第20話

 暫く、タマキさんたちの高校時代の話になっていて気が緩んでいた私だったが、不意を突くようにタマキさんが目を細めて言った。

「ねえ、あの名前って。」

 私はタマキさんが眺めている方を見た。乗客の向こうに、紫色の横長の大きなポスターが貼ってある。「紫水高校ありがとう!」と大文字で書いてある下に、ベンチ入りした選手たちの名前が並んでいた。

「あの、左から3番目の名前って、トワちゃんが追っかけてた先輩と同姓同名だよね。」目を細めながら、細い声でタマキさんが言った。「ナカハラ ケイスケ、さん?」

 アキコさんも体を少し捻って、麗しいまつ毛をパチクリさせて、ポスターを見上げた。「あ、確かにそうかも。気付かなかった〜。」口ぶりから、二人は今夏の紫水高校野球部の試合自体にはさほど感心がなさそうだった。


 私も負けじと一所懸命、目を凝らした。そこには「中原 啓介」と書いてあった。これが母が憧れた先輩のフルネームなんだ。「ナカハラ ケイスケ」なんだ。昨日「ナカハラ先輩」という存在を知ったばかりで、氏名の名の方は知らなかった。それが、「ケイスケ」という名前で、「啓介」と書く。今初めて知って、私は耳を疑い、次いで目を疑った。あの、お猿みたいな弟と同じ名前で、同じ漢字じゃないか。おいおい、おいおい。

 そこに、タマキさんが重ねるようにフワフワした高めの声でニヤリと笑みを見せて言った。「キワちゃんの弟くんの名前、ナカハラ先輩から取ってるのかな、とずっと思ってたけど。」

「私も思ってた〜。トワちゃん、やるよね。」アキコさんが相槌を打つ。


 無論、弟は「ナカハラ ケイスケ」じゃない。「アシノ ケイスケ」だった。私はいつも「ケイ」と呼んでいた。それは母も同じだった。母が弟を呼ぶ時、弟はそこに特別な感情が混じっているように思ったことはない。


 そもそも、弟が「ケイスケ」こと「啓介」になったのには、こんな経緯がある。いや、経緯があったと父と母から聞いている。

 父の父、つまり父方の祖父は、私がもうすぐ2歳になる前に急逝している。生まれた時も父方の祖父母が泊まりに来ていたし、その後も、私は赤ちゃんの時に何度も父方の祖父には会っているらしいが、私は写真の中でしか記憶がない。

 私が保育所の一歳児クラスにいた時、父方祖父母は、私の保育所の生活発表会を見に遠方から来るために、わざわざホテルや新幹線を予約していたようだ。生活発表会の数日前に、父方祖父が朝になっても起きてこないので、祖母が見に行ったところ、息をしていなかった。心筋梗塞だったらしい。発見した祖母の驚きはいかばかりだったろうか。前の日の晩まで、機嫌よく、チビチビとお酒を飲んでタバコをふかしていた。太く短く、楽しく生きたと、祖母も含めて、周りの誰もが思っている。

 父方の祖父が亡くなった後に、弟はこの世に生を受けた。弟が生まれるのが分かった時、冗談みたいなのだが、弟の出産予定日が父方祖父の誕生日と全く一緒だった。そして、性別は男子と判明した。それを聞きつけた祖母と祖母の姉たちが、「ケイジさんの生まれ変わり」と大層盛り上がり、名前を考え始めた。具合の悪いことに、干支まで一緒らしい。ケイジさんというのは父方祖父のことで、「啓二」と書く。父の兄は「啓史」という字を書いて「ヒロフミ」で、よく自分の父と同じ「ケイジ」と読み間違えられたらしい。私の父が、しりとりみたいだが「史彦」で「フミヒコ」である。

 それならば私の弟にわざわざ「啓」の字をつける必要はなさそうなものだが、幸か不幸か、父の兄のヒロフミさんにはその時点で子どもがいなかった。干支も予定の誕生日も一緒の赤子を、ケイジさんの生まれ変わりと盛り上がっている祖母と大伯母達を、夫を亡くして祖母も寂しいのだろうと、父も母も止められなかった。弟はお腹の中にいる時から「ケイちゃん」「ケイくん」と呼ばれ、「ケイ」の付く名前の候補がどんどん送られてきた。「啓吾(ケイゴ)」「啓人(ケイト)」「啓太・啓汰(ケイタ)」「啓翔(ケイト・ケイショウ)」などなど。特に祖母たちの推しは、干支の「羊」が入っている、「啓翔」だったらしい。それにしても、チベットのダライ・ラマでもないのに、生まれる前から勝手に生まれ変わりにされた弟も気の毒である。

