B side summer :プロローグ

 トワコは先ほどから郵便局のATMの前で逡巡していた。お金を送金しようか、どうしようか。丁度、来客者は少なかった。3台あるATMの前を左端から右端まで行ったり来たりして、思案していた。幸い、他の利用客が通りかかってトワコの動きを遮ることはなかった。時々立ちとまり、時々ATMに目をやりながら十分ほどは往復していただろうか。


 空いている時間とはいえ、流石に動きが不審だったのだろう。トワコが目を細めて遠くに思いを馳せながら、ゆっくり何十回目かの往復を終えた時、郵便局の局員が窓口の奥から出て、トワコに声をかけてきた。

「お客様、何かお手伝いできることはありますでしょうか?」

 トワコは慌てて「いえ、、」と一旦答えかけたが、一息ついて思い切ってこの場所に来た目的を口にした。

「あの、お金を送金したいんですけど。」

 郵便局員は、何だというように少し安堵の表情を浮かべた。痩せ型で中背、几帳面そうなその局員は、ATMの方を示しながら、声を和らげた。

「こちらのATMからも送金できます。通帳かキャッシュカードをお持ちですか?」

「あ、はい。ただ‥」トワコは言い淀んだ。「ATMからは送金できない額でして‥」

 局員は丁寧に応じた。「それでしたら、窓口からお手続きされますか?」

 覚悟を決めて、トワコは「はい」と返事をした。


 案内された通り、郵便局カウンターの横の机の上で、手元のメモを見ながら振替払込取扱票の項目を記入した。左側の払込取扱票の欄に口座記号、口座番号。送金先の加入者名。依頼人の住所と氏名。そして用紙右側の3分の1ほどの小さい方の欄、振込払込請求書券受領証にも同じように口座記号と番号、加入者名、依頼人の住所と氏名。そして、最後に息を大きく吸って、金額を2カ所書き込んだ。払込取扱票の8桁を目一杯使って、左に1、そして0を七つ。

 「お願いします」と背筋を伸ばし、直立不動の姿勢でトワコは窓口の局員に記入した用紙を渡した。「ありがとうございます」と、こともなげに用紙を受け取った局員は一瞬目を見開いて、それから表情が険しくなった。用紙を持つ指は細かく震えている。三回ほど用紙を端から端まで確認して、局員は口を開いた。「お客様の通帳をお借りしても宜しいですか?」それから、少し遠慮気味に「お客様の本人様確認書類をご提示いただいても宜しいですか?」と続けた。

 通帳の方は特に問題はない。残高は送金希望額よりも多いから、理屈で言えば送金できるはずだ。大丈夫だ。そして、本人確認書類なら幾らでもお示しする。トワコは鞄の中からマイナンバーカードを取り出し、通帳と揃えて恭しく提出した。「どうぞ。」

 マイナンバーカードの顔写真とトワコの顔を二回は見比べて、更に振込取扱表の住所と氏名と確認書類の住所氏名が一致することを三回は確認すると、局員は「少々お待ちください」と奥の方に入って行った。ベテランと思われる局員に、小さい声で相談しているのが目に入った。額が大きいのですが、流行りの詐欺ではないでしょうか、投資詐欺やロマンス詐欺ではないでしょうか、と。ベテラン風の落ち着きを備えた、丸顔でボブスタイルの女性は用紙を摘んで確認すると、サバサバした口調で「そうやね。」と答え、それに続けて、「この学校、甲子園に出てたところよね。」と言った。「後援会で寄付は集めてるやろうけど、確かに額が大きいよね。ほんまにこの額でええんか確認してみよか。あと、ほんまにこの後援会の口座の記号番号、合ってんのか。」


 ベテラン風の局員の助言を受けて、恐る恐るといった様相で、最初に応対した局員が窓口に戻ってきた。先ほどまで他の客はいなかったが、時計は午後1時を回って、一人、二人、とトワコの後ろに並び始めていた。

「お客様、こちら額がかなり大きいのですが、この額で宜しいでしょうか。また、ご送金先の口座の記号番号は、こちらでお間違いございませんでしょうか。何か送金先の口座の記号番号を確認できるものがございましたら、お示しいただきたいのですが。」

「この額でいいです。この額でお願いします。それから、送金先はこちらです」送金に難色を示されるかもしれない、とトワコは予め覚悟はしていた。そして、高校OB会が作成した、甲子園出場後援会からの「寄付金のお願い」と題した文書を鞄の中のクリアファイルから取り出してみせた。送金先が書いてある。

 局員はまず文面を上から下まで目を通した後、送金先の口座の記号番号を、トワコが記入した用紙と一つ一つ見比べながら、確認した。その間に、後ろの方で成り行きを見守っていたベテラン局員が、窓口の方に近づいてきていた。口座の記号番号の再確認が終わると、ベテラン局員が横からハキハキとした声で口を挟んだ。「念の為、ご本人確認書類と、こちらの”寄付金のお願い”の文書の、写しを取らせていただいて良いでしょうか。」

 「はい、良いですよ」とトワコは答えたが、後ろに並ぶ女性客が「額が大きい」「寄付金」といった言葉に反応して、不審そうな目でトワコたちのやり取りを眺めているのも気になった。大体、同じマンションのママも並んでいる。肩身が狭い。次の瞬間、トワコは咄嗟に口にしていた。「あ、やっぱり送金はいいです。直接、持っていきます。この額を現金で引き出します。」

 局員二人は、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔になったが、すぐにベテラン局員が体制を立て直し、上から貼り付けたような笑顔で応じた。「かしこまりました。お届けの御印鑑はお持ちですか?では、こちらの払戻請求書にご記入をお願いします。一旦、こちらはお返ししますね」

 先ほどの振込取扱票や寄付金の依頼文、本人確認書類を返してもらい、新たに払い戻し用の用紙を受け取ると、トワコは後ろに並んでいる女性客に黙礼し、順番を譲り、再度机で用紙を記入し、列に並んだのだった。


 そして、暫しの後、トワコは重さ約一キロ相当、厚み約十センチの、一千万円という大金を初めて手にした。鍵のかかるような入れ物は何も持ち合わせていなかったので、トワコはお札を無造作さにナイロンのエコバッグに包もうとし、慌てた局員が手渡した、有り合わせの大きめの茶封筒に、お札の束は収められていた。トワコは、背筋を伸ばし、まるでレッドカーペットの上を歩くかのような心持ちで、意気揚々と郵便局を出ると、大通りに向かった。駅前まで歩き、タクシー乗り場に停まっていたタクシーに乗り込んだ。


 タクシーに乗って道のりの半分ほどを過ぎたところで、そういえば、今日は午前だけ有休で、午後から職場に出勤する予定だったのをトワコは思い出した。戻らないと。遅刻すると職場に連絡しようと、と鞄の中を探ったが、スマートフォンがない。財布も、鍵も、ゆうちょ銀行の通帳も、印鑑も、そして先ほど現金にして手に入れた一千万枚の一万円札もあるのに、電話がない。これはまずい、社会人失格だ。

 その時、どこからかあざとい声が語りかけた。職場から遠く離れて、名前も仕事も忘れてしまおう。最近、仕事も忙しかった。そもそも仕事が多すぎる。さあ、行け、ワタシ。

 

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