと思う。それが私の知っている母だ。


 紫色のベースボールキャップを手にお店を後にすると、私が入店した時より、お客さんが増えていて、お店の外まで順番待ちの行列が伸びていた。

 


 

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