 父も「啓」が入る名前を考えていたようだが、「啓二郎・啓次郎(ケイジロウ)」「啓士郎・啓志郎・啓史郎・啓士朗・啓志朗・啓史朗(ケイシロウ)」あたりが候補で、自分の名前の一部、「史」が入る「啓史朗」が一推しだったらしい。


 そこに負けじと母が参戦し、「ケイト」は妹の子どもにいるからダメ、干支は要らない、読みが5文字は長い、など各候補を一蹴。その上で、字画がいいからと「啓介」と提案、日本国第31代内閣総理大臣こと岡田啓介を引き合いに出し、二・二六事件で難を逃れた、天寿を全うした、と「啓介」の長所を強調。歴史好きの父も納得し、「ケイスケ」こと「啓介」になったと、と私は聞いていた。


 しかしだ、大昔とはいえ、憧れの先輩の名前をも名付けに織り込んでいたとすれば、母、やり過ぎではないか?字画だけなら、「啓太」も一緒ではないか。源氏物語で光源氏が勝手に憧れの女性、藤壺の姪と知って若紫を拐(さら)って育て始めたような強引さだ。私は心底呆れたけれど、そもそも「啓」が付く前提で始まった名前選びで、仕方なかったのかもしれない、と思い直した。


 弟の名付けは置いておくとして。紫水高校3番の「ナカハラ ケイスケ」選手は、ナカハラ先輩と全くの別人に違いない。先輩はタマキさんや母より学年が上のはず、まあ、ざっくり言っても母と推定同世代だ。仮にだ。今、その先輩が現役高校生だったとしても、野球部員としてベンチ入りするくらいの身体能力を持ち、更に甲子園大会に出場するなんて、とても考えにくい。イチロー選手みたいに、プロ野球を引退しても高校野球女子選抜選手たちと真剣勝負して、勝つことが出来る、そんな風に、身体能力を常に鍛え上げていれば話は別だ。大人でそんな選手がいれば、間違いなく「オトナ高校球児の星!」としてマスコミに取り上げられるに違いない。いや、”オトナ”だから「オトナ高校野球部員の星!」だろうか。

 よく分からないけれども、同姓同名の選手の名前そのものに、パブロフの犬よろしく、無条件反射で母は惹きつけられたのか。私が思うに、名前はあくまで名前であって、その人そのものではない。名前は一緒でも、多分、ナカハラ先輩と、背番号3の選手は、性別以外は、全然似てないと思う。大体、ナカハラ先輩は色白だったみたいだけど、野球部員で色白って、よほど美白しているか、オフシーズンでないと、多分あんまりないよね、と学校の日焼けした野球部員達を思い浮かべながら私は思った。


 真っピンクで紫色の広告だらけの電車は、少しずつ目的地に近づいて行った。乗車駅でタマキさんに声をかけられ、一緒にこの電車に乗ってから、とんでもない情報量に掻き乱されてきた気がする。そしてたった今、私はこの、衝撃的な「ケイスケ」パンチを食らって、気分だけはもうフラフラだった。このまま、このお姉様方と一緒に終点まで電車に乗って行き、大国主命のお参りに行ったら、鼻血が出るだけでは済まないだろう。お参りのご利益より、お姉様方の毒気にやられて、脳震盪を起こして、ぶっ倒れそうな気がする。


 あと二つ目の駅で、終点だ。もうすぐ一つ前の駅に停車すると車内放送が流れた。えいや、初志貫徹だ。

「やっぱり私、ここで降ります!失礼します!」


 私は鞄を握りしめ、体を丸めて逃げるかのように電車から飛び降りた。紫水高校の最寄駅だ。タマキさんとアキコさんが不思議そうな顔をしながら、「気をつけて」「トワちゃんによろしく」と背中の後ろから慌てて声をかけてくれているのが聞こえた。遠ざかる視線に「私達、トワちゃんのこと、話しすぎたかしら?」とさざ波のように二人が言っている気がした。いえいえ、沢山話して下さってありがとうございます。面白かったし参考になりました。車体に背中を向けたまま、私は心の中で感謝した。


 

